無名草子は鎌倉時代初期に成立した、藤原俊成女が著者という説のある作品です。

この作品は大鏡のように、語り手(女房)が話したことを記録したものというタイプなのが特徴的で、現代で言う座談会のようなものを想像していただいたら結構です。

今回は無名草子の中で、教科書にも取り上げられ、『文(ふみ)』と呼ばれる箇所を学習しましょう。

現代においてはスマホやタブレットなどのデバイスの発展やSNSの発達で、『手紙』を用いたやり取りをする機会は急速に失われています。より便利で効率的な方法でやりとりをするのが好ましいかもしれませんが、このような世界に身を置くからこそ、あえて直筆で時間をかけて記す『手紙』の良い点を先人に学んでみるのも良いかもしれません。


 現代語訳

    「手紙というものは、どうしてこのようなものがこの世にあるのだろうと思われるほどに素晴らしい。

『枕草子』に繰り返し書かれているので、また改めて言うことでもないのだが、やはり本当に素晴らしい。


   遠いところに離れ、何年も会っていない人でも、手紙さえ読めば、まさに今向かい合っているような気分になる

たった今、その人と向き合っている気持ちがして、かえって、向き合ってでは言い繕えない様な心の状態も表し言いたいことを細かに書き尽くしてあるものを見る気持ちは、すばらしく、またうれしく、互いに向き合って話しているのに劣っているだろうか、いや、劣ってはいない。

   退屈なとき、昔知り合った人の手紙が出てくると、受け取ったときの気持ちが蘇り、とても嬉しく感じられる。まして、亡くなった人の書いたものであれば、返す返すも素晴らしいものだ。

 どんなことでも、ただ対面している間だけ感じることばかりだというのに、手紙はまったく昔のまま、露ほども変わることがないというのも、素晴らしい点である。

   たいへん良かったという延喜、天暦の治の出来事も、中国やインドといった知らない世界のことも、現代のわたしたちの些細な数々であっても、この文字というものがなければ、どうして書き伝えるだろうか、いや、できはしない、などと思うにつけても、やはりこれ(文字というものでつづられた手紙)ほど素晴らしいことは、他には絶対にございますまい


※延喜、天暦の治

 …醍醐天皇(元号:延喜)・村上天皇(元号:天暦)の治世を指す。この2人の天皇は自ら政治を行う天皇親政をとり、比較的平和な世の中出会ったことから、理想的の治世とされる。

※ございますまい

…特徴的な語訳なので覚えておく価値あり。『まい』は否定を表すので『ございません』の意味。


 まとめ


*背景

   女房が手紙がいかに素晴らしいかについて熱弁している


 1.手紙って素晴らしい!

  ・なんでこんな素晴らしいものがこの世に存在するのかと思う

  ・あの『枕草子』にもその良さは記されている

⇒よって手紙は素晴らしいいいい!!!!!


 2.どんな所がいいのか?(具体的に)

  ・疎遠な人でも手紙ではリアルタイムで向かい合って話しているように感じられる

  ・対面以上に心情・言いたいことを表現できる

   →こんなことができるのに対面より手紙は劣っているだろうか?いや、劣っていない!(反語)

  ・昔の知人亡くなった人の手紙を読み返すことができる

   →貰った時の喜びを思い出す(蘇る)

      亡くなった人なら尚更!!


⇒対面:その時しか感じられない

   手紙:永久にその感情は保存される


 3.やっぱ手紙は素晴らしい

  過去の出来事や現在の出来事

  〈例〉

  ・延喜・天暦の治

  ・中国やインド(天竺)など知らない世界

  ・日々のささやかな日常…

文字があるから後世へ書き伝えられる!

                               ⬇だからこそ、、、

文字で書き記された手紙というものは本当に素晴らしい!





 私事で恐縮ですが、先日彼女に振られました。特に致命的なミスがあった自覚はありません。数日前、Lineの既読がつかないなぁと思ってある手法で確認したところ、なんとブロックされていたのです。

 

 ということで、絶賛傷ついてるメンタルを回復させるべく、古典を学習しましょう。

 今回取り上げるのは、百人一首に収録されている中納言朝忠の歌です。

 

 

 原文

 

 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし

 

〈訳〉もしあなたと私が絶対に逢うことがないならば、かえってあの人のつれない様子も、我が身の辛い運命もこんなに恨むことはないのに。

 

 

 簡単な表現技法

逢ふことの

 ・男女関係になることを指す。

 ・この歌では「私と貴女が逢う」と「この世に男女関係が存在する」の2つの解釈の説があります。

 

絶えてしなく

 ・絶えて(副詞)

 ・し(強意の間投助詞)

 ・~なくは~ましで反実仮想「~なければ~だろうに」を構成

絶対に逢わなかったらという強い思いを表す

 

