#271『三河物語』を読むその11  幼き家康(竹千代)~『どうする家康』を楽しむため | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

歴史をもっと知りたい!
本を読めば広がる光と闇を楽しんでいます。
歴史と読書記録。積読などをアップしながら、日本史や世界史を問わず歴史の考察などを発信します。

2023年大河『どうする家康』で徳川家康が主人公ですが、その家臣大久保忠教(大久保忠世の弟)が書いた『三河物語』から徳川家康を見ていきたいと思います。

織田信秀と今川義元の両者で人質生活を送る家康と家臣らの苦労

JR静岡駅北口広場に平成21年3月に除幕・設置された竹千代像(のちの徳川家康)

 

戸田康光に銭千貫目で織田弾正忠信秀(信長の父)に売られて尾張で囚われの身となった竹千代(のちの家康)ですが、父の松平広忠はそれでも今川方として織田と戦います。今川の援軍が第二次小豆坂の戦いで織田信秀を退けますが、松平広忠もその後病死してしまいます(死亡については諸説あり)。

 

  織田信広との人質交換

小豆坂の戦いの翌年(1549年)に、今川義元殿は雪斎長老を大将に、織田三郎五郎信広(信秀の弟)殿が守る西三河の安城城へ攻め寄せて、織田信広を捕えます。雪斎長老は織田弾正忠信秀に使いをやり、松平竹千代(のちに家康)殿と人質交換に応じなければ、織田信広を切腹させると伝え、織田方の平手政秀と林通勝の二人から人質交換に応じる返事がきた。

 

  駿河での竹千代様の生活

竹千代様は7~19歳までの間、駿府にて暮らすがそのご苦労は言い尽くせないほどだった。

のちに武田勝頼領の高天神城を家康が攻め落としたときに、当時、不親切に接した原見石主水元泰には切腹を命じ、親切に接した大河内というものは命を助けられ、品物までもらって国許に送り返された。

 

  三河の譜代の家臣たちの苦労

竹千代様(家康)が7~19歳まで、駿河に人質として軟禁されている間、今川義元殿からは食べるだけの扶持を与えられるだけで、三河の産物は残らず横取りされた。

ご譜代衆は十年余、年貢米をあたえられるわけもなかったので、百姓同然に、みずから田を耕し、年貢米を納めて、妻子を育て、わが身を過ごした。

主君の大事になってはと、駿河衆というと、ごきげんをとり、へいこらへいこらとして、ひどい気遣いをしながら、戦に駆け回ることが10年以上続いた。年に数度の尾張への合戦には、竹千代様(家康)はいないのに先陣を切らされ、尾張からの侵攻にも出てこれを防いだ。

今川義元殿は竹千代殿の譜代の者さえ殺してしまえば、竹千代殿が岡崎に帰ろうがどうしようが勝手と思われたのか、あちらこちらの合戦の先陣を切らせた。

 

『三河物語』では、竹千代様の駿府での人質生活む苦労が多く、三河の譜代衆たちは今川の駿河衆には気を使い、武士といえども百姓同然に農作業にいそしんでいるというのが描かれています。『どうする家康』でも、家臣らが農作業をしている風景が描かれていたと思います。そこはこの『三河物語』と一致しているようです。

 

 

 

にほんブログ村 にほんブログ村へ
にほんブログ村