刷り込みって、しっかり脳の中に、根を張って、
悪い刷り込みの、脳内回路を、引っこ抜かないと、
良い地にまかれた種にならない。
良い地にまかれた種とは、新しい人の、エデンの園の脳に、
かみさまの、正しく解釈された言葉が、植えられ、
しっかり根が張り、
そこから、生きる事が、出来るようになる事。
生きられる事に、気がつくこと。
例えばだ。。
こんなフレーズ 言葉
”忍耐してね。私、まだ、工事中、かみさま まだ、この人間を、
完了していない! 作業中!”
なんて、言葉が英語にある。
”Be patient. God hasn't finished with me yet!"
すごい、謙虚な言葉に聞こえるけど、神の言われる
真実ではない。
それこそ完了の業を否定する言葉。
その他、沢山の嘘のうわぬり 真実を嘘というもので
コーテイングされて、嘘というか、別物に,
主の言葉が、すり変えられている。
それを、伝え合っているから、全然気がつかない。
元が何であるか。
それが,聖書のメッセージと勘違いししまう。
賛美の中に、教えの中に、語り合う言葉の中に、巧みに
主の言葉とはずれた事を語り合えば、違う意識を生み出して
行く。
例えば、皆が普通に、使っている
律法 LAW
なんて聖書を指して使っていない、言葉。
でも、使い続ける事の、弊害に気がつく。
旧約は古い、いらない、終ったものみたいな。
終ったなんて、書いてない聖書には。
その逆です。
神の言葉は永遠に立つ。永遠不変。一点一画も廃れないと
書いてある通りを語り合うべき。
神の言葉が終ったとは、完全に誤訳誤解。
5分の4位の、聖書の土台が崩れたら、
聖書というビルは崩壊してしまう。
新約と言われる箇所も同等に崩壊するのです。
どこかの誰かさんが、この土地は、昔から
私達のものよ!と、100回言えば、そうなると言うのを、
聞いた事ある。
言い続ける。
嘘も100回言えば、本当になるって。
そんな、訳ない。
イエスさまは、偉くなりたいなら、
人に仕えるものになりなさいと
逆の事教えてる。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、
忠実、柔和、自制であって、
これらを、否定する神の教え(律法と書いてあるけど 誤訳)
はない。
ガラテヤ人への手紙 5・22-23
と書かれている。
これは、新しくされた 信じる私達の姿。
新しくされた人は、自制がある!
それが、出来るよ!と 書いてある。
普通の人は、こういう反応だと思う。
”ああ~私はこれと、ほど遠いわ。ちょろちょろしか
命が流れて来ないし、駄目クリ。”
なんて 言葉まである。
駄目な自分に、罪悪感まで,感じる。違います。
真実ではない事に耳を傾けないで、主の言葉を取る。
ずれたら、いやズレる前に気がついて”神の中”本当の
自分の戻る!
続く