なかなかに

 …中途半端な物事に対して、それならば反対のほうが…という感じを出す

 

人をも身をも

 ・人:相手

    ・身:自分 を表す

 ・をも:並列の係助詞で、相手のつれない様子と自分の辛い運命を並べる

 

恨みざらまし

 ・ざら(打消の助動詞[ず]の未然形)

  →恨むことはないのに

 ・まし(反実仮想「~なければ~だろうに」)


【全体】

この歌でもっとも理解しないといけないのは、なくは~ましの反実仮想の構文「~なければだろうに」です。反実仮想とは、現実に起こっていることの反対の出来事が起こるのを仮想することです。

 

 

 講評

 

 もし「出逢い」がなかったらこんなことにはならなかったのに…という、失恋をしたときに陥る不思議な思考を見事に表現した歌です。一切会えなかったり振り向いてもらえなかったら諦めがつくのですが、相手から思わせぶり・匂わせが感じられる言動があれば、「ワンチャン行けるのでは!?」と舞い上がってしまうときってありますよね。逆に、大変な美女であっても、異常に熱心に言い寄られると冷めてしまうこともあるでしょう。恋心とはとても不思議で複雑なものです。

 この歌では、当時から存在する極めて人間的な恋の繊細さを後世に伝えています。こういった現象をうまく利用すれば、恋の駆け引き然り、良い方向に導けるのかもしれません。

今回取り上げるのは、古典の中でも特に有名な歌で載っている十訓抄 大江山です。

大江山というのはタイトルでは無いのですが、その文章を表すワードとして用いられています。


〇冒頭

和泉式部、保昌が妻にて丹後に下りけるほどに、京に歌合ありけるに…


となっています。一度は目にした方も多いのではないでしょうか。


〇登場人物

和泉式部(いずみしきぶ)

…保昌の妻であり、丹後地方に行っていた

   歌づくりに大変長けている


小式部内侍(こしきぶのないし)

…和泉式部の娘


藤原定頼

…歌人




和泉式部が保昌の妻として丹後に行った頃に、京で歌合わせ(歌のお披露目会)がありました。小式部内侍が歌詠みに選ばれ、(歌を)詠むことになったのを、定頼中納言がふざけて


「丹後へ遣はしける人参りたりや。いかに心もとなく思すらむ」(原文)

「母がいる丹後へ派遣なさった人は帰って参りましたか。どんなに待ち遠しくお思いのことでしょう。」(訳)

要するに、歌を披露する小式部内侍に対して、歌詠みが上手なお母さん(和泉式部)に考えてもらわなくて大丈夫か??と煽ったわけです。

こう言って小式部内侍の前を通り過ぎたのを、御簾から半分ばかり身を乗り出して、ほんの少し直衣(平安貴族の服)の袖を引っ張って、 

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

訳:大江山を越えて、生野へとたどっていく道が遠いので、私はまだ天の橋立を踏んだこともありませんし、母からの手紙も見ておりません。

と詠んだのです。定頼は思いもがけぬことに驚いて、

「こはいかに。かかるやうやはある。」(原文)

「これはなんとしたことだ。こんなことがあろうか、いや、あるはずはない。」 (訳)

とだけ言って、返歌もできず、袖を引き払ってお逃げになったのです。(※当時は歌を詠まれたら返歌をするのが常識)

小式部は、この時から歌詠みの世界に名声が広まりはじめました。

こうしたことは、ごく普通の当然のことでありましたが、あの卿(定頼中納言)の心の中には、これほどの歌をすぐに詠み出すことができるとは、おわかりにならなかったのでしようか。



一通り内容を見ていかがでしょうか。

普通のよくある古文では?思われた方もいるかも知れません。

古典の世界で特に有名と書いたのは、文中の歌の技巧の凝らし方です。

区切って歌を見ていきましょう。



大江山

…京と丹波の間にある山

  う和泉式部のいる丹後は更に北にある


いく野の道の

…『行く野』 と『生野』を掛けている(掛詞)

    ※生野は丹後にある地名


遠ければ

生野行く道が遠いので


まだふみもみず

…天橋立の地を『踏む』と母から貰ったカンニングペーパーの『文(ふみ)』を掛けている(掛詞)


天の橋立

…体言止め



各所の位置関係を踏まえて2か所も掛詞があり、最後は体言止めという、非常に技法を凝らした歌となっています。

定頼に煽られ、直後にその内容を踏まえてここまでの歌を作ったというのは、小式部内侍の当意即妙さを評価せざるを得ません。

古典常識では歌をもらうを返歌として歌を返すのが当たり前なのですが、定頼はそれすらも出来ないほど驚いて敗走したのです。



このように、古典の世界には一連のネタの様な作品も頻繁に登場します。古語単語や文法事項から学習に入ると大変難しく感じますが、内容から学習すると、古典の世界に大変心惹かれるのではないでしょうか。