誤解の連鎖 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書が、太古のヘブライ人に書かれた、書物であるということ
それを、読む時の手がかりが、情報が、大幅に欠けながら
読んでいるという事。

不適切な翻訳の上に、誤解をしながら,読んでいるということ。
外国語の、慣用句を、直接、訳しても、意味が不明。
どこまでもずれて行く。的から 外れる路線にいると。


的はずれになる。的には当たらない。
どんなに近くても、的に当たらなければ
全部=ハター(ずれ 罪と訳されている言葉)

色々な情報に、欠けながら読むと、誤解が誤解を生む。
しかも、聖書の最初の所を、読む事して、読んでいけば、
聖書が一つの何も相互いに矛盾する箇所一つも無しと
言う前提で読むと、見えて来る。

だから 最後の部分の 新約と呼ばれる箇所も、
最初の三分の2と何も相反してない。

例えば一つの例を取ると。

最初に書かれ居てる 創世記の最初。
御国、天とこの地上が、つながっていたこと
同時に存在していたこと、太古のヘブライ人は
知っていた。

だから ヘブライ人の思想の中には、
天とこの世とが、つながっている存在だというのは
常識の思索、土台の思索だった。
だから、それが、分ると、天とこの世の間に
中間点、なんかない。

死者の、御国に行く前の、待合場所なんて
ないことが聖書には書かれていない事が分る。
この世から天にスリツプするだけだ。瞬時に。

信じて新しくされた人は、もうこの世に居ながら、
天の主の御座の前に、今存在していると書かれている。

そう感じなくても。主がそういわれているから
信仰でその事実を認めて、受け取る。

この世にあって、この世のものではないと。
だから、パウロも、85回も
主の中に、主の中に、
In Him,In Him,In Him
と書いている。
イエスさまも、そう言われた。
ヨハネ14:20

よみと、書かれている所や、イエスさまの、たとえ話
アブラハムの懐とか、これ 古代のたとえ話の内容を、
知ると、何を言われているのか見えて来る。理解出来る。

イエスさま、殆どを、たとえ話で教えられた。
その当時古代の人達がみな知っている話で教えられた。
日本で言えば、カチカチ山やら、うさぎとかめかな。
そのタイトル聞いただけで、教訓の内容を、取られる事
できる小学生でも。

主の祈りさえも、当時みなが知っていた祈りだ。
イエスさまが、あの時瞬時に造り出した、
祈りのお手本じゃなかった。

既存の、たとえ話があり、既存の祈りが、存在して
当時の人なら、誰でも、知っていたのだ。

だから、旧約聖書や その当時の文化が
分らないと飛んでもない 考えがどんどん出て来る。