はじめに

 

 約2000年前に日本語が使用され始めてから現代に至るまで、様々な場面において言葉に含みを持たせる修辞法が編み出されている。意思疎通という目的達成のみならず、例えば比喩や倒置法、擬態法、体言止めなど、言葉に豊かさをもたらし彩りを添えることにより、そのままでは砂を噛むような一節であっても様々な要素を付加することができる。今回は、修辞法の一つである体言止めについて、主に古典分野における効果を解説する。

 

 

 体言止めとは

 

 そもそも体言止めとはどういった修辞法であろうか。

簡単に表現すると、「です」「ます」「〜である」などの文末を取り除いた表現である。

当然、古典の世界では「けり(過去)」「なり(断定)」などの終止形を削除したものである。

 

 古典・現代文に共通する点として、文末の体言を強調させることによる余韻(余情)やリズム感の創出が挙げられる。したがって、小説や詩、和歌や俳諧など、豊かな表現技法で読者の想像力を働かせるような場面に使用されることが多い。

 

 

 実際の使用例

 

・春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山

(万葉集・持統天皇)

訳:いつの間にか春が過ぎ夏が来たらしい。真っ白な衣を干すという天香具山に。

 

・春はあけぼの。

(清少納言・枕草子)

訳:春は明け方(が好ましい)。

 

 どちらも筆者が読者に語りかけているような感じを受けるのではないであろうか。

枕草子の冒頭は体言止めの代表格とも言われるが、「あけぼの。」であえて留め筆者の意図を明瞭にしない粋な表現により、読者の想像を掻き立てている。

 

 

・ありと見て手にはとられず見れば又ゆくへもしらず消えし蜻蛉

(紫式部・源氏物語 宇治十帖・第五十二帖『蜻蛉』薫の君)

訳:目の前にいたのに、自分のものにできなかった。見えたかと思えば行方も知れず消えてしまった。あの蜻蛉のように。

 

・夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡

(松尾芭蕉・おくのほそ道 平泉)

訳:今や夏草が生い茂るばかりだが、ここはかつて武士たちが誉を求めて奮戦した跡地である。昔のことは一時の夢となってしまったなぁ。

 

 薫君が自分のものにできないまま姿を消してしまった浮舟を想う歌、数百年前には権威を求めて激しい争いが繰り広げられた場所が、今となってはただ夏草が青々と生い茂っているだけの光景を目の当たりにして人の世の儚さを詠んだ歌。上記の二句はいずれも出来事の儚さを謳ったものである。

 

 

 

 まとめ

 ほとんどの古典の表現技法は論理的に解説できるものばかりである。しかしながら、体言止めに関しては効果が個々の感性に依存するものが多く、感嘆や繊細な表現など、文章で明確に示すことが難しいことがある。当然、筆者の意図が必ずしも読者に確実に伝わるとは限らない。そこがまた一興で、古典の趣深い要素の一つではないだろうか。