#257 『信長公記』を読むその32 巻14の5 :天正九(1581)年 安土城でのことなど | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

歴史をもっと知りたい!
本を読めば広がる光と闇を楽しんでいます。
歴史と読書記録。積読などをアップしながら、日本史や世界史を問わず歴史の考察などを発信します。

『信長公記』巻14 天正9(1581)年のその5は、安土城での各イベントなどについてです。これで巻14は終わりです、。

 相撲大会 諸大名などからの進物の数々

 

 正月1日 年賀の儀式は、諸国大名には略すとのご通達を出され、安土にいるお馬回りの者たちだけを西の門から東の門へお通しになり、ご覧になりたいとのご上意があり、その覚悟でいたところ、夜中から午前10時まで雨が降り続け、信長公のお出ましはなかった。

 3.10 信長公は京都でのお馬揃えを終えて、京都から安土へご帰城

 3.12 神保越中守と当国の武将らが安土に伺候し、お馬九頭を進上。佐々内蔵助成政も馬の鞍・あぶみ・くつわ・黒鎧を進上した。

去る天正5(1577)年、長岡兵部大輔藤孝・与一郎・頓五郎の父子三人が忠節を尽くしていたので、天正8(1580)年8月に丹後を下され、長岡兵部大輔藤孝はこれまでの青竜寺城を信長公に差し上げた。

 3.25 信長公は、青竜寺城警固のために城代として矢部善七郎、猪子兵介を差し向けられた。

 4.10 信長公はお小姓衆5、6人お連れになって竹生島を御参詣に、安土城では遠路ゆえに長浜にお泊りになるであろうと誰もが考えていたが、その日のうちに信長公はお帰りになった。女房たちは二の丸まで出かけていたり、桑実寺に参詣に行っている者もいて、ご城内では意外なことにあわてふためき、取り乱していた。信長公は遊びほうけていた者をくくり縛って罰し、桑実寺に参詣している女房を差し出すようにつかわしたところ、お詫びを申し上げた長老をも同時に成敗された。

 4.13 信長公は、長谷川竹、野々村三十郎の両名にご知行を過分に下された。

 

和泉の国槇尾寺、破壊と信長公、高野聖を成敗

 3.9 信長公は堀久太郎秀政に和泉国の検地を命じて派遣した。

信長公は和泉国のご領内の差出を堀久太郎に命じ、槇尾寺領を検閲・調査させたところ没収とあいきまった。寺中の悪僧どもが、寺下の村々を守り合ってこれを承知しなかった。信長公は急ぎ寺を攻め破り、一人残らず首をはね、焼き払えと命じた。

堀久太郎はふもとの一帯を取り押さえたところ、山上の槇尾寺の僧たちも寺を捨てて退散してしまった。

槇尾寺のご本尊は、西国三十三所のうちの四番目にあたる巡礼観音で、霊験あらたかであった。空海(弘法大師)がご幼少の折に、岩淵の権枢僧正から教法のすべてをお習いになったお寺である。

信長公のご威光に恐れ、濁りきった末代となって、観世音菩薩の力も尽き果てた。当寺が狐や狼のすみかとなることを、わずかの間は嘆いたけれどもどうしようもない。

 4.21 槇尾寺から僧たちが下山してしまった。これに伴って本山の高野山もきっと破滅される。その前ぶれではなかろうか。

 8.17 信長公は高野聖を尋ね捜し、からめとって数百人を全国から安土に召し寄せられ、全員を殺された。荒木摂津守村重の残党である伊丹城の浪人どもを高野山でかくまっており、その浪人の中から一、二名呼び出したい人物があったので、ご朱印状をもって命じたが、それに対して返事もせず、お使いに立った者十人ほどを討ち殺してしまったためである

 

安土城の相撲大会

 4.21 安土城で相撲大会があり、大塚新八が勝ち残り、ご褒美として百石をくださった。

 4.25 溝口金右衛門が高麗鷹6羽進上した。近来鷹の進上がなかったので信長公は大変喜ばれた。

 5.10 和泉国の槇尾寺の坊舎は、織田七兵衛信澄、蜂屋兵庫頭頼隆、堀久太郎、宮内卿法印(松井友閑)・惟住五郎左衛門長秀らが、検分・没収を行い、少々取り壊したものもあった。その他、堂塔伽藍・寺庵・僧坊・経巻に至るまで櫃とも残さず、堀久太郎がご検地となって焼き払ってしまった。

