上司の計らいで日本からアメリカに転籍することになった…という事を書きましたが、一歩を踏み出したのは私でしたが、そこからアメリカの社員になる迄の顛末は、波に乗って流されて行った…という表現が近い位ぱたぱたと次から次へと偶然が重なっていきました。

これはまさにシンクロニシティと呼ぶべきものでした。ここから、そのシンクロニシティを表現するのに「折しも」が続きます。


それ迄の仕事に未来が見えなくなって、努力すること自体が厳しくなっていた時、辞表を書く数ヶ月前に入社した時の上司に一通の手紙をしたためたのでした。

現在の閉塞感で努力することすら厳しくなって来ていること
出来ればアメリカで働きたいこと

正直に書き記しました。けれど、昔の上司から特別なフォローもなく、遂に辞表を書く決意を固め提出しました。会社を辞めることが公になり、送別会の日程も決まりました。

その時折しも会社全体のリストラが行われており、私より2歳年上の非常に優秀な人もその任意退職制度に手を挙げて会社を去る決意をしたのです。彼もその上司が採用した人でした。

上司が後に言いました。
「一人だけだったらともかく、二人とも辞めてしまうと聞いてねぇ。一人だったら行動を起こさなかったと思うんだけど、二人だからねぇ…。」

手塩にかけて育てた部下が二人いっぺんに会社を去って行く…それが私の元上司には堪え難いことに思えたのです。一晩考えた…と言いました。そして翌朝、元上司は行動を起こしたのです。

アメリカのビジネスパートナーに
「もの凄く良い社員が居て、アメリカに行くから辞めると言っている。採用してくれないか?」
と売り込んでくれたのです。

そして、折しもアメリカの事業部の部長とビジネスのトップが二人して日本に出張に来ていました。

「じゃぁ会ってみましょう」ということになり、私の元上司が私に電話をかけてきました。

「四の五の言わず、新宿のセンチュリーハイアットに来てください。いいから、私の顔を立てるとおもって来てね。」

私は高揚する気持ちを抑えつつ、センチュリーハイアットに向かいました。私の元上司やアメリカで上司となる人達がビジネスミーティングをしていて、お昼休みに一緒に御飯を食べることになりました。インタビューというものではなくて、
「じゃぁこの人で」という、もう線路は完全に敷かれていました。こうして、私はアメリカで働く事に決まってしまったのです。

その後辞表を人事部から取り返してくる…という展開になるのですが、もうひとつ折しもなことが起こっていました。本社の人事のトップの人が日本に来ていたのです。その人にも会いに行く様に言われました。

「グローバルなカンパニーとして、世界から優秀な人達を活用するのが会社の生命線です。頑張ってくださいね」

人事のトップからにこやかにそう言われました。こうして、私のアメリカ行きのレールは完結したのでした。


この折しもが次から次へと起こって、自分の力ではない流れに乗っている感じは非常に不思議でわくわくしたものでした。一つのバランスが移動し、その動きによって次の平衡が崩れて違う力が働いて…それぞれは独立に見えるのですが、そのただ中に居ると、間違いなくそれぞれの事象は繋がり合って居る様に感じました。

