#256 『信長公記』を読むその31 巻14の4 :天正九(1581)年 信長公のお馬揃え | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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『信長公記』巻14 天正9(1581)年のその4は、豪華な信長公のお馬揃えについてです。

 信長公、豪華なお馬揃えを開催

 

京都・安土でのお馬揃えに向けて

信長公は、元旦から、安土城の北側、松原町の西方から琵琶湖端にかけ、御馬場を築くよう、菅屋九右衛門長頼・堀久太郎秀政・長谷川竹秀一を奉行に任じ、とりかからせた。

 正月8日 信長公はお馬回りに、15日の左義長(どんど焼)の行事に、爆竹を用意し、頭巾をつけ正装し、準備しての臨むことを命じられ、爆竹担当の近江衆は、北方・南方それぞれに奉仕するものを決めた。

 正月15日 当日の馬場入り順序は、先頭がお小姓たち、次が信長公で黒の南蛮笠をかぶり、眉をそって、赤の頬あてをつけ、唐織りの錦の袖なし陣羽織を召され、虎の皮のむかばきを腰から下げられ、馬はあし毛で飛ぶ鳥のような早さの名馬であった。

近衛信基殿・伊勢兵庫頭貞景ならびに織田衆御一族の北畠中将信雄・織田上野守信包・織田三七信孝・織田源五長益・織田七兵衛信澄殿らが、早馬十騎ずつ、二十騎ずつと編隊を組んで、後ろから爆竹を鳴らしながら、どっとはやし声をあげて馬場を駆け抜けた。

この日の見物人は群れをなし、信長公主催の左義長の大がかりな様子に、誰もが驚きほめたたえた。

 正月23日 明智光秀(惟任日向守)に、京都で馬揃えをするので各自美装をこらし参集するようにという御朱印状を、各国へお触れを出された。

 2.19 北畠中将信雄・中将信忠卿が上洛、二条の妙覚寺にお泊りに

 2.20 信長公が京都を出られ、本能寺にお泊りに

 2.23 キリシタン国から黒坊主が参上、26、7歳くらいで、全身黒いことは牛のようで、見るからにたくましく、みごとな体格で、力の強さは十人力以上である。伴天連(ヴァリニャーノら)がこの男を召し連れ参上し、布教のご許可のお礼を申し上げた。

まことに、信長公のご威光は今も昔もうかがったこともなく、日本はもとよりインド・中国・にもめずらしい異人どもを、親しく拝見できるのも、めったにないできごとである。

 

 京都でのお馬ぞろえ

 2.28 信長公は、お馬ぞろえのため、大和・山城・摂津・河内・和泉の五畿内、隣国の大名・小名・ご家人を召し出され、駿馬を天下から集め、天皇のご覧を仰ぐのにそなえられた。上京の内裏の東側の北から南八町ばかり馬場を設け、高さ八尺の柱を馬場の両端に立て、毛織の布でつつみ、柵を造られた。

宮中の東門の築地の外に、仮の桟敷を金銀ちりばめて、まことにりっぱなものに造営された。清涼殿から正親町天皇・雲客・卿相・殿上人らが、その衣装にたきこめた香をあたり一面に漂わせ、華かやな色とりどりのご装束で、桟敷にお出ましになった。

御所の周囲には、摂家衆・大臣衆の貴族の邸宅が皇居をお守り申し上げるように競うように立ち並び、その左右に桟敷を臨時にしつらえ、規模の大きさ・美しさ・筆にも言葉にも尽くされぬほどであった。

信長公は下京の本能寺を、午前八時頃にお出ましになって、室町通りを北にのぼり、一条通りを東にお進みになった。

 

御馬場入りの順序は

 一番:丹羽(惟住五郎左衛門)長秀・摂津衆・若狭衆・西岡の河島

 二番:蜂屋兵庫頭頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺の中の大が塚・佐野衆

 三番:明智光秀(惟任日向守)・大和衆・上山城衆

 四番:村井作右衛門・根来衆・上山城衆

 ご兄弟方:中将信忠卿・馬乗り八十騎・美濃衆・尾張衆

      北畠中将信雄卿・馬乗り三十騎・伊勢衆

      織田上野守信包殿・馬乗り十騎、織田三七信孝殿・馬乗り十騎

      織田七兵衛信澄殿・馬乗り十騎

      織田源五・織田又十郎・織田勘七郎・織田中根・織田竹千代・織田周防守・織田孫十郎殿

公家衆:近衛信基殿・正親町中納言実彦殿・烏丸中納言光宣殿・日野中納言輝資殿・高倉藤右衛門佐永孝殿・細川右京大夫信吉殿・細川右馬頭藤賢殿・伊勢兵庫頭貞為殿・一色左京権大夫義定殿・小笠原長時殿

 

お馬回り・お小姓衆は、いずれも十五騎ずつの組

つづいて、越前衆の柴田修理亮勝家・柴田伊豆守・柴田三右衛門・不破河内守彦三・前田又右衛門利家・金盛五郎八・原彦次郎

お弓衆百人、すべて手投げの矢を腰に差して持ち、先頭を平井久右衛門・中野又兵衛の二人が乗って、二手に分かれ、二集団で進んできた。

 

