やっぱり、何か違ってた。 | 何とかなるさ...の世界!?

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いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

 

彼(マー司教)は良い人ですが、実際のところ、キリストに従う者である誰もが彼に耳を傾けてはいけません。

 

彼がかなり冒涜的なことを言っていることの理由がここにあります。

 

それは異端であり、また、その理由だけで、私達は彼の言う事に耳を傾けるべきでないという部類に彼を入れます。

 

マー司教:主イエスは、マリアが私(イエス)の母であるように、全てのクリスチャンの母であると言われました。

 

彼女は、今やあなたの母親でもあります。

 

彼は、そう言いましたか。

 

それが、一番の問題です。

 

もしも、何か言いたいことがあるのなら、聖書から見つけて下さい。

 

ヨハネの手紙に「息子よ。あなたの母を迎えなさい。」と言っている箇所がありますが、私達に向かって言っているのではありません。

 

そしてある意味、これは、当時の慣習のようなもので、彼女が私達全員の母親になるということではないのです。

 

聖書のどこにも、そんなことは書かれていません。

 

まー司教:そして、私達は何かを求める時、地上の母親の所に駆け込むのではないでしょうか。

 

聖なる母よ。あなたは、あらゆる面で特別です。

 

全ての面において、あなた(マリア)は特別ではありません。

 

因みに、私達は皆、地上の母の元に駆けつけるわけではありません。

 

ただ、彼の言いたいことは分かりますが、私達は救いを求めて彼女に駆け寄ったりはしません。

 

私達は、地上の母が私達の世話をしてくれるからという理由で、地上の母に駆け寄りません。

 

私達が若くて幼かった時なら...、しかし、今は違います。

 

そして、この点で、彼女が特別なのは、文字通りイエスを産んだ人だからです。

 

魂が救われる必要があったという点で、彼女は特別な存在ではなく、実際、彼女自身、イエスを救い主なる主と呼んでいます。

 

もし彼が救世主なら、処女でありながら妊娠したという事実を除けば、彼女の立場は私達とどう違うのでしょうか。

 

聖書には、マリアを指して、彼女の所へ行くようにとか、彼女の言う事をし続けるようにという聖句はありません。

 

マー司教:あらゆる場面で、あなたは天使の命令でさえも全ての人を驚かせています。

 

あなたの息子である主なる神イエス・キリストは、天使団を含むあらゆるレベルよりもあなたを高め、崇拝しています。

 

彼が言ったようなことが書かれている箇所を参照できれば助かるのと、またこの点で、マリアは、私達全てに先駆けて高くあげられたのだ、という聖句に目を向けることが出来れば助かるのですが...。

 

使徒達が書き忘れたのでなければ、聖霊がそうするように奮い立たせない限り、私達には出来ないことです。

 

ですから、これも聖書を実際に用いている誰かの話を聞きたいと思う一つの理由です。

 

あなたが気付かないのは、彼が聖書を示さないことではないのです。

 

マー司教:私はひれ伏します。ひれ伏します。ひれ伏します。あなたの足もとに謙虚にひれ伏します。

 

いや、そんなことはしません。

 

イエスの御名においてのみ、全ての膝が屈するのです。

 

決してマリアにではありません。

 

思い出して下さい。

 

聖書は明確であり、他には救いはなく、天の下で人の間に与えられた名で救われるべきものは他にはないのです。

 

天の下には、マリアでなく、誰でもなく、イエスとイエスの御名によって全ての膝が屈し、舌が告白する名は他にありません。

 

マー司教:お母様。あなたの愛する息子に執り成して下さい。
 
イエス・キリストの聖い心を理解する心があるとすれば、それはマリアの心なのだから。

 

主イエスに感謝します。ナザレの聖母マリアと呼ばれる、このような完璧で素晴らしい特別な、とてもとても崇高な人間を与えて下さったことを。

 

あなたの御子に祈り、受け取って下さるよう、心からお願い申し上げます。

 

お母様、お願いします。

 

いやいや、私達は彼女が御子に執り成すようにとは祈りません。

 

いや、文字通りイエスの所に行くのです。

 

実際、聖書は私達が彼女ではなく、イエスに近づくことが出来る幾つかのことを教えています。

 

仲介者はいません。

 

これが、マー司教やカトリック教会に見られる問題です。

 

私達は、キリスト以外の誰をも通しません。

 

私達は、実のところ、自分から大胆に恵みの御座に近づくことが出来るのです。


マー司教が言っていることは、聖書的でないことは明らかで反聖書的、且つ異端です。

 

また、第一テモテ2章5節にこうあります。

 

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」

 

仲介者は一人です。

 

私達はその仲介者に辿り着くために、二人目の仲介者に行くことはありません。

 

私達はマリアの所に行かないし、祈りもしません。

 

聖書には、誰かがマリアに祈るという聖句はないし、彼女を誰かがマリアと呼んでいる箇所もありません。

 

つまり、彼女を(私達の)母と呼ぶことは、聖書のどの部分にもないことで、矛盾しているのです。

 

聖書のヤコブの手紙には、神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいて下さると語っています。

 

マリアに近づき、イエスに「私のために彼に伝言を伝えてもらえませんか」とお願いするためではありません。

 

そんなことはあり得ないし、そう言う人も誰もいないでしょう。

 

マー司教が無事であること、また一時的に退院出来たことを少なくとも嬉しく思います。

 

しかしながら、彼が今(このビデオ)で言ったのは、天の下に人が救われる名は他になく、人が救われるために、或いは祈りを通すために通る名もないということです。左矢印矛盾

 

そしてまた、彼が無事で何よりでしたが、マー・マリ司教は異端者なので避けるべきだということです。アーメン

 

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私も、マー・マリ司教が無事で何よりだったと思うのですが、この度の事件を見るまでは、全然どのような人物なのか知りませんでした。

 

そこで、幾つかの礼拝説教などを視聴したのですが、上のビデをでも述べられている通り、聖書の真実から微妙に横道に逸れているのだという事が理解出来ました。

 

この先、マー司教が御言葉の真理に目覚められるよう、イエス様の御名によってお祈りします。アーメン