その賛美、本当に歌って大丈夫ーReally ok to sing that worship?ー | 何とかなるさ...の世界!?

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いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

 

 

歌うと、神の臨在から直接遠ざかってしまうような、ある種の歌がある事をご存知でしょうか。

 

世俗的な音楽の事を言っているのではありません。

 

多くのクリスチャンが教会でも歌っている曲の事です。

 

実際、多くのクリスチャンは音楽が霊的なものだと気付いていません。

 

また、教会で歌っている曲の中には、知らず知らずの内に神の臨在から遠ざかっているものもあるのです。

 

アモス書5章23節では、「あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない」、と言っています。

 

全能の神は、イスラエルの賛美歌の幾つかを騒音だと言って拒否されました。

 

これは孤立した出来事ではなく、今日でも私達の教会で起こっている事なのです。

 

このビデオでは、教会で歌うべきではない六つのタイプの歌を明らかにして行きます。

 

1)聖霊の霊感を受けていない曲

 

多くの信者は、歌詞にイエスが登場したり、聖書のフレーズが一つか二つ含まれていれば、その曲は神の霊感に違いないと思い込んでいます。

 

この危険な思い込みが、神の油注ぎを伴わない音楽を無数のクリスチャンが歌う事に繋がっています。

 

エペソ人への手紙5章18、19節で、パウロは信者達に霊に満たされ、詩や賛美や霊の歌とをもって互いに語り、主に向かって心から歌い、旋律を奏でるようにと教えています。

 

霊的な歌を歌う前に、霊に満たされている事が前提条件である事に注目して下さい。

 

ここで霊的という意味で使われているギリシャ語の語源はpneumatikosで、特に「聖霊に属するもの、聖霊によって決定されるもの」を意味します。

 

それは単に一般的な意味での宗教的、神聖という意味ではなく、具体的には「神の霊から直接流れ出るもの」という意味です。

 

クリスチャンが書いた全ての曲が、必ずしも聖霊の霊感を受けているとは限りません。

 

実際、今日人気のあるワーシップソングの多くは、この世的な響きを持っています。

 

本当の霊的遭遇を促すのではなく、感情的な反応を呼び起こすように設定された、世俗的な音楽制作で使われるのと同様の公式や技術を使って作られているのです。

 

これらの歌は気分を良くさせるかもしれませんが、霊的な力や油注ぎはありません。

 

それ故、多くのクリスチャンは、自分が経験した霊的遭遇よりも、歌によってどう感じたかを語るのです。

 

御言葉を通して、神の霊感を受けた音楽は常に深い霊的効果をもたらして来ました。

 

第一サムエル記16章28節にあるように、ダビデがハープを奏でると、悪霊はサウルから逃げ去りました。

 

パウロとシラスが獄中で賛美を歌った時、土台が揺れ、鎖が解かれました。

 

使徒16章25、26節にあるように、真の霊感を受けた礼拝は、明らかな霊的権威へと導きます。

 

しかし、その曲が本当に聖霊によって霊感を受けたものかどうか、どうやって見分ける事が出来るのでしょうか。

 

まず、その実を調べるのです。

 

その歌は単に感情をかき立てるだけなのか、それとも神の臨在を伴う霊的訪れを促すものでしょうか。

 

それは、単独の表現だけでなく、そのメッセージと神学全体において、御言葉と完全に一致しているでしょうか。

 

純粋な祈りと神との交わりから生まれたものなのか、それとも商業的な成功を収めるために作られたものでしょうか。

 

今日、教会で使用されている曲の多くは、スタジオで世俗的なヒット曲と同じ技術や方式を使って作られたもので、霊的な効力よりも、むしろ覚え易く感情をかき立てる事を主眼に置いています。

 

ワーシップアーティストの中には、祈りや神への追求を通して生まれた曲よりも、ウケそうな曲に基づいて曲を書いている事を認めている者さえいます。

 

真の礼拝とは、霊的な降伏の行為であり、娯楽ではありません。

 

聖霊の霊感を受けていない歌は、私達を楽しませ、霊的な感情を抱かせる事はあっても、神が受け入れる本物の礼拝を促す事は出来ないのです。

 

ヨハネによる福音書4章24節でイエス様が教えられた事を思い出して下さい。

 

神は霊であり、神を礼拝する者は霊と真をもって礼拝しなければならないという事を...。

 

2)御言葉に基づかない歌

 

危険な教会音楽の二番目は、霊的でありながら確固たる御言葉の土台を持たない歌です。

 

これらの曲には、漠然とした霊的な言葉や、一般的なクリスチャンのキャッチフレーズ、或いは御言葉に基づかない感情的な宣言が含まれている事が多いのです。

 

コロサイ人への手紙3章16節で、パウロは信者達に、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」と教えています。

 

