エレミヤ書23章
5)見よ。その日が来る。
―主の御告げ。―
その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。
彼は王となって治め、栄えて、この国に講義と正義を行なう。
6)その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。
その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ぼう。
ローマ書4章
20)彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
21)神には約束されたことを成就する力があることを固く信じました。
22)だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
「彼は神の約束を疑うようなことをせず」
それは、不信仰によって神の約束を疑うようなことはしなかったのです。
アブラハムの信仰は、よく聞くように、特定の約束と結びついていたのです。それは、神が全社会になさった通常の約束とは繋がっておらず、特定の約束事に結びついて焦点が合わされていました。
その約束は、息子を授かることと関係していたのです。その息子は、救い主の国となる種の子孫を生み出すことになるのです。
イエス様は言われました。
ヨハネ8章56節
あなたがたの父アブラハムは、私の日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。
なぜ、アブラハムは息子が欲しかったのでしょうか?
淋しかったから?
いいえ、彼には啓示があったのです。
彼はキリストを見たのです。
「彼は私の日を見た」とイエス様は言っており、それで彼は喜んだのです。
そして、なぜ彼は喜んだのでしょうか。
それは、ルカ1章72節から75節にあるように、義をもたらす救い主がこの世に来ようとしていたからです。そして、彼(救い主)はその民に与え、彼等を罪から救い出して下さるのです。
このアブラハムの信仰は、一つの約束と結びついています。
あなたは、変わる事なくしては、エホバ・ツィドケヌ(主は私たちの正義)を信じることは出来ません。この啓示は、アブラハムの信仰と結びつけなければ得られないのです。
聖書によると、種であるキリストに焦点を当てているのは、アブラハムの信仰ではありません。
救いの角を、われらのために立てられた。 (ルカ1章69節)
われらを敵の手から救い出し、われらの生涯の全ての日に、きよく、正しく、恐れなく、主のみ前に仕えることを赦される。 (ルカ1章74、75節)
アブラハムの信仰の対象は、彼が疑わなかったこの約束です。
神は、私達をサタンの力から解放し、恐れを追い出し、人々が生涯にわたって、義となる生活をするための力を持って耐え忍ぶことを約束されています。
ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数を指すことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。 ガラテヤ3章16節
そのアブラハムの種はキリストです。彼は、種から目を離しませんでした。
それゆえ、息子を山に連れて行く時に、「直ぐに戻る」と告げて、僕にそこで待つように言ったのを覚えているでしょう。 (創世記22章5節)
彼は息子を殺すだろうことを知っていました。
しかし、彼はキリストがその息子から出るだろうことを知っていました。 彼は、罪からの解放と全世界に与えられるべき義が、その息子を通してもたらされることを知っていたのです。
だから、彼は神が彼を死者の中から蘇らせたことを知っていました。
聖書には、アブラハムの信仰の下で二つのことが起こると書かれています。
まず、あなたはキリストの復活を信じています。(ローマ書4章17節)
神はあなたを死者の中から蘇らせ、今朝ここで死んでいても、何も感じないかもしれません。逆戻りしているかもしれません。何も感じません。あなたは自分の罪で死んだのです。
しかし、「聖霊様、私を奮起させて下さい!」と言わなければなりません。復活の力を信じなければいけません。
だからこそ、彼は、神が死者の中から蘇らせることが出来ると信じている正義の人と数えられていたのです。(ローマ書4:3)
また、彼は神がまだ起こっていないことを、起こったこととして見なすと信じていました。
無いものを有るもののように、お呼びになる方。(ローマ書4章17節)
彼はあなたを見ます。そして、あなたは「まあ、やってみました。祈ってきました。断食しました。私は全て正しいことをしてきました。でも、まだ失敗しています。自分が正しいと思えません。」と言うのです。
しかし、神は何かを見ています。
信仰を種に定着させなければなりません。
不義と罪の力からあなたを解放して下さる、このキリストに、信仰を定着させなければなりません。
それが、あなたの願いです。
あなたは、義を求めて飢え渇いているのです。
これは、全人類への博愛的な約束に対する消極的な信念ではありませんでした。それは、一つの約束への信仰でした。
それは、この具体的な約束に焦点を当てた信仰です。
それは、散弾銃信仰ではありません。
それは、神が私達を挫折しないようにすると約束して下さった信仰です。
それは、克服された十字架の勝利への信仰です。
私に襲い掛かって来る全ての魔力を打ち負かしたという信仰。
私の中に聖霊を吹き込んで下さるという信仰。
自分の能力や力ではなく、義と聖さの中を歩むために、戒めを守るために必要な力と権威を与えてくださるのです。
しかし、これが私の飢え渇きの原因です。
もし、あなたが心の中で、「神様、私はあなたの目の前で義とされたいのです。私は、罪に支配されたくありません。神様、私はこのことを自分の人生から断ち切って欲しいのです。」と言って、正義の神と呼びかけるなら、あなたは、その約束を心で信じて、その約束に焦点を合わせるのです。
神は、私の人生の中で、罪の力を断ち切ることを約束して下さいました。
そして、あなたはそれを守るのです。