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何とかなるさ...の世界!?

いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

Mark 14:36

"Abba, Father,"he said, "everything is possible for you. Take this cup from me.Yet not I will, but what you will."

 

マルコ14章36節

またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 

Romans 8:15

For you did not recieve a spirit that makes you a slave again to fear, but you recieved the Spirit of Sonship. And by him we cry, "Abba, Father."

 

ローマ書8章15節

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

 

Galatians 4:6

Because you are sons, God sent the Spirit of his Son into our hearts, the Spirit who calls out, "Abba, Father."

 

ガラテヤ書4章6節

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

 

 

 

Abba means father in Aramaic.

 

In 1988, James Bar wrote in a the theological jpurnal entitled "Abba is not a Daddy":

 

It is fair to say that abba in Jesus' time belonged to a familiar or colloquial register of language, as distinct from more formal and ceremonious language....
But in any case, it was not a childish expression comparable with 'Daddy': it was a more solemn, responsible, adult address to a father. (p.46)

 

アバは、アラム語で父親を意味します。

 

1988年、ジェームス・バーは「アバはダディ(パパ、或いはお父ちゃん)ではない」という題名の神学研究ジャーナルの中で以下のように記しています。

 

イエスの時代におけるアバとは、より正式で儀式的な言語とは異なる、馴染み深く或いは口語的な言語録に属していたと言っても過言ではありません。

しかし、いずれにせよ、それは「ダディ(パパとかお父ちゃん)」に匹敵する幼稚な表現ではなく、父親へのより厳粛で責任ある大人的な挨拶の言葉でした。

 

Abba Father 右矢印Dear or Dearest Father

アバ、父右矢印親愛なる又は最愛の父

 

 

 

Proverbs 1

7)The fear of the Lord is the begining of knowledge, but fools despise wisdom and discipline.

8)Listen, my son, to your father's instruction and do not forsake your mother's teaching.

 

箴言1章

7)主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

8)わが子よ。あなたの父の訓戒に従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。

 

 


1John 3

1)How great is the love the Father has lavished on us, that we should be called children of God! And that is what we are! The reason the world does not know us is that it did not know him.

2)Dear friends, now we are children of God, and what we will be has not yet been made known. But we know that when he appears, we shall be like him, for we shall see him as he is.

3)Everyone who has this hope in him purifies himself, just as he is pure.

 

4)Everyone who sins breaks the law; in fact, sin is lawlessness.

5)But you know that he appeared so that he might take away our sins. And in him is no sin.

6)No-one who continues to sin has either seen him or known him.

 

7)Dear children, do not let anyone lead you astray. He who does what is right is righteous, just as he is righteous.

8)He who does what is sinful is of the devil, because the devil has been sinning from the beginning, The reason the Son of God appeared was to destroy the devil's work.

9)No-one who is born of God will continue to sin, because God's seed(word= Christ) remains in him; he cannot go on sinning, because he has been born of God(右矢印Holy Spirit points the sin).

10)This is how we know who the children of God are and who the children of devil are: Anyone who does not do what is right is not a child of God; nor is anyone who does not love his brother.

 

18)Dear children, let us not love with words or tongue but with actions and in truth.

19)This then is how we know that we belong to the truth, and know we set our hearts at rest in his presence

20)wherever our hearts condemn us. For God is greater than our hearts, and he knows everything.

 

21)Dear friends, if our hearts do not condemn us, we have confidence before God

22)and receive from him anything we ask, because we obey his commands and do what pleases him.

23)And this is his command: to believe in the name of his Son, Jesus Christ, and to love one another as he commanded us.

24)Those who obey his commands live in him, and he in them. And this is how we know that he lives in us: We know it by the Spirit he gave us.

 

第一ヨハネ3章

1)私達が神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです。― 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

2)愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

3)キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

4)罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

5)キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。

6)だれでもキリストにとどまる者は、罪のうちを歩み(罪を犯し)ません。罪のうちを歩む(罪を犯す)者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

7)子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

8)罪のうちを歩む(罪を犯す)者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

9)だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種(御言葉=キリスト)がその人のちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです(右矢印御霊が私達に罪であることを示されるため)。

10)そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

 

18)子どもたちよ。私たちはことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

19)それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。

20)たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存知だからです。

21)愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、

22)また求める者は何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

23)神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

24)神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。

 

 

 

 

※最後に紹介されている教会とこのブログとは一切関係ありません。

 

Psalm90

7)We are consumed by your anger and terrified by your indignation.

 

8)You have set our iniquities before you, our secret sins in the light of your presence.

 

9)All our days pass away under your wrath; we finish our years with a moan.

 

10)The length of our days is seventy years- or eighty, if we have the strength; yet their pain is but trouble and sorrow, for they quickly pass, and we fly away.

 

11)Who knows the power of your anger? For your wrath is as great as the fear that is due to you.

 

12)Teach us to number our days aright, that we may gain a heart of wisdom.

 

詩篇90編

7)まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。

 

8)あなたは私たちの秘めごとを御前に、御顔の光の中に置かれます。

 

9)まことに、私たちのすべての日は、あなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。

 

10)私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。

 

11)だれが御怒りの力を知っているでしょう。その恐れにふさわしく。

 

12)それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えて下さい。そうして私たちに知恵の心を得させてください。

 

 

 

 

 

 

へブル書4章

1)こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか

2)福音を説き明かされていることは、私たちも彼ら(エジプトから脱出したイスラエルの民)と同じなのです。ところが、その聞いたことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

3)信じた人たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

4)というのは、神は七日目について、ある箇所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。

5)そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。

6)こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に預言を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、

7)神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

8)もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はその後で別の日のことを話されることはなかったでしょう。

9)したがって、安息の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

10)神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

11)ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

12)神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

13)造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

 

 

 

 

 

へブル書3章

1)そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

2)モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方(父なる神)に対して忠実なのです。

3)家よりも、家を建てるものが大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。

4)家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。

5)モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。

6)しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

7)ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、

8)荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

9)あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

10)だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

11)わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」(※1)

12)兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい

13)「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

14)もし最初の確信を終わりまでしっかりともちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

15)「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。

16)聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。

18)また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。

19)それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰(※2)のためであったことがわかります。

 

(※1)詩篇95編

10)わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知っていない。」と。

11)それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。

 

(※2)ここで言う不信仰とは、神を信じていると言いながら神に聞き従わないという事です。

 

 

 

第一ペテロ4章

17)なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たち(不信仰者)の終わりは、どうなることでしょう。

1 Peter 4:2

17}For it is time for judgment to begin with the family of God; and if it begins with us, what will the outcome be for those who do not obey the gospel of God?