パウロが適切な礼拝を、キリストの御言葉が私達の内に豊に宿っている事と直接結び付けている事に注目して下さい。

 

聖書的礼拝は、聖書的真理の延長であり、また表現なのです。

 

詩篇は、敬虔に承認された礼拝の最も明確な模範を示しており、注意深く読むなら、それらは神の本質を扱った御言葉である事に気付きます。

 

今日、人気のある教会の歌の多くは、聖書の真理から神への理解を微妙にずらすような、問題のある神学が含まれています。

 

神の愛を強調する一方で、神の神聖さ、正義、主を畏れる事を完全に無視している曲もあります。

 

また、イエス様が強調された弟子としての犠牲や代償をないがしろにし、個人的な祝福のみに焦点を当てているものもあります。

 

実際、ワーシップソングの中には、神秘的なチャントや、未知の異言のフレーズが解釈なしに含まれているものもあります。

 

つまり、意味不明な言葉を唱えたり、繰り返したりしているのです。

 

意味が分からないものを歌うのはとても危険です。

 

ワーシップリーダーが他の言語や異言で歌をリードしたいのであれば、その歌の意味を解釈したり、説明したりしなければなりません。

 

特にチャンティングのようなものは、何か別の事を歌っているのかもしれないので、意味を知らずにただ言葉を繰り返すべきではありません。

 

それ故、歌う前に歌詞の意味を知る事が肝心です。

 

ある宗教では、チャンティングは別の領域(霊界)に入るための方法なのです。

 

そして、クリスチャン達は、その意味を知らない曲を紹介し始めますが、その意味を知る事は重要です。

 

ただコピーするだけでなく、どういう意味なのかを尋ね、異言であれば解釈を求め、分からない事を簡単に歌わない事です。

 

第一コリント14章15節でパウロは、「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう」、と書いています。

 

異言は聖書的なものですが、パウロは礼拝で宣言する内容を理解する事の重要性を強調しています。

 

実際、彼は第一コリント14章9節で、「それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているようなものです、と言っています。

 

11節で彼は、「もし私がその言葉の意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です」と言っています。

 

古代ヘブライ人は、神の前で何かを宣言する事は霊的な重みがあると理解していたので、礼拝で歌う内容には非常に慎重でした。

 

ヘブライ語のzamaは、しばしば「歌う、賛美する」と訳されますが、文字通り、「弦に触れる事、声を伴う音楽を奏でる事」を意味し、特に神の御性質と御業に関する真理を賛美し、宣言する歌詞を伴います。

 

現代の礼拝の中には、マントラ(真言)を繰り返し唱えるものがありますが、これは聖書的な礼拝というよりも、むしろ東洋の瞑想法に近いといえます。

 

3)世俗的なメロディーとビートを持つ曲

 

三番目は、聖書の歌詞を持ちながら、世俗的に霊的影響を持つ音楽に乗せて歌われる曲です。

 

霊的な領域では、音は歌詞を越えた力を持っています.

 

だからこそ神は、神殿礼拝でどの楽器や音楽形式が受け入れられるかについて、非常に具体的に示されたのです。

 

アモス書5章23節で、神はイスラエルに「あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない」、と言っています。

 

神が彼らの礼拝を拒んだのは、歌詞が間違っていたからではなく、音楽の背後にある霊的な状態や、音楽形式そのものが腐敗していたからなのです。

 

ここで騒音を意味するヘブライ語はhammonで、「騒々しい音」「混乱した音」を指します。

 

神聖な特徴を失ってしまった音楽...。

 

今日の多くの教会の歌は、単に世俗的な音楽スタイルにキリスト教的な歌詞の洗礼を受けているだけで、それが音楽の霊的本質を変容させると素朴に思い込んでいるのです。

 

しかし、ある種のリズム、コード進行、ヴォーカル的な背景で特別に開発されたものなのです。

 

古代ヘブライ人は、ある種の音楽とパターンが礼拝にふさわしく、そうでないものはふさわしくないと理解していました。

 

イスラエルで礼拝を確立したダビデは、単に演奏が巧みであるだけでなく、預言者的な感性を備えた演奏者を任命しました。

 

第一歴代誌25章1~3節には、ダビデが竪琴と十弦の琴とシンバルを用いて預言する者達を任命したと書かれています。

 

特定のビートパターンやリズムは、官能的な感情を刺激するために特別に開発されました。

 

これらの音楽携帯にイエスをテーマにした歌詞を加えるだけでは、その霊を聖める効果はありません。

 

神がイスラエルに対して、食事から衣服、礼拝の習慣に至るまで、あらゆる面で周囲の国々と一線を画するよう指示した事を考えてみて下さい。

 

この分離の原則は恣意的なものではなく、完全性と汚染に関する霊的な現実を反映したものでした。

 

第二コリント人への手紙6章17節で、パウロはこの神の原則に共鳴しています。

 

