おはようございます、えびでんです。
無事仕事が終わり、ちょっとしたトラブルがあったものの時間通りに終わりました。
今日は3月11日。今年もこの日が来ました。
普段Twitterでもツイートしていないため改めてブログに当時の記憶を残したいと思います。
12年前の今日、私は中学の卒業式がありました。
家族の支えもあり横浜市内の私立中高一貫校に通わせていただいていたため、卒業式の後は同級生と横浜駅前の雑居ビルにあるカラオケ店で中学生ながら打ち上げをしていました。
昼過ぎからお店に入っていたため一番盛り上がっていた時間だった事は覚えています。
そんな時、私たちを揺れが襲いました。
入り口付近に座っていた私は咄嗟にドアを開け、揺れが収まるのを待っていました。
厨房から聞こえる食器の割れる音、軋むビル、近くから聞こえる女性の悲鳴、今でも鮮明に覚えています。
揺れが収まると店員から「外に避難してください」と言われ友人たちと外へ。オフィス街の近くということもあり付近のビルから逃げてきた大勢の人達でごった返しており騒がしく、もちろん携帯はつながらず途方に暮れていました。
発生から1時間程度で横浜市内で学校主催の懇親会をしていた母親グループと友人の携帯が繋がり、「先生の指示で周りにいる生徒に声かけて学校に戻ってくること」と言われ横浜駅のある横浜市西区から港北区まで10人ほどのグループで徒歩で向かいました。
途中の道路は大渋滞、人の列で本当に辿り着けるのかと怯えながらもどこが震源で何が起きてるのかわからないまま2時間半ほどかけて学校に到着しました。
学校では先生たちが食糧を買い込み、全員に配布できるよう手配をしていました。母親とも合流しそこでテレビを見て「東北を震源とする地震、大津波が海岸線を襲っている」と知りました。その時、母親から「松島基地まで津波が来ているけど、叔父さん大丈夫かな?」この一言で背筋がゾッとしました。
翌日まで学校に泊まることになり、翌日帰宅困難者で満員になった電車でなんとか家に帰ることができました。
親戚の叔父の話に移ります。
元航空自衛隊松島基地に勤めていた経歴があり、松島基地からほど遠くないところに住んでいました。
そんな松島基地が津波に襲われてる映像を学校で見た私、感情がありませんでした。
発生から一週間ほど宮城県内にいる親戚一同とは連絡が取れず、家族で不安な日々を過ごしていました。
3月末に学校行事でオーストラリアにホームステイに行く予定だった私、計画停電の合間を縫いながら用品を買い集めながらも親戚の連絡を待っていました。
NHKではフリーダイヤルで被災地に向けた安否確認メッセージを募集しており、祖父が涙ながらにいの一番に連絡していたことも覚えています。
地震の影響を気にしながらもオーストラリアの海外研修に出発した私、ホームステイ先のテレビでは福島第一原発の事故をニュースで伝えていました。ホストマザーからは「あなたは大丈夫なの?」と聞かれましたが、「OK.」と二つ返事。そんなわけありませんでした。
今となってはオーストラリアのホームステイが自分自身の気の紛らわしになっていたかもしれません。
月末にホームステイから帰ると無事連絡が取れたと祖母から言われほっと一息でした。
長くなりましたが、東日本大震災は東北にルーツがあり、鉄道ファンである私にとって様々なことを教えてくれました。
また機会のある時に書き綴りたいと思います。
震災から12年が経とうとしています。
改めて亡くなられた方へご冥福をお祈りするとともに、怪我をされた方、原発事故でいまだ避難を強いられている方にお見舞い申し上げます。