表現の自由
表現の自由は、日本においては憲法第21条によって保障されていますが、憲法第12条によってその濫用を禁止されてもいます。
その濫用は刑法によってある部分制限されていますが、法で制限する以前の問題として公共の福祉に反する場合にそれは自由であるはずがないのでしょう。
まあ、憲法は国内に限り通用するものでしょうから、仮に私達の意識の中で公共の福祉に反しないと考えたにしても、文化の違う国外の人から見ると、それは許されないと考える場合があっても不思議ではない。
フランスで表現の自由を守ろうと空前のデモが行われたようです。このデモに参加した数百万人の方々のうち、果たして何人の方が表現の自由とは何であるかを真剣に考えていたのでしょうか。このデモのきっかけになった漫画新聞社襲撃は、許されるべきものではない蠻行であることは疑いがないのですが、だからと言ってそれが直ちに「表現の自由」につながるものであるのかどうか。
あのデモが無差別テロ反対を掲げている部分においては、十分に共感できるのですが、表現の自由を訴える限りにおいて、それはちょっと違うのではないだろうかという思いが強くするのです。それなのにどうしてああも多くの方々があのデモへ参加したのだろうか。やはり凄惨なテロへの怒りがそうさせたのでしょう。しかし、何故あの凄惨残酷非道なテロを呼び込んだのかも頭の片隅に思い浮かべなくては、それを繰り返す恐れは十分にあります。
テロを避けるために、あの漫画新聞の「風刺」と呼ばれる表現方法を抑えることが果たして表現の自由を犯されたことになるのかどうか。
私達日本人は宗教に対してかなり大雑把と言いますか、寛容なのですが、しかし世界には宗教の根幹を侵されたと感じる場合相当な反発を招く事があるほうが多いのではないだろうか。
今回の漫画がイスラム世界をどの程度刺激するのかは、日本人である私には分からないのですが、それがテロにつながっていることを考えれば、その世界では許されざるべき領域に踏み込んでいることは確かでしょう。イスラム世界の「公共の福祉」に反している限り、その世界ではその手の漫画を表現の自由で片付けられないはずです。
国や考え方が違えば「正義」も違ってきます。そしていつの時代もどこの国でも「正義」を守るのは力になってきます。力がなければ「正義」を浸透させる事は出来ませんが、その反面力さえあればどのような「正義」も実現が出来ます。
いつの時代も支配者が掲げる「正義」は理不尽なものだったはず。イスラム過激派が掲げる「正義」がどのように理不尽であっても、その理不尽さを排斥するためにはそれに優る力で対抗するしかありません。
「イスラム国」と呼ばれる集団は、その集団特有の「正義」がある。私たちから見るとトンでもない「正義」ですが、それを咎める手段は私たちにはありません。私達の「正義」を押し付けるため、それを咎めるとすれば力でしかない。武力を行使して殲滅するしか彼らに私達の世界を理解させる事はできません。逆に言えば、彼等は彼等の「正義」を私たちに対して力で押し付けようとしている。それがテロなのでしょう。
考え方が全く相容れない「国」どうしが爭う場合、デモなどで自分達の主張を表現し、それまでの路線を守ろうとしても全く有効ではない。相手は、私達の常識を超えた集団なのです。
そして、守ろうとしている表現の自由は、それがあまり「上品」とはいえない日本流に言えば赤雜誌的なものであるとすれば、果たしてそれは相手「国」の刺激を甘受してまで守るべき表現の自由なのかどうか。
表現の自由を守ろうとする声は、私達の世界では尊い声で、誰もそれには反対できません。しかし、それは常に公共の福祉に反しない限りという制限がついていることも忘れてはいけないでしょう。そして、公共の福祉とは、私達の常識が届く世界の中だけではないこともまた考えなくてはいけないでしょう。
さて、かの漫画雑誌社は、誰のためにどのような表現の自由を守ろうというのでしょうか。それが甘い上品とは言えない笑いを誘うものに過ぎないとしたら、その犠牲があまりにも大きすぎるように感じます。
行政の無駄とは何か
大阪市と大阪府が二重行政でそのために無駄が4000億円あると主張している方がいます。それが本当なのかどうかはひとまず置いておくとして、行政の「無駄」とはそもそも何だろうか。
私達が言う無駄も、分かったようで実は中々分かり難いのではないでしょうか。無駄と一口に言っても、無駄かどうかは、見る方向によってずいぶんと異なって見えるのではないか。
男性が夜な夜な居酒屋へ寄る。そこで友人とぐだぐだ言いながら飲みかわす酒代は無駄だろうか。奥様が、常日頃から欲しかったビュトンのバッグをボーナスが出たので買ったとします。夫はそれを見て大きな声では言わないけれど、心の中で無駄遣いを、と呟く。
お年玉を子供に上げるときに「無駄遣いしないようにね」と言う時の無駄とは何か。子供が欲しいものを買ったとして、それが無駄遣いかそうでないのかを誰が判定するのだろうか。
無駄。広辞苑には「役に立たないこと。益のないこと」と書かれています。無とは存在しない、虚しいなどの意味があり、たいていの場合は下に続く言葉を否定する。それでは「駄」とは何か。名詞の上につけて粗末で劣っている意味になるようです。無駄のそれぞれの字の意味は何となく概念がつかめますが、熟語になった「無駄」は字義からは広辞苑が言うような意味になるのかどうか。どうやら無駄とは曖昧模糊とした概念であるようですが、このように分かり来た言葉の意味をごじゃごじゃ述べるのも無駄という事なのか。
