#258 『信長公記』を読むその33 巻15の1 :天正十(1582)年 安土城について&雑賀攻 | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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『信長公記』最終巻の巻15 天正10(1582)年のその1は、安土城のことと雑賀攻めについて

 

 豪華な安土城

(安土城天主復元模型1/20スケール(内藤昌監修/安土城郭資料館))

 

華麗な安土城でのできごと

正月ついたち、隣国の大名や信長公の御兄弟の方々が安土にいて、新年のご挨拶に伺った。出仕のものたちは百々の橋から惣見寺へおあがりになったが、大変な人出のため、高く積み上げた石垣を踏み崩し、崩れ落ちて死者もでて、負傷者も数知れずであった。

年賀のあいさつの順番は、一番はご一門の方々、二番は他国衆、三番目は安土居住の人々で、堀久太郎・長谷川竹を通じて、お祝い銭を百文ずつ持参するようにとのおふれがあった。天守の下の白洲の下まで参上すると、信長公はみなにお言葉をかけられた。前例に従い、まず三位中将信忠卿・北畠中将信雄卿。織田源五長益殿・織田上野守信包殿、他ご一門の方々で、次は他国衆で、それぞれ階段を上がり、お座敷の中へめされて、おそれ多くも御幸の間(天皇の行幸を迎えるためにしつらえた座敷)を拝見させてくださった。お馬回り・甲賀衆もおのおの拝見したのであった。

お座敷はすべて金をちりばめ、どのお座敷にも狩野永徳に命じていろいろなあちらこちら風景のおもしろいことは、言葉に出して言いようもないほどであった。そこからご廊下続きにいくと、「御幸の間を拝見するように」との仰せで、申すのも恐れ多い一天万乗の帝の御座である御殿へ召されて拝覧できたことはまことにありがたく、この世の思い出となるものであった。

ご廊下から御幸の間は、はじめから屋根が檜皮ぶきで、装飾の金物が日にきらめき、殿中はすべて金がちりばめられ、どこも周囲の壁には絵が張り付けられ、地に金ぱくが押されていた。金具はすべて黄金で斜粉(ななこ 彫金法の一つ)をつかせ、地金には唐草模様を彫り、天井は格天井で、上も下も輝くありさまで、そのすばらしさは何とも言い表しようがない。お畳は備後産の表で上に青い織目があり、縁は高麗縁や雲絹縁(うんげんべり)である。

正面から二間奥に、天皇の御座と思われるみすの中に一段と高くなったところがあり、そこは金で美しく飾られ、光り輝くばかり。薫香があたり一面よい香りを漂わせ、まことに結構なところであった。東に続くお座敷がいく間もあり、絵が張り付けられ、総金の上に彩色の絵がさまざまにかかれてあった。

御幸の間を拝見してから、元の白洲へもどったところ、御台所口へ参れとの仰せで参ると、信長公はおうまやの入口にお立ちになり、百文ずつのお祝い銭をかたじけないことに直接お受け取りになって、うしろへ投げられた。他国衆は、金銀・唐物、その他さまざまに珍しい物を信長公にお目にかけられた。

 

 正月15日 御爆竹(左義長)の行事を近江衆へ仰せつけられた。一番に御馬場入りしたのは、菅屋九右衛門、堀久太郎秀政、長谷川竹、矢部善七郎、お小姓衆・お馬回り衆、二番目は五畿内衆。隣国の大名・小名、つづいて三位中将信忠卿・北畠中将信雄卿・織田源五長益殿・織田上野守信包殿他ご一門の方々がお入りになった。

四番目に信長公がお出ましに、馬は仁田殿が進上した矢庭鹿毛・奥州からのぶちの馬・遠江鹿毛のご秘蔵の三頭を取りかえ取りかえお乗りになった。その日は雪が降り、風もあってひとしお寒さが身に染みたが、信長公は午前8時から午後2時ごろまでお馬をお召しになり、見物の群集の耳目を驚かしたことであった。暗くなってからお馬を納められた。

 正月16日 去る天正8(1580)年に佐久間右衛門尉信盛父子は信長公のご勘当を受け、他国を放浪していたが、信盛が紀伊の熊野奥で病死した。信長公は子息の甚九郎に旧領を保障し、お許しになると仰せ出されたので、甚九郎は美濃の岐阜まで参上し、三位中将信忠卿へお礼を申し上げられたのであった。

 正月21日 備前の宇喜多和泉守直家も病死した。羽柴筑前守秀吉はその家老たちを召し連れ、安土へ参上して報告し、宇喜多家から信長公へ黄金百枚を進上してごあいさつ申し上げた。信長公は跡目を秀家が継いでも差し支えないとのご意向を示され、家老たち一人一人にお馬を下された。

 

伊勢大神宮の遷宮を援助

 正月25日、伊勢大神宮では正遷宮が三百年このかた中絶し、執り行われることがなかった。神宮の上部大夫貞永から、堀久太郎秀政を通じて信長公に、今の帝の御世に、信長公のおぼしめしをいただき、当宮を再興したいとの申し入れがあり、信長公課費用をお尋ねになったところ、「千貫あれば、その他は寄付によって賄う」とお答え申しあげたところ、「千貫ではできない、民百姓に迷惑をかけるようなことになってはよろしくない」と、まず三千貫をお与えになり、「この他入り用とあらばいつでもつかわす」ことを付け加えられ、平井久右衛門を奉行に命じられた。

 正月26日、森乱(蘭丸)を中将信忠卿の岐阜城に遣わし、先年土蔵に穴あき銭1万6千貫を、正遷宮に入り用とあり次第渡すようにとご命令を出された。

 

 紀州雑賀に出兵

 正月27日、紀州雑賀の鈴木孫一が、去年継父を土橋平次に打ち殺されたことから、それを恨み、うちうちに信長公にお許しを得た上で、同地の土橋平次を殺害し、館を押し囲んだ。その経過を信長公に注進申し上げたところ、後援として、織田左兵衛佐信張を大将に、根来・和泉勢を派遣された。土橋平次の子息たちは、根来寺の千職坊に逃げ、立てこもった。

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