祈り
ヘブライ語で
”テフィラ”
という言葉である。
よく、こんな言葉、聞いた事ないだろうか?
主の前に祈りこもう!
朝早く起きて、何時間か祈ろう!
あなたの、信仰が主に届かない、祈り足りないから。
この人は、本当に良く祈る人と人前でほめられてるの聞いて
劣等感感じた事あった。
く、く、く、苦しい。窮屈。
偉いクリスチャン~ 熱心なクリスチャン。
何時間も祈り続けるなんて、どうやって出来るの?
普通の生活じゃできない。
筋トレ100回の世界みたい。
普通の、力じゃないよ。それ。修行だ。
今は、祈りの道場まであるらしいよ。
山の中にあって、曼荼羅同様の音楽までかかってる!
あんな チャント、読経みたいな、音楽かけられたら
自己暗示、物事を考えさせなくなる。聖書的じゃない。
危ない。
しかも、断食 何日も。
断食もこれまた、取り違えられた意味でされている。
断食は、Mourning 喪に服する人がする。
後は、特別な意味のある時だけのものだ。
祈り届けられるためだとしたら、偶像礼拝と同じだ。
祈りの度合いで、神様に何かしてほしい!
イエスさまが、教えられた
主の祈り
マタイ6章
これは、イエスさまが突然あの時、アドリブで作り出した
のではなくその当時、誰でもが知って祈っていた祈り。
イエス様のたとえ話も、みな既存のたとえ話。
日本でいえば、カチカチ山や、猿カニ合戦、ウサギと亀
みたいに子供でも、理解できるたとえ話を用いて、
語っていた。それらを通して、トラーに書かれた人間の
生きる姿を教えていた。
御心が、天になるように、地にもなるように
テイフィラーだ。
大前提は、主は 御心をされる。
100%もう、御心は決まってる、ぶれない。
誰かの祈りが素晴らしいから主の、決断を、御心を、
変える事が出来るとか、自分の強引な祈りが、
主の心を動かすとかそうは、言わないけど、
そう言うことではない。
それで、主の心、御心が変わるとしたらどうなるのだろう?
10回の祈りは、足りないけど11回だと受け入れられる?
誰かが、すごい祈りこんだら、私への主の御旨が
変更されるの?それでは困る。
良いことだったら良いけど。そうじゃなければなんてね。
神の御旨ではなく、誰かの祈りにより、自分の人生が
左右されてしまったら。
これまた、宗教だ。
祈りは、主への、訴えでもあり、会話でもあり、
親しい交わりでもあり、なんでもだ。
そして、軌道修正。
そして、一番は、自分自身が、主の御心に入る、知る!
そして、大前提は、主の御心が 100%なる。
その、御心に入って行く事。それのみ。
主の御旨が 100%最善であると分らなければ、自分の願いが
一番とそう思う。
自分の願いがかないますように~。
私の祈りが足りなくて、誰かが救われなかったりとか、
物事が、うまくいかなかったり、病気が癒されなかったり。
いつも、緊張してなくちゃならなくなる。
祈り足りないから、こんな事が起ってしまったと、
思ってたらもういつも戦闘モード。
主は、私達の、祈り、行動、思索に関係なく、この世界を、
動かされ 100%の権威で 支配している。
時も、場所も、出来事も。
聖書に書いてある、祈り=テフィラー。
主と共に天の御座にいる。
そして、そこで主の目から一緒に出来事を見る。
様々な事。痛みや悲しみや、現状や。自分の訴え。
それを、一緒に主と見る。
そして、主の御旨がそのまま 地上に降りて来る
そして、それが地でもなる。。。
御心だ 全て。
御心でなくては、困るでしょう。
誰かの強引な祈りで主が しゃ~ない!そこまで
言うなら聞いてやるか!なんて、気を変えるとしたら、
どういう神様よそれって思う。
そして、誰かの祈りが足りなかったから、
祈りが届かなかった?なんか、ゲームセンターのもう少しで
UFOキャッチャーの製品が取れたのに〜落ちた〜の
世界みたい。
うっかりしてました~済みませんなんて、
イスラエルの神には無い。
親だったら、分る。
子供の最善を考える。
時には、子供は、それを理解出来ないけれど。
私達が、主の御心に入って行く それだけ。
色々な 祈り方を、書いてる人いるけど、
気をつけないと、New Age思想だ。
具体的に祈るもちろん。
そうしないと、思索がクリーアに明白にならない。
分らない。何祈ってるのか自分で、
何を考えているのか分らないでしょう。
判断出来ないでしょう。
祈りリスト作って祈りこんで、それは、私達の勝手な
願いがなるように強引にする事ではない。
祈ってるうちに、自分の祈りが変わって行く。
主の御旨、主の思索に自分のずれた思索を照らし合わせて
修正していく作業=テフィラー。
祈りのメニューなんてない。
フリーフロー。形なんて主は言ってない。
オードブルから始まり、デザートで終るとか。
もし、それを指示したら、それは、その人の
考えだという事。
そして、 絶えず祈りなさい。
一日中、主の声の中にいて、声を聞くこと。
主の言われる言葉を考える。
修行めいてない。道を歩くときも、立っていても座っていても
ずつと 主の教えを思う。
あなたが、恋愛中だったら、好きな人のこと、
言われなくても考えてるでしょう。
それと、同じ。主の中に居る事が 本当に捉えられて
その虜になった、主の愛の虜になった人は その愛する人の
言葉を、熱心に求めるでしょう。
それが、黙示録に書いてある、
あなたは、始めの愛を忘れてしまったという事。
創世記から黙示録までの、一つの主の言葉聖書=神御自身を
熱心に愛する愛がなんであるか忘れたと書かれている。
気ついてないと思うけど、一日中、自分の中で、
話をしている独り言。
これが、主の教えに照らし合わせて考えている
主の声を聞くに変わってしまったら
そして、これが祈り、絶えず祈りなさい。
絶えず、主の声の中にいなさい。ということ。
そうじゃないと、修行だよ。不可能。
主の中に、主の声の中にいるのは、苦痛じゃない。
もう ぴったりすぎて
ヌアーフ
それが、本当の人の姿。神のデザインされた人間の姿。
もう、自分に一番あって、居心地が良いからそこにいる。
それが、何であるか、分らないと
絶えず祈りなさいが 分らない。
修行にすり替わる。