この連鎖反応を起こしたのは、「一歩を踏み出した」という行動によるものです。頭で考えていて一歩も踏み出さなければ決してこのシンクロニシティは起きなかったはずです。

考えるだけではダメで、行動を起こさないといけない…そして、時が満ちていれば折しもの連続『シンクロニシティ』が起こります。

悩んで立ち止まるのではなくて行動すること
時が満ちれば自然にぱたぱたと物事が動く。それを見逃さないこと
その時に向けて精進すること


この原則の初体験がこのアメリカへの転籍だったのです。



努力ばかりが人生ではない…と判った今でも、大学受験の時に得た

大それた…と思っても諦めないこと
ゴールをしっかり見据えて、そこにたどり着く最短距離を意識すること


という事については、正しい生き方の指標であると今でも考えています。


世の中には努力する前に諦めてしまう人が多いのも事実です。

言われて最高にむかつくことがあります。
努力もしない人から「うらやましい」と言われることです。


「アメリカに暮らせてうらやましいわ」
「英語が出来てうらやましい」

この類いの事を言われると、「うらやましかったら努力してみたらどうなのよ?」と思わずにはいられないのです。

誰も「最初からなんでも出来る」人はいません。

出来るかどうかはともかく、とりあえず行動した。
途中で投げ出さなかった


これが出来た人が「出来る人になる」のだと思います。
やる気もないのに棚ぼたで得られないからうらやましい…というのは、虫が良すぎますよね?
アメリカで同僚の子供話を聞くにつけ根本的な考え方の差に気がつく様になりました。

たとえば、子供達は様々な表彰状をもらいます。

初めて床屋さんに行って髪の毛を切りました。 とか
歌を上手に唱いました。 とか

何でもかんでも表彰してしまうのです。

「親ばかここに極まれり」という状態ではありますが、褒められてうれしくない子供はいません。うれしそうな子供の姿を見てうれしくない親もいないでしょう。

そしてこれは「誰にも光るところがある」という多様な物差しを持っていると言うことです。

だとしたら、これのどこが悪いのでしょうか。

「うちの子は○○がダメで」
「テストに100点取れなかったからダメ」
という謙遜大会とか、一つの物差しでしか計れない学校より、よりよっぽどストレートに幸せな近道だと思うのです。

「悪いところを改善しよう」
「良いところをもっと伸ばそう」

二つはやる事は似ていても、それで芽生える感情とその行為に込める気持ちの入れ具合はもの凄く違います。

私はこのお気楽極楽なアメリカの考え方がアメリカの強さなのだと思いました。
もちろんこれと「America as No. 1」という過剰な優越感は隣り合わせなのは承知ですが、辛く苦しいことばかりを要求されて来た私の10代~20代にこのあなたをあなたとして認めてあげる…という考えが入っていれば、辛さは激減していたと思います。
人と繋がるポジティブな力が育ったのではなかろうかと思うのでした。

些細な協力が得られず些細な事で喧嘩して…それが些細な事でも積もり積もると修復が効かない位大きくなるのでした。

「完璧な家庭生活」からドロップアウトし、人生で初めて自分一人の努力ではどうにもならないことがある…という学習をしました。

そして、アメリカでの生活を知ってしまった後は、「自己犠牲が会社への忠誠心のバロメーター」という社会のルールに乗って頑張ることが出来なくなってしまっていました。

更に言うなら、当時はまだ強固な年功序列の時代でした。部下の業績評価の際に

「君の前にあと2人いるから、今年は昇進はなしね」

といった話が上司からなんの疑問もなく躊躇もなく発せられる時代でした。

頑張ったって、上に年長者が居れば抑えられる。男性じゃないと尚更そう。

そう考えると、40歳になった時にやっていそうな仕事と自分が容易に想像できました。
その「見えてしまった」感触が私をいたたまれなくさせたのです。

私はアメリカの本社での仕事を探すこともしてみましたが、はかばかしくないので、会社を退職し、アメリカで出張中に始めたMBA(夜間)を全うしよう…。

そう決意したのでした。

最終的には、昔の上司の計らいでアメリカに職を得て、完全に退職することはなく、アメリカに転籍することになりました。

こうして私は「頑張り続けるよい子」から逃げ出したのです。
アメリカへの出張が与えられた事…これが頑張るだけで限界に近づいていた私に大きな転機となりました。
頑張って苦しいだけの人生と違う原理で世の中が廻っていて、かつ、仕事も認められる環境に初めて身を置くことが出来たのです。

今でこそ日本でも見かける様になって来ていると思いますが、アメリカでは子供の送り迎えを夫と妻が分担してやるのが普通です。

「子供迎えに行かないといけないから帰るね」

という理由を男性社員が口にしても何ら問題のない職場環境でした。

そして、男性の同僚がこんな事を平気で聞いてくる世の中でした。

「あのさぁ、週末に食料品の買い物するでしょ?あれって結構時間掛かるじゃない。家族でそんな事するより、食料品の宅配頼んで、家族で子供と遊ぶ時間増やせる様にならないかと思ってるんだけど、どう思う?」