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れる。」

 

教会音楽が歌詞を除けば、この世の音楽と区別がつかなくなった時、その音楽は定められたものを失っているのです。

 

ヘブライ語のkadosh或いは「聖性」という概念は、文字通り「離れている」「区別されている」、そして「異なっている」という意味です。

 

4)真実よりも人間の感情を優先させる曲

 

危険な音楽の四番目は、神の真理よりも感情的な体験を優先する曲です。

 

これらの曲は、神との真の霊的対話を促すためというよりは、むしろ力強い感情を生み出すために作られています。

 

ヨハネの福音書4章24節でイエス様は、真の礼拝者は霊と真をもって礼拝するのであり、御父はそのような礼拝者を求めておられるのだと教えておられます。

 

イエス様は霊と真理の両方に等しく重きを置いている事に注目して下さい。

 

現代のワーシップソングの多くは、感情を揺さぶる事と勘違いされますが、神学的真理には著しく欠けています。

 

ここで危険なのは、聖霊の関与の有無に関わらず、音楽的技術や照明、群集心理によって感動的な体験が創作されてしまう事です。

 

サタンはこの事を理解しており、教会に対してそれを悪用し、霊的なものを感じさせながらも、神の実体を欠く礼拝体験を作り出しています。

 

真の礼拝は、私達が感情的にそうあって欲しいと願うようにではなく、神が実際に存在するように神と関わらなければなりません。

 

単に私達を良い気分にさせる歌、挑戦する事なく絶えず肯定する歌、服従する事なく祝福を約束する歌、これらは、真理を伝える事無く感情を操作するものです。

 

今日、多くの礼拝者は礼拝が神を正確に表し、神との真の交わりを促すかどうかよりも、礼拝が自分達にどのような印象を与えたかによって、礼拝の質を判断しています。

 

これは霊的に危険な領域であり、感情は私達の存在の中で最も操られ易い側面だからです。

 

聖書の礼拝の原型であるダビデ王は、人間のあらゆる経験と感情を扱う詩篇を作りましたが、その感情は常に神の真理に支えられていました。

 

深い嘆きや疑問を口にする時でさえ、彼は常に神の性質、契約、命令という堅固な土台に立ち返りました。

 

現代のワーシップソングの多くは、神がどのようなお方であるかという事よりも、神が私達のためにして下さる事だけに殆んど焦点を当てています。

 

この微妙な変化が、信者が霊的に何を受け取ったかで礼拝を評価する、自己中心的な礼拝文化を生み出しています。

 

5)神よりも演奏者を賞賛する歌

 

危険な教会音楽の五番目は、神に注目するのではなく、演奏者の才能を誇示するために作られた曲が含まれます。

 

これらの曲には正しい神学と適切な音楽スタイルが含まれているかもしれませんが、そのアレンジ、複雑さや表現は、神の栄光よりも人間の能力を強調するものです。

 

ヨハネによる福音書3章30節でバプテスマのヨハネは、霊的ミニストリーに携わる者の正しい姿勢を明示しています。

 

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

 

この原則は、賛美の指導にも強力に適用されます。

 

神に心を向けるのではなく、演奏者に注意を向けるような音楽的要素は、この根本的な霊的原則に違反しています。

 

礼拝が神から人間の演奏者に栄光を移すと、それは霊的に軽いものとなり、純粋な礼拝を特徴づける実質と力を失う事になります。

 

今日の多くの教会では、礼拝は演奏様式へと進化しており、信徒はワーシップソングを単にリーダーが歌うから好きなのであって、その歌の意味から好きになるのではありません。

 

イザヤ書42章8節には、神の宣言が記されています。

 

「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄光を刻んだ像どもに与えはしない。」

 

神は礼拝におけるご自身の栄光のために嫉妬されます。

 

演奏者達が礼拝を自己宣伝の場として使ったり、自分の音楽キャリアを向上させるために足を踏み入れる事になるのです。

 

聖書に記されている古代の神殿礼拝には、彼等の技術は、個人の才能を発揮するためではなく、集団礼拝を促進するために特別に捧げられていました。

 

第一歴代誌15章22節には、レビ人の音楽指導者ケナスヤが巧みであったために、歌について指導した事が書かれています。※なぜか新改訳聖書では荷物係と記されています。

 

彼の腕前は、自分への注目を集めるためではなく、他の者達がより良く礼拝できるようにするために用いられたのです。

 

今日のワーシップ業界は、ワーシップリーダーを中心とした人物崇拝を助長する事が多いのです。

 

人気のあるワーシップアーティストが特徴的なヴォーカルスタイルを開発し、信奉者達は神との本当の交わりを発展させるのではなく、そのスタイルを模倣しようとします。

 

これは、信者が自分自身で神の御前に入るよう導くのではなく、特定の感情的体験を特定の人間のパフォーマーと関連付けるという、危険な霊的依存を生み出します。

 

