#284 設楽原後の対武田戦を『三河物語』からみる ~『どうする家康』を楽しむため | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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6月11日放映の大河ドラマ『どうする家康』で信長に臣従し武田の息の根を止めることを求められた家康・信康の設楽が原後について『三河物語』ではどのように描かれているのでしょうか

大久保忠世・忠佐兄弟の活躍

NHK大河ドラマ『どうする家康』の大久保忠世、設楽原の戦いでは忠佐の兄弟で活躍して信長に褒められたましたが、その後の武田家との戦いでも活躍します。

※『三河物語』の著者の大久保彦左衛門忠教は、忠世と忠佐の弟にあたります

  その後の戦い

二俣城のアクセス(浜松市の二俣城のHPより)

長篠城から撤収した家康はすぐにお礼のために安土城へ参る。そのときに大久保忠世は同行せずに、弟の大久保忠佐が同行した。

安土城で信長は忠世と忠佐を気にかけ、忠佐が前に出ると「お前たちほどの者は、私の配下にはいない。よくがんばってくれた」とおっしゃり、着物をくださった。

 

家康は安土からお帰りになると二俣城(浜松市天竜区)を、大久保七郎右衛門忠世を責任者にして攻撃をした。

その他に、光明や横川にも攻め寄せ、横川城の朝比奈泰方は降参し、二俣城も落城させた。

 

翌1576(天正4)年、犬居城を攻めるため、まずは樽山城を下し、勝坂(天竜区)に押し寄せた。武田方は潮坂に防衛線を張るが、大久保右衛門尉忠世の指揮と、弟の忠佐の活躍により、守っている武田方の天野宮内右衛門尉景貫は潮坂は明け渡して退いた。

 

翌1575(天正5)年、諏訪原城(島田市)を攻め取られ、小山城(吉田町)に押しよせ、勝頼は後陣として、長篠で戦死したものの跡つぎで十二、三より上の者や還俗者を引き連れて出陣してきた。

武田勝頼の一番隊・二番隊が大井川を越えてきたので、家康側の城の包囲を解いて引き上げた。そこで信康は家康に進言して自らはとどまり、家康らを先逃がして後、整然と隊伍を組んで引き上げた。勝頼軍も引き上げた。

大河では設楽原の戦いの後の対武田戦では信康が先頭に立って活躍する感じですが、『三河物語』では、著者の大久保忠教の兄二人(忠世・忠佐)が活躍をしています。

それぞれの違いは、大河は、のちの築山事件の悲劇につなげていくため、『三河物語』は大久保一族その祖先の活躍を伝えるためというそれぞれの狙いの違いなのかもしれません。

こちらは、大河ドラマ『どうする家康』の「設楽原の戦い」についてです。

 

 

 

 

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