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御堂筋てくてく日記

会社帰りにいつも淀屋橋から難波まで歩いてます。銀行員時代にこの「御堂筋てくてく日記」の名前でブログを書いてたので、また復活させてみました。

苦楽園口という関西では有数の高級住宅地のある駅の程近くにそのマンションはあった。

 購入時には1億5千万円というものすごい価格の最上階の部屋をなんと破格値の6800万円で売ろうとしていたのだが、如何せん管理費と積立金・