私が初めて「後悔しない人生」ということを真剣に考えたのは大学受験の時でした。

結果から言うと、日本で一番難関と言われている大学の一つに現役で合格し、修士課程まで修了することに繋がるのですが、この大学を受験しようと考えること自体、かなりハードルの高いことでした。

受験校でもなく(今は大分進化して受験校になってますが)「科目が多いから国公立はおやめになったら?」と担任からアドバイスされる様な良妻賢母子女教育の学校でしたから、受験に関しては学校で役に立つことはほとんどありませんでした。

授業のペースに合わせていては勉強し終わらないので、さっさと教科書の内容は済ませてしまい、授業中に参考書を開き全く別の勉強をしているのが常でした。そして学校迄も通学が1時間半かかるのに、2時間以上かかる予備校に通い、孤独に受験勉強を続けました。

体力があるはずの高校時代でも常にへとへとで、親からの期待も高く、家に居ても休まる暇もなく、ふっと夜中に「ここで包丁でさっと手首切ったら楽になるかな…」なんて妄想が出て来る程でした。それをやってしまいそうな自分が怖くなったこともありました。

そこまでしたから希望の大学に入れたのか…?

今振り返って思う答えはYes and Noです。
Yesの部分:確かに知識や考えを身につける訓練をしないと共通一次(今のセンター試験)や大学での応用問題を解けなかったと思います。

でも、それだけだったら合格はしなかったと思うのです。


ではNoの部分、頑張る「以外」の部分で合格を後押ししたのはなんだったか…というと

大それた…と思っても諦めないこと
ゴールをしっかり見据えて、そこにたどり着く最短距離を意識すること


の2点だったと思います。どんなに時間を費やしても目をつぶっていたらゴールには一向に近づかない可能性だってあるのです。そして、諦めないこと…誰も最初は出来ないんです。だから諦めないのはとても重要なんですよね。

既に死ぬ程苦労している訳です…合格発表の掲示板の前で
「あぁもう少し勉強しておけばな」と後悔する事だけはしたくない

それが私の頑張る原動力でした。

こうして私の「後悔しない人生というルール」と「努力」は結合しました。
繰り返しますけれど、結果はオーライだった訳です。


その時の私は知りませんでした。
努力する事だけでは成功の方程式は未完成だということを…
そして、この受験という辛い思いがとんでもないトラウマを残した事を…
大上段に構えるつもりは毛頭ないですが、「このまま定年(って正確には定年はないんだけど)を迎えて悠々自適の生活を送るんだわぁ」という将来像が描けないでいます。

結局はそうなるかもしれないし、仮にそうなったとしても満足できる人生の結果そうなるのであろう…という予感はするのですが、そういう結果に落ち着く迄に紆余曲折がありそうな…そんな胸騒ぎがこのところ高まっているのです。

ここ迄生きて来て、いくつかそれなりの岐路というべきもも通り過ぎて来ました。その時にいつも自分に問いかける「究極の質問」があります。ブログの最初の記事はその質問の話をしようと思います。私の人生のルールとでも言うべきものです。


あなたは今医師と向かい合って座っています。そして医師が厳かに言うのです。

「残念ですが、あなたの人生はこの瞬間に終わりです。」

さて、あなたはその瞬間に人生を振り返ります。

「愛する人にお別れを言えないのは残念だし、まだ生きていろいろやってみたかったけど、まぁそれはいつ迄生きていてもそう思うだろうから、仕方がないと諦める。でも、それ以外を振り返ると、概ね満足だったかな。」



あなたは人生の岐路にあります。どちらを選ぶか、どちらに行ったら「人生最後の振り返り」により満足が得られるでしょう?

この質問を自分に問いかけると、案外と自然に心が決まるのです。
友達に何度かこの話をしたことがあります。ほとんどの反応は

「普段から死ぬ事考えるなんて健康的じゃないよ」

なのですが、私たちの日常は一瞬で壊れてしまうものなのです。それが何十年も続いて行けること自体が奇跡と考えた方がいいのです。だから、思いっきり生き抜くことが出来るか、言い換えると死ぬ時に満足できるか…それは、いつでも胸の奥に抱えて行くべき質問だと私は思うのです。