ったところ、惟住五郎左衛門長秀が長浜に参って、石黒左近らを自害させた。

 7.11 越前から柴田修理亮勝家が、黄鷹6羽と適当な形、大きさに切った石を数百あわせて献上申し上げた。

 7.15 信長公は安土城のご天守閣ならびに惣見寺に提灯を数多くつるさせ、お馬回りの人々が新道・江堀に船を浮かべ、手に手に松明をともし申した。城も城の下も輝き、水に映ってなんとも表現しようのない風情のあるありさまであった。

 7.17 信長公は岐阜中将信忠卿にご秘蔵のひばり毛のお馬を一頭お下げ私になった。天下に隠れない名馬であった。

 7.20 出羽大宝寺城の城主武藤氏よりお鷹とお馬を献上申し、翌日返礼に小袖・巻き物などをお遣わしになった。

 7.21 出羽国秋田の館の下国殿(安東愛季)が、取次の神藤右衛門は黄鷹5羽、生き白鳥3羽を献上に及び、信長公はご秘蔵になった。

 下国殿(安東愛季)へご返書とともに、お小袖十枚、緞子十巻とを遣わされ、黄金二枚を小野木と申すものに下された。

 7.25 岐阜中将信忠卿が安土城にお越しになり、信長公は、お使いを森乱(蘭丸)にして、御脇差をお三人(信忠・信雄・信孝)へ差し上げられた。

 8.6 陸奥国会津の館の蘆名盛隆から、愛相ぶちのお馬一頭などが届き、この馬は奥州ではだれ知らぬ者のいない珍しい名馬であるとのことであった。

 8.12 中将信忠卿は尾張と美濃の侍衆を岐阜にお召しになり、長良川の河原に御馬場を築かせ、前後に高い築地を造り、左右には高さ八尺の柵を造らせられて毎日お馬に乗られた。

 10.7 信長公は朝方愛知川で鷹を放って獲物をとり、お帰りに伴天連の詰所によられ、伴天連のための家の普請状況をご覧になり、あれこれ指図をなさった。

 10.17 長光寺山でお鷹をお使いになった。伊賀国が平定され、派遣されていた軍兵たちはみな帰陣の途に着いた。

 10.20 信長公は、伴天連の住宅を建てさせることをお考えになり、お小姓衆・お馬回り衆へ命じられ、足入沼をうずめさせ、町屋敷を築かせることになって、その工事が行われた。

 10.29 越中から佐々内蔵助成政が、黒部育ちのお馬19頭を引いて、安土まで参上し、進呈申した。

 11.1 関東の下野国蜷川郷の長沼山城守広照が名馬三頭を献上。根来寺の智積院は山城守の伯父で、院も使者を供に参上し、堀久太郎が取り次いだ。信長公はご返書を遣わされ、ご返礼のものをお贈りになった。

 

つつもたせ事件

 12.5 近江国の永原の並びの野尻の郷に延念という坊菅いた。蜂屋の郷の八という男がつつもたせを企て、その寺へ若い女を用意して、雨の降る夕刻に駆け込ませ、しばらくの間宿を借りさせた。延念は「迷惑である」と申したのに、女は庭の隅で火を焚いてあたっていた。そこへ男どもが押し入って「若い女を止めておくのは、出家の身として不謹慎である」と言い、坊主にわび銭を出すように言いがかりをつけた。延念が逆らうと、両人は延念をからかった。お代官の野々村三十郎と長谷川竹の二人はこの二人を捕りおさえ、その行為を糺明して男女二人をお斬りになった。みずからの企みで自滅したのであるが哀れなありさまであった。

 

歳暮のあいさつ

 12月の月末には、隣国・遠国の大名・小名ご一門の方々が安土へ駆けつけ集まって、歳暮のご祝儀として金銀・舶来品・御服・ご紋付で、並々でないすばらしい物を人に負けまいと、門前市をなす賑わいで、信長公に献上申し上げた。その数はとても多くて数えきれない。

 信長公をあがめまつる人びとの崇敬の念はひとかたならぬものであった。そのご果報のたいへんなありさまは。日本の国で二人とないことである。ご威光は言いようもないほど大したものであった

 

にほんブログ村 にほんブログ村へ
にほんブログ村