そして、更には発達障害のある子供の母親が

「うちの子ね、障害があって、特別な先生に見てもらう必要があって、大変なの。でもね、本当に世界一可愛くて素敵な子なんだよね~」

と完全な親ばかを素直に表現できる環境でありました。

子供は親の従属物ではなくて、れっきとした個性であり、それをそのまま愛おしむ文化でした。
そして、仕事は一生懸命やっても家族の時間はかけがえのない聖域でした。

これで仕事が日本に比べてはかどらない…というのならある意味「日本は家庭生活を犠牲にしてるだけあって早いなぁ」とも言えるのですが、実際に仕事をしていて、アメリカのほうが仕事を早く片付けられることに気がつきました。

短時間で高率よく仕事ができ、120%働いて一人前…という軛もなく、社員みんなが自分の生活を大事にしている…そういう世界が存在する…これは衝撃的でした。
頑張ることが人生そのものにすり替わってしまっていた私の生活は結婚しても更に辛いことが増えていきました。

会社では120%働くキャリアウーマン
家では完璧な主婦
そして、片道1時間半の通勤


適当にやる…ということが出来ない私は倒れそうになるまで身体も心もむち打って両立を目指しました。
それだけ辛いのですから、パートナーには当然「ささやかな協力」を望みました。

例えば洗濯ものを投げ入れる時は表裏ひっくり返さないでほしい(干す時の時間が短縮できるから)

そんな些細なことを願う私に対して、そんな些細な事だから守ってくれないパートナーがいる…。そしてそんな些細な事で喧嘩する。この繰り返しでした。

そして仕事についても全身全力で頑張っても、やはり徹夜とかは出来ません。そして、徐々に気がついてきました。「自分の家庭生活を犠牲にすることが会社への献身を示すバロメーターとして使われる」ことを。

家に専業主婦が居る男性社員なら思いっきり家庭を犠牲にして出世も出来るでしょう。(今となってはそれもどうかと思いますが)けれど、家庭も完璧にこなしたい私にはどう考えてもこの二つは両立しません。

にっちもさっちもいかずに行き詰まっていた頃、アメリカ長期出張という話が持ち上がったのです。
母方の祖母の両親(曾祖父母)は祖母がまだこどもの頃に亡くなったと聞いています。祖母とその妹は彼女達の叔父の家に身を寄せ、両親に甘える経験が余りないままお見合いで結婚しました。祖母の夫(祖父)と祖母の妹の夫も兄弟でした。祖母は祖父に結婚式で初めて会ったということです。

母は祖母について甘えさせてくれる母ではなかった…と話していました。
そして、母はこどもの頃から「私が両親の面倒を見る子供になるのだ」と呪縛の様に思い込んでいました。普通のルールであれば母には兄(叔父)がおり、兄夫婦が面倒を見るはずでした。

母は退職後家財を引き払い、父と一緒に祖母の住む家に戻りました。そして、祖母が逝くまで介護を続けたのです。その頃の母の不満たるや、もの凄いものでありました。

「看病されることが当然と思ってるんだから」

様々な言葉のバリエーションはありましたが、母が祖母から聞きたかった一言は「ありがとう」の一言でした。けれど、その言葉が祖母から発せられることは本当に死期の近づいた1~2ヶ月位までなかったのです。

祖母からしたら、「この子を一生懸命育てたんだから、面倒を見てもらって当然」という思いがあったのだと思います。しかし、母からしたら、「育ててなんて言ってない」訳で、介護は因果応報ではないのです。母が一生懸命看病していたのは、祖母から認めてもらいたくてやっていたのは明らかでした。しかし、なかなか認めてもらえない…自分から行っている事なのに不満ばかりがつのっていました。

