#268『三河物語』を読むその9 「八代目 松平広忠」前編~『どうする家康』を楽しむため | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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2023年大河『どうする家康』では、飯田基祐さんが演じる徳川家康の父、八代目の松平広忠についての『三河物語』の記述について その1です。

 

父、清康の急死と家臣の裏切りで13歳にして流浪の広忠

飯田基祐さんが演じる松平広忠

家康の父、広忠さんも流浪し、今川義元を頼るということをされています。親子2代で今川義元にお世話になっているってわけです。

家督を奪われ伊勢、そして駿河へ

父、清康が1535(天文4)年、尾張遠征中の守山にてで家臣に殺害されてしまったため(森山崩れ)に、急遽13歳で家督を継いだ松平広忠、先祖代々伝わっているお慈悲、お情け、おん哀れみ、とくにすぐれておいでで、皆が喜んでいたそうですが、この遠征に加わっていなかった松平内膳信定が家督を横取りして、広忠を追い出しにかかった(実際に、岡崎城を占領)。

 

家中でも広忠に従う者、信定も長親の御子であるから信定も主筋だと信定に従う者もいたが、大久保一族としては、広忠は長親→信忠→清康と続いていることから、妻子一族も顧みず、一命捨てても、広忠を岡崎城においれすべきと主張した。

結局は、阿部大蔵定吉は、13歳の広忠を連れて伊勢の国に落ちていった。15歳の春に阿部大蔵定吉は駿河の今川義元殿に頼み込んで駿河に迎えられた。その年の秋、駿河の加勢を得て、茂呂城(豊橋市)へ移った。

 

大久保忠俊の活躍で岡崎城に戻る

岡崎ではご譜代衆は広忠が戻ってくることに期待を寄せるも力及ばず、大久保新八郎忠俊に期待を寄せていた。家督を奪った松平内膳信定も大久保忠俊を危険視していたので、大久保忠俊に伊賀の八幡の御前にて、「広忠を岡崎へもどさない」と七枚起請を書かせた。

松平内膳信定はその後も三度にわたって七枚起請を書かせ、大久保忠俊は「ばかげたことをいうやつだ、なんどでも書きましょう」と書いた。

大久保忠俊は広忠のご本望(岡崎城入り)を遂げさせるため、ひそかに広忠に連絡を取った。

 

松平内膳信定が広忠の茂呂城を攻めたとき、大久保忠俊もともをし、忠俊は広忠を口汚くののしって内膳殿(信定)をたばかって、岡崎入りのやりとりを矢で行い、ついに大久保忠俊と忠員と忠久の弟二人とで決行日を決め、一緒に動くにふさわしい者たちを仲間に引き入れ決行し、松平広忠を岡崎城に入れることに成功した。

 

松平内膳信定はやはり大久保忠俊をに腹を切らせておくべきだと後悔した。

 

松平広忠、13歳で家督を継ぐも、一族の松平内膳信定に奪われ、伊勢に逃げ、15歳の春に駿河の今川氏輝殿を頼り、15歳の秋に、氏輝の跡を継いだ今川義元殿の加勢により、三河国茂呂城(豊橋市)にお移りになり、17歳の春、ついに大久保忠俊らの活躍で岡崎城への帰還を果たした。

 

※大久保忠俊は、この『三河物語』の作者の大久保彦左衛門忠教や、『どうする家康』で小手伸也さんが演じる大久保忠世の伯父にあたる方です。一緒に広忠の岡崎城入りに動いた弟の忠員が二人の父です。

 

広忠の婚姻や広忠の家臣への情

広忠は刈屋の水野下野信元殿の婿になられて、竹千代(家康)様と姫君が生まれる。その奥様は後に刈屋に送り返され、久松佐渡俊勝(長家)殿に再び嫁がれて多くの子をもうけらえた。

←この広忠の奥様は、松嶋菜々子さんが演じる於大の方です。その後に嫁いだ先がリリー・フランキーさんが演じる久松長家(俊勝)になります。

広忠は、田原の戸田康光殿の婿になった。

 

広忠は五月に鷹狩に出かけた。そこで田植えをしている家臣に出くわした。鷹狩りにお供していた家臣らは彼が罰せられると思っていたが、広忠が自分の知行が少ないので家臣らにゆたかにすごせるだけの知行もだせずにそんなことをさせてしまっている。与える知行がない中、他飢えまださせて奉公してくれるのはとてもうれしい。譜代の者こそ宝だと感謝したので、みな涙を流して、広忠様のために妻子を顧みずに一命を差し上げようと誓い合った。

 

                                以上、前編は終わり

 

 

 

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