ヨハネの福音書 15
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを
取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、
刈り込みをなさいます。
ある事柄は、その大前提が、きちんと把握出来ていると
ヘブライ語が全部分らなくても、理解出来る。
新しくされた TOVの存在の自分
許され続けてる罪人ではない!
エデン(喜び)の園に戻っている
天の御座の前に存在している自分
主と他者と一体に存在するように造られている
ネフィッス=完全な存在 欠けの無い姿 心魂体は
分離していない。永遠からの存在。
愛する愛される これが普通に出来る存在として造られている
主の中に造られた存在。
婚姻関係の契約にがっしり、しっかり入れられている
信じる者、救い恵み、創造のみ業、選びは100%主の
一方的な 贈り物。
救い獲得に、付け足すものは何もない。
聖書の始めに出て来る言葉、例えば 水や、一体、主の中
TOv良いと 書かれていることも、コンセプトは、
聖書全体に渡って同じ意味で、書かれている。
例えば、パウロがしきりに、85回も、
主の中に 主の中にと言っていた、書いていたのは、
あの創世記の一番始めの、2章8節。
永遠の時 創造の以前から、私達が、主の中に
造られていた事に基づいて、照らし合わせて書いている。
日本語訳では、出て来ないけど。
ヘブライ思想は、一体、円、天と地はつながっていた
存在だった事が、分ると、パウロの言っている意味も、
ぐっと深く理解出来る。
救いは、永遠の時から、もう存在していた。
そして、人間歴史のあの時点で見る事が出来る。
どの方向からも。
過去から未来から、そして永遠の時の中で。
だから、どの時代の人も救われたら直ぐ新しい人、
聖霊を受けていた。
新生体験をしたんだ。
だから、時代ごとに恵みや、神の言葉が変わると思うのは
西洋人思想、ヘレニズム分断思想。
剪定刈り込みという意味は、農家の人なら分る。
古代の人でなくても。
日本人でも。
主は、聖書は、私達に理解できること、体の部分や、
農業 天候 季節、創造物から、たとえを話して、
教えて聞かせてくれたんだ。
理解出来るように。
良い実をならせるために、良い実を付けない不必要な
ブドウの枝を、剪定する。
他の枝が、強く健康で、良い実をならせるだめだ。
神のブドウ畑では、主は私達自身を剪定する、
という言葉で、書いている。
実り豊になるために、不必要な部分を、剪定!
これは、あなたの豊な実がなるために 邪魔してるよ!と
その部分を、剪定。
死んだ自分で培った、別の目から眺め続けた脳回路の枝を
剪定。
本当の私達自身を剪定するのではない!
地獄とか、天国に行く話じゃない。
驚くかもしれないけど、ほとんど,聖書では、地獄行きとか
天国行きという事を、話していない。
そういう風に、翻訳されて書かれているようでも、
実はもっと違う事、コンセプト、前提がまるで違う。
つまり、主に出会えない、主の御顔から生きる事が
出来ない事が、完了の業から、生きる事がなんだか
分らないまま行く事が、書かれている。
天に入れないと 書いてある所だって、あなたの思考が
全然違う場所、エジプトにいるなら、主の御顔にも
御国に存在してることも、分らないまま 生きると言う事だ。
この箇所は、救われるとか救いにもれると言う事を、
話してるのではないことを、弟子達は、聞いていて普通~に
理解出来るけど、私達現代人には
誤解して、読める箇所だ。
得に、パフォーマンスベースの人達の、思考回路
切り替えると見えて来る。
新しくされた人としての、私達の成長の過程を話している。
私達の主にあって、新しい人として、生きる時
古い人の思考が邪魔する、そういう行動思索、また古い人自身
の行動パターン、思考パターンを剪定!
心の一新によって変えなさいと同じ意味。
ずれ人で、生きてたから。その方が自然に出て来てしまう。
それを、剪定!
でも、私達は、エデンの園の、良い地にまかれた種
新しい人だと、分ると、新しい肥沃の地で、良い作物を、
ふんだんに実らせる事が出来る。それが 成長。
新しい人にあっての。
主は、一貫している。
話している内容が、ぶれていない。どこの部分も、同じ。
言葉は,変えても
私達のTOVの存在に成長し続ける事
教えてる。
神をよろこばれませんと言う箇所も、努力じゃなくて
それでは、あなたのTOVの状態では、ありませんと
書かれているんだよ。納得が行く。
古い人で生きる事を、全部止める、剪定する。
そういう行動、思索、古い人のそれを、剪定することを、
話している。
時には、頑だと、痛い目にあう。
分らなければ、困難の中で教えることもあるかもしれない。
でも主の愛の中だよ。訓練は。
すごい。動機は”アハバ”永遠の婚姻契約の愛。
新しい人に生きれるために、古い人脳回路から来る、
思索、行動を、主が剪定してくれる。気がつかせてくれる。
そういう事がかいてあるのだ。
あなたが、新車を、手にいれてたら、
わざわざ古い車を運転したいでしょうか?
新しい人になってることが、分ったら、古い人の行動は、
取りたくない。
それは、もう 新しい私じゃないし、死んだエジプトの
奴隷だった自分だもの。そして、その自分は、もう十字架で
主と、共に死んだ。葬られた。
古い人の、姿で、今も生きる事、一切止める。
一瞬一瞬 自分の行動思索を、吟味しながら歩きなさいと
主が、アブラハムに言われたのは、それだ。
だから、新しい人になってることが、分れば
自覚すれば、読み取れる。
許され続けてもらってる罪人と意識で、生きるなら
絶対に パフォーマンスベース 努力に陥り、
これまさに、主が私達に、警告している
偶像礼拝と同じ!
自分の努力で、主に許しを請い、喜ばせる。
偶像の神に関わるのと同じ方法。
主と愛の親密な関係の、関わりとは異質なもの。
安息から生きる事が、分らないまま。
でも、それが分る人には、理解出来る。
主が何を言われているか。