#301 東三河侵攻を『三河物語』から見る ~『どうする家康』を楽しむため | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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大河ドラマ『どうする家康』でも瀬名姫や子ども達の人質交換につながる東三河の侵攻についてを家臣の大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫) 』から見たいと思います。

大河とは順番が逆な三河一向一揆と家康の人質交換

 

<『三河物語』における東三河侵攻の関係地図>
 

青:徳川方 赤:今川方 黄:国人衆で徳川に下るもの

(東三河)今川氏真との争いの場所

 

  今川氏真との人質交換

(NHK大河ドラマ『どうする家康』の鵜殿長照)

一揆が終わり、東三河に侵攻する徳川方は、今川方の鵜殿長照(義元の甥)が守る西之郡の城(大河では上ノ郷城)をこっそり忍び寄ってとり、長照を討って二人の子どもを生け捕った。

この「こっそりと忍び寄ってとり」が、服部半蔵らの忍者の使用の可能性を感じるものなんだと思います。

家康が人質に出していた息子の竹千代(のちの信康)について、今川方でも「すぐに殺せ」という声もあったが、祖父が今川一門の瀬名親永であったことから、すぐに殺されることはなかった。そこで石川数正が「最期のお供をしよう」と駿河に行っていたところ、徳川方より鵜殿の息子たちとの人質交換の話が来て、今川氏真も応じて、石川数正は竹千代らと岡崎城に戻った。

子の人質交換については、「今川氏真は、さてさて阿呆か。竹千代様を鵜殿とかえるなどばかものか」と言われたとのこと

 

  一の宮の撤退

人質を取り戻した家康はさらに侵攻し、牛久保城、吉田城へ攻め寄せ、長沢城を獲った。牛久保・吉田に対して一の宮に砦をとった。

今川氏真も佐脇と八幡に砦を築き、駿河・遠江の一万の軍勢で、本陣を牛久保にとり、5,000余の兵で一の宮砦を攻め、3,000の兵を後詰とした。

家康は、3,000ほどの軍勢で、今川方の佐脇砦、八幡砦のあいだへ出陣し、氏真の本陣を押し通られ、一の宮砦を攻める今川勢を追い払い、夜砦に陣を取って翌日同じ道を通って戻るところ、今川氏真は出陣できなかった。これを「一の宮の撤退」といった。

 

  東三河の攻略成功

その後、家康は、八幡砦、牛久保城、御油城へ攻め寄せ、八幡砦に押し入り放火して撤退、転戦して八幡砦、佐脇砦を取ると、牛久保城の牧野貞成が内通し、設楽の設楽貞通も降り、東三河の国人衆(東三河衆の西郷正勝、野田の菅沼新八郎定盈、下条の白井麦右衛門)らが続々と徳川方に降ってきた。

二連木城の戸田丹波守重貞も内通する旨をいい、松平姓をいただき、松平丹波守と名乗った。

 

その後、吉田城に迫って、今川方は、喜見寺砦に鵜殿八三郎長次、糟塚砦には小笠原新九郎安元、二連木砦には丹波守が守っていたが、吉田城を明け渡して退却し、長篠、作手(つくで)、段嶺(だみね)の領主も降参して、家康の家臣となった。

 

大河ドラマ『どうする家康』では、5・6話で鵜殿長照の上ノ郷城を攻略して今川との人質交換を成功させ、8・9話が三河一向一揆という流れです。

『三河物語』では、先に三河一向一揆が来て、その終息後に東三河侵攻で鵜殿長照を討ち、人質交換になっています。

三河一向一揆は、永禄6~7年の出来事

鵜殿長照が家康に討たれるのは永禄5年の出来事

なので、『三河物語』は大久保彦左衛門忠教が晩年に記憶をもとに書いたものゆえに、その記憶ゆえに前後関係が入れ替わってしまっているようです。

※大久保彦左衛門忠教は、永禄3年生まれ

 

 

 

 

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