大河ドラマ『どうする家康』第26回「ぶらり富士遊覧」での徳川家臣の対応について『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ (角川ソフィア文庫)』で見ていきます。
普請・普請の大わらわ
(NHK大河ドラマ『どうする家康』の徳川家の信長のおもてなし(C)NHK)
1582(天正10)年3月に、甲州征伐で武田家を滅亡させた織田信長は駿府・遠江・三河といった徳川家康領を通って、富士山を見ながら安土城に帰る遊覧を行います。それに対して徳川家康、そして家臣らはどのように対応していったのでしょうか
信長の対応に追われる家康とその家臣たち
1582(天正10)年
3月 5日 織田信長は安土城を出陣し、途中で首実検を行いながら信濃国を進む。
3月11日 武田勝頼が天目山(甲州市)で滝川一益により討ち取られる。
その首は甲府に送れたことが家忠の耳にも入る。
3月17日 家康は諏訪にいる信長の許に赴いて対面。
3月29日 信長は諏訪にて武田領国の知行割を行い、家康に駿河を与える。
※この知行割を行う前に、すでに信長が徳川家康領を通過して、東海道で安土城に戻ることが決まっている。
大河ドラマ『どうする家康』では、家康が信長を安心させ、油断させる意図も含んでのおもてなしとして諏訪での対面時に提案する形ですが、松平家忠によるとすでに決まっていたそうです。
3月19日 家忠の耳に信長が家康の三河国を通って帰るので、遠江国で御茶屋を建設する知らせが入り、酒井忠次の指揮下の国衆の一人として普請に関わる。
3月23日 家忠は本栖に行き、25日から小屋づくりを開始。
4月 3日 信長は甲府に橈尺
4月 5日 家忠は、 女坂で御茶屋普請をし、9日に女坂普請を普請
4月10日 信長、右左口(甲府市)に「御成」
家忠日記では、以後の信長の行動はすべて「御成」と記述
「御成」とは、室町将軍の外出を意味する表現とのことで、家忠がこの表現を使うことは信長を将軍同様に認識であることが表現されています。
この御成の際には、多数の家臣を引き連れた行列が進み、沿道に作られた茶屋や小屋や御成先では饗応「馳走」が行われた。その準備には家臣が総動員され、家忠も主に小屋や茶屋の建設を担当し、多額の金銭と労力を提供させられます。
その後、信長一行は、家忠が茶屋や坂道を普請した女坂を使って右左口峠を越えて、九一色(甲府市)から、精進・本栖湖東岸を通り、富士宮に抜けていった。このときも家忠ら三河国衆は峠の周囲の山や谷に立ち、信長の行列を警固した。
4月12日 信長、大宮(富士宮市)に御成
4月13日 信長、江尻城に御成
その後の信長は、駿河国の田中城、遠江国に入って掛川城、浜松城、三河東部の吉田城、そして池鯉鮒城と順に御成して、各地で家康家臣から馳走を受けて、「信長の御成」は無事に終わる。
4月14日 家忠は信長の行列を見送ったのち本拠の深溝城に戻る。
家忠はこの最中に、信長がイエズス会宣教師から進上された身長2メートルの大男の黒人の弥介を見ており、そのことを家忠日記に記録しています。かなり驚いたのではないかと思います。
『松平家忠日記を読む』の紹介ブログ記事