文字で書かれた聖書 イコール 肉体を取って来られた聖書(イエスキリスト) | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書を読む上での、理解しないとならない大前提は、
この聖書が一つのものである。
どこも相互いに矛盾する箇所などはない。
旧約新約は、人が付け足した言葉 ページ。
聖書のコンセプトは違う。

そして、この書は、丸ごと、主イエスさまご自身だと
言うことが分る事。
ルカ24でイエスさまは、
トラー(モーセの五書)預言書、諸書に わたし
(イエスキリスト)の事が書いてあると
 言っておられます。

トラーは書かれた主の言葉。そしてそれがそっくりそのまま
肉体を取って来た
生きた聖書、トラーがイエスさまなのだから。

生きたトラーで ある方が、この地上に来られて、人々の間に
住まわれたと書いてある。

そう書いてあるのに、そんな風に考えた事は一度も無かった。

一点一画も変えてはならないと 言われている。
だから、どの箇所も ないがしろにし、絶対に取り除くこと
付け足す事もしてはならない。
もし、そうしたら、イエスさまを、バラバラにして
しまってるのと 同じなってしまう。

イエスさまが イエスさまでなくなってしまう!
人々は、2世紀の時からずっと そういう事をして来た事
考えてみる必要がある。

主は 時代時代に 人々への取り扱いが違うなんて 
聖書で書かれている事とは違う。


聖書のある部分は変わった、終わり、もう要らないものと 
誤解して読んでいれば、ハター=圏外=的外れに飛び出す。

クリスチャンの世界では ローマギリシャ神学哲学思想に、
徹底的に汚染された思想の上に、また聖書に、何が本当は、
書いてあるか分らないまま
読んで来てしまっている。
生け贄は?割礼は?食べ物は? いえすさまが来たから全部これ廃止!
程度にしか読まないし、そうとしか教えられていない。
しかし、しかし、しかし。。。
これが本当になんと ヘブライ語の聖書で
書かれているか分ると!
驚き桃ノ木山椒の木。ああ 主の言葉は永遠に変わらない!
と言われた言葉は変わらないんだ!と分る。


主が真実を隠してるのではない。
隠れている物を見なさい!
主の目から見なさい!
別の目(人間の教え 人造宗教 哲学神学)ではない目で。

ソドーという ヘブライ語
簡単には見つからないけど、注意深く探すと分るという意味だ。