6)原曲が世俗的な歌

 

危険な教会音楽の六番目は、もともと世俗的な目的で作られた歌を教会の歌に転用したものです。

 

もともと恋愛相手へのラブソングとして、或いは世間への娯楽として作られた曲には、その霊的DNAが音楽構造に刻み込まれています。

 

歌詞を変えただけでは、その創作に込められた霊的要素は変わりません。

 

第二コリント人への手紙6章14節にかけて、パウロはこう問いかけています。

 

「正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。キリストとベリアル(邪悪な者)とに、何の調和があるでしょう。」

 

これらの原則は、もともとこの世的な目的のために作られた音楽にもそのまま適用されます。

 

ヘブライ語の献身の概念であるkadesh(神聖さ)は、神の用途のためだけに何かを区別することを意味します。

 

神殿礼拝では、神に捧げられた物は、それまで一般的な用途に使われる事はありませんでした。

 

それ以前の使用は、単なる意図では簡単に破られない霊的な繋がりを生み出します。

 

エペソ人への手紙5章19節で、パウロは信者達に、主に向かって心の中でメロディーを奏でなさいと教えています。

 

ここで旋律を奏でるという意味で使われているギリシャ語はpsalloで、文字通り「弦を弾く、叩く」という意味があります。

 

これは外面的な音楽だけでなく、音の背後にある内面的な霊的起源や意図を指しています。

 

礼拝音楽の出所と起源は、霊的な領域において非常に重要です。

 

多くのワーシップリーダーは、人気のある世俗的なメロディーや曲の構成を、キリスト教的な歌詞にただ重ねるだけで、それが正当な賛美に変わると思い込んでいます。

 

しかし、霊的な領域では、基になるものが重要なのです。

 

もともと他人に対するロマンチックな感情や官能的な感情を呼び起こすために書かれた曲は、新しい歌詞が付けられようと、その音楽的DNAそのものにその意図が宿っています。

 

第一サムエル記16章14~23節には、ダビデがサウルのために琴を弾くと、悪霊が去った事が記されています。

 

ダビデが、エホバについての新しい歌詞を付けたペリシテ人の人気曲を採用しなかった事に注目して下さい。

 

彼はもともと礼拝のために作られた音楽を演奏しました。

 

その力は、奏楽者の油注ぎと音楽本来の霊的目的の両方にあったのです。

 

古代イスラエル人は、異教徒の礼拝習慣がヤハウェに向けたものだったとしても、それを取り入れることを厳しく禁じられていました。

 

出エジプト記32章で、イスラエルの民が金の子牛を造った時、彼等は主のために祝宴を開いていると主張しました。

 

しかし、5節で彼等はそのためにエジプトの霊感を受けた礼拝方法を用いていたのです。

 

神はこの融合主義的なアプローチを真向から否定されました。

 

出エジプト記32章では、イスラエルの民が神が定められたものではなく、自分達の感覚に基づく礼拝を作り上げた時、いかに素早く偶像礼拝に陥ったかが分かります。

 

彼らの金の子牛崇拝には、音楽と踊りが含まれており、彼等は心から神に敬意を表していると信じていました。

 

しかし、モーセはそれをすぐに堕落したものだと見抜いたのです。

 

18節でモーセは言います。

 

「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」

 

モーセはそれを礼拝とも賛美とも言っていません。

 

彼はそれを騒音と呼びました。

 

これは、アモス書5章23節で神が妥協した礼拝の騒音と語っているのと完全に一致しています。

 

これは、霊的に堕落した礼拝は例え誠意であったとしても、神への甘い香りのする供え物ではなく、霊的な領域では単なる騒音になってしまうという事です。

 

イエス様はマタイの福音書9章17節でこう教えられました。

 

「また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れてしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

 

この原則は礼拝にも当てはまります。

 

聖霊のために創られたオリジナルの音楽による新しいぶどう酒の皮が必要なのであって、この世のために設計されたオリジナルの器を使い回しする必要はありません。

 

礼拝歌を調べる時は、その起源を調べて下さい。

 

このメロディーは、もともとラブソングとして作られたものなのか、パーティー賛歌なのか、それともポップスのヒット曲にキリスト教の歌詞を付けたものなのか...と。

 

もしそうなら、霊的な見識は、世俗的なものから持ち込まれた礼拝ではなく、祈りと神との交わりから生まれた礼拝を見つけるように示唆しています。

 

歌にイエスが登場したり、聖書の言葉が使われているからといって、その歌の出所が自動的に神聖化される訳ではない事を覚えておいて下さい。

 

音楽の霊的DNAは、歌詞の内容を超越し、その本来の目的と創造の痕跡を伝えます。

 

純粋な礼拝を求める信者として、私達はそのメッセージと媒体について警戒しなければなりません。