無駄の意味をくどく述べたのも、二重行政の無駄と言ってる御仁も実は無駄の何たるかを分かっていないのではないかと思うからなのです。子供がお年玉を無駄に使うと思っているのは親だけであって、子供にしたら無駄でもなんでもない。一番有効に使っているのでしょう。居酒屋のお酒も、ビュトンのバッグも当人にしたら有効に使っているはず。
「行政の無駄」も多くの場合は有効に使われたお金でしょう。しかし、その使い方に異論に見える人から見たら「無駄遣い」。
4000億円の無駄遣いと言う場合に、その例として同じような施設が複数あるとか、同じような仕事をしている役人がダブって存在してるとか言うのでしょうが、施設が複数あればそこからの効用は大阪市民にとっては二倍になっているはず。お役人がダブって存在しているとして、その場合はサービスがダブルで行われているはず。それを無駄と言う御仁は、そこへ投入されている予算を別のものへ使いたいというだけの話。
大阪市民へのサービスを廃して、市民へ直接の利益を戻すとすれば、その無駄をやめてそこへかかっていた予算にかかる額だけ、税金を引いてくれるのであれば別として、税金の額は同じだけ徴収します、使い道を変えるだけというのであれば、市民から見れば別の無駄を作っているだけだというかもしれない。
行政の無駄は、一見無駄に見えても、そこへ投入されるお金は、民間企業の売上向上につながりますし、それがひいては民間給料へ転化します。役人へ渡っている給料は、その役人がそのお金で生活上の買い物をする場合に経済を回して行きますし、無駄な道路と見える物も実効用の社会資本の蓄積になっていますし、全ては大いに役に立っています。見方によって、そのお金を別の方向へ使いたい場合に「無駄遣い」と叫んでいるだけです。
大阪市が仮に税の軽減を伴わずに4000億円の無駄をやめ、それをほかの用途にも使わなかったとしますと、それは社会へ4000億円の資金が流れなくなり、それだけ経済の停滞を招くことになります。
お金は、使ってこそ意味があります。財を蓄えるだけでは何の意味もない。
日本の借金が1000兆円を超えたといい、それをあたかも大変なように言う方がいますが、もしその1000兆円を借金していなかったとすれば、それを積み重ねた年月でそれに見合う収入が私達にはなかったことになります。
無駄というのが考えれば考えるほど、私にはよく分からなくなります。
大阪都制度
「お住まいはどちらですか」
そう聞かれて、東京に住んでいる人は、どう答えるのだろうか。そもそも「東京」に住んでいるとはどういうことだろうか。
小笠原や青ヶ島に住んでいる人は、自分を「東京人」と思っているのか。
埼玉の方がもつ「東京人」という場合の東京のイメージは23区周辺までであって、決して
埼玉の方々だけでなく、私達が一般的に考える「東京」は都心のイメージ。東京府下の地域は、行政上は東京であっても、東京とは少し違う。どうして、「東京」とひとくくりに表現してしまうかといえば、都心を統括する自治体がないのも一因でしょう。かつては東京市がありましたが、それが現在は23区に分割されていて、東京という大都市は存在せず、大東京の中に中小自治体である23区が配置されているだけです。この特別区は日本の首都の中にある「田舎自治体」。
23区域内の主要事業は、中間自治体である東京都が処理していきますので、「東京人」である「東京市民」は、大都市としてまとまった意見を言う場がない。田舎自治体である「区民」としての意見か、都下の中小自治体と一緒になった「都民」としての意見を言う他ありません。
しかし、住んでいる人にとっては、区民であろうが都民であろうが大して問題がないのです。要は、自分達の暮らしにかかる仕事を上手くこなしてくれればいい。東京市民として何かしてもらう必要はない。
しかし、本当に「東京市民」は自分達の生み出した富、つまり税を自分達のために使ってもらえているのかどうか。おそらくそれはないでしょう。「東京市」から出てくる税は、東京都と23区を合わせて約15兆円で、それを東京都全体に使っています。
これだけのお金があるから、「東京市民」は自分のお金を都下の市へ配分してもあまり影響を受けません。それは、23区には人と会社が集中しているため、豊富な資金が集まって、それを23区だけで使うには多すぎますから都へ吸い上げてばら撒いても痛痒を感じないのでしょう。
それに対して、大阪の場合は大阪府と
この少ない予算を
大阪都民という呼び名は心地がいいのかもしれませんが、住民自治を担う大阪の特別区は財源の面から相当に苦しむ事が予想され、区民に対するきめ細かな行政は期待しにくくなるのでしょう。
顰に倣うという諺があります。中国の春秋時代は越の国に美女がいて、ある日胸が痛くて顔を顰めたら、とても美しく見えた。それを見ていた醜女が自分も美しくなろうと、顔を顰めてみせたところ、前にも増して醜くなり人々が逃げ出したという話なのです。
真似をすればいいというものではないでしょう。
橋下市長は、大いなる繁栄を続けている東京の顰に倣おうとしているようですが、さて、その結果やいかん。
「大阪都」となった暁に、「お住まいはどちらですか」と聞いた場合、どの地域の人までが「私は大阪です」と答えるのだろうか。そして「大阪人」とはどの辺りへ住んでいる人を指す言葉になるのだろうか。
まあ、それを決めるのは、最後は大阪の方々なのです。顔を顰めた醜女を見て、皆が何と言うか、それはそれで見物ではあります。