お馬は一番が「鬼あしげ」、二番は「小鹿毛」、三番は「大あし毛」、四番は「遠江鹿毛」、五番は「こひばり」、六番は「かわらげ」で、これらは奥州津軽から日本国中に至るまで、大名・小名が名馬を信長公に進上申したもので、その中でもとりわけすぐれたお馬である

七番は、武井夕庵が能の山姥の姿で、ほかの坊主衆の長安・長雲・友閑がその先を歩いた。八番は椅子持ちの4人

 

信長公の御むかばきは、金地で虎の斑をぬい取りしてあり、鞍重ね・あおり・手綱・腹帯・馬の尾をつつむ尾袋まで、みな同じ縫い取りがしてあり、紅色のふさのついたしりがいにようらく(垂れ飾り)をお付けになっていた。

信長公のご装束は、顔のつくりは眉を描かれ、金紗の頬あてをつけておられる。この金紗は、昔中国かインドで、皇帝・帝王の御用に織ったものと見えて、四方に織り止めがあり、真ん中に人形をもののみごとに織り出してあった。今また天下が治まって、天皇・上皇へ御奉公してお役に立つようにと、献上申したのである。古い時代の名物を目の当たりに拝見して、ありがたいご時勢である。

お頭巾は唐冠で、後方に花を立てておられる。能の「高砂」の大夫の出立ちか、『和漢朗詠集』にいう「梅の花を折って首に挿すと、二月の雪が衣に落ちる」といった風情であろうか。

お召しになっているお小袖は、紅梅に白の大きな段縞の繰り返しに、なお桐に唐草という段模様。その上に重ねて舶来の蜀江の錦地のお小袖を着ておられたが、お袖口は金糸をよりあわせて、ふちどりがしてあった。

この布地は、昔隣の中国から日本に渡ってきた三巻のうちの一巻を使用したもので、細川忠興(長岡与一郎)が都で探し求め、進上した逸品である。

小袖の上に召されたお肩衣は、紅色の緞子地に桐に唐草がまつわった柄で、お袴も同様の生地で、お腰には牡丹の造花をさされていたが、宮中からの頂戴物であった。ご乗馬用のお腰蓑は白熊の皮、御太刀の鞘は金の延板飾り付き、鞘巻き(つばのない短刀)は同じく金の延板飾り付きであった。また、お腰に鞭をさされ、弓を射るための革手袋は、白革に桐のご紋が付いている。おくつは猩々の皮で作られたもの。その上部の立ち上げ(くつの上縁のおおい)は唐錦を用いたものであった。

この信長公の華麗な御出立ち、御馬場入りの儀式はまるで住吉明神のご来現もかくやと思われ、人々は心をときめかせ、みな神の霊に通じ申したかのように感じ入った。そこで隣国からどっと参集した武将たちも、晴れがましい場所であるにつけても、ここが肝心と、その出立ちはありとあるかぎりの善美をたいそう尽くしたのであった。

 

それぞれの武将たちの衣装は目立つ頭巾に工夫をこらし、下にはあらかたが紅梅色や紅色の筋が入ったのを着て、上着としては薄く描いた絵のある唐織物・金襴・唐綾・模様入りの織物などでできた小袖をつけ、重ねて着る袖なしの上衣や袴も同様のりっぱな織物でできており、腰に短い蓑をそれぞれがつけていた。

はじめ信長公が「一組に十五騎ずつ」と命じられたけれども、それでは広い馬場に貧相なので、三組、四組ずつ一緒になり、入れ替わり立ち替わりして途切れることがなく、午前八時ごろから午後二時ごろまでつづけさせられた、信長公はお乗りになる馬を頻繁にお替えになって、そのご様子は飛ぶ鳥のような素早さであった。

岐阜中将信忠卿のあし毛のお馬は優れて足の早い馬で、信忠卿のご装束はことにすぐれて華やかであった。北畠中将信雄卿は河原毛のお馬に乗られ、織田三七信孝殿の粕毛の御馬は目立って足のきく早馬であった。

最後にはお馬どもを駆け足にさせられ、天皇にお目にかけられたが、どれもこれも手綱さばきの上手といい、華麗なご装束といい、日本ではもちろんのこと、外国にもこれほどの豪華な例はあるはずはない。

 

こうしてお馬ぞろえの半ばに及んだとき、正親町天皇は十二人の勅使をもって、かたじけなくも信長公にお言葉を伝えられ、信長公のご名誉はとても申しつくせない・

夕方に、お馬を馬屋に入れられ、本能寺に帰宅なさった。信長公ばんざい。めでたい。めでたい。

 

 3.5 禁中からご所望があって、再びお馬に乗られた。お馬揃えに出場した名馬500騎選び出された。正親町天皇をはじめ、廷臣の方々・女御・更衣ら多数が美しい御装いでお出ましになり、天皇はたいそう楽しまれ、お喜びになり、上下を問わず参集した人々はみな手を合わせて感謝いたしたことであった。

安土での八月一日のお馬ぞろえ

 8.1 五畿内およびその隣国の武将は、安土にあってお馬ぞろえをした。信長公は白いご装束で、御笠をつけられ、御頬おおいをされ、虎の皮の御むかばきをつけて、あし毛のお馬に乗られた。見物衆の数はおびただしいものであっ

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