そして、私と母の関係です。

ぐずでのろまな娘が難関大学に入れたのは私の教育の賜物…

自分の人生を家族のために「犠牲にして来た」と思っている母の人生の中で、私が大学に入ったことは大きな勲章です。これについても、私が母に感謝して当然と思っているのでした。

「育ててあげたんだから面倒見てもらって当然」という祖母と
「難関大学に入れてあげたんだから感謝されて当然」という母

その「当然」と思っていながら、自らは「認められたい」と乾きを感じている辺り迄、余りにそっくりで唖然としたものです。

そして私もそんな母に認めてもらいたいと頭の中に「よい子」を作り出し、一生懸命自分を辛くさせていた訳です。母も頭の中に「よい子」「よい母」を作り出して、自分を辛くしていたのだろうと判りました。

こうして、親子は繋がって行くのだ…と感じました。私には子供はいませんからこの連鎖はここで終わりそうですけれど。

数回に分けて、努力する苦しい人生の話を書きました。
今の私が「地道に頑張るしか自分の生きる道はない」と思い込んでいた自分にアドバイスすることが出来るとしたらこんな事を言うと思います。


努力する事は必要だけれど、それがもしも苦しいとしたら、突き詰めて「なんでそこまで苦しいのか」考えてご覧なさい…と。

私の場合、突き詰めた究極の理由は「両親に認めてもらいたかった」ということでした。そのために涙ぐましい努力をしていたのです。その努力がそのうち成功と結びついたことで、努力することそのものが生きる事にすり替わってしまっていたのです。

別の言い方をするのなら、「親から見たよい子」であろうとして努力を続けるうちに、自分の中に「あるべきよい子(理想の自分)」が出来てしまい、それと比較して常に自分を叱咤激励する…というサイクルに入っていったのです。

このパターンの問題は努力する原因がそもそも「自分が認められていない」「受け入れられていない」と言う他者との関係における渇望から来ているということです。

そもそも自分があるがままの自分を愛していない・認めていないで、他者から認めてもらいたい…と渇望している訳ですから、本当言うと周りからしてもたちが悪いです。

この悪いサイクルに気がつくことが出来ましたが、その経緯はまた別に書くとして、今言えることは

あなたはあなたのままでいいんだから、まずは自分を認めてあげてください
努力する時は誰かのためではなくて、自己満足のために努力しなさい


ということです。あなたの人生はあなたがハッピーになるためのものなのですから。

一人でコツコツと頑張るしか取り柄がない…と言うフィードバックをかけ続けた10代~20代。
もちろん恋人もいたし幸せだったはずなのですが、何かに常に急き立てられている気持ちがしていましたし、誰かに認めてもらいたくておどおどしていましたし今から思えば孤独でした。

男女雇用均等法が施行されお給料こそ男女で差がなくなりましたが、女子社員をどう扱ったら良いのか会社社会自体が模索していた時代、
「女は120%働いて初めて男並みと評価してもらえるんだから頑張りなさい」
と、入社の餞に両親から言われた時代。

会社生活においてもひたすら頑張るしかありませんでした。

私は何のために頑張っていたのでしょう?
人生って辛く苦しく頑張るためのものなのでしょうか?

昨日のブログで大学受験を機に「努力する事」=「後悔しない(満足な)人生」という方程式を実感として得たと言うことをかきました。

この方程式は大学に入ってからも強化されていきました。さすがに「難関」と言われている大学だけあって、予備校の模擬試験でトップクラスの常連だった人たちがごろごろしていました。そして、高校時代あんまりガリガリと勉強していると友達から敬遠されたものですが、
「勉強するの好きヾ(@^▽^@)ノ」
と真顔で言える人たちがクラスメートになり、そこはかとない劣等感を醸し出す状況が揃っていたのです。

「こういう人たちと伍して行くには地道に頑張るしかないもんなぁ…」

まぁ実際そうだったのですが、劣等感とセットだと「努力する事」にも辛さがにじみます。決して「楽しんでやる」という趣にはなりません。

今振り返ると、何故もっと楽しんで勉強することが出来なかったのか…と思います。
でも、若い当時には到達できない境地だったのかな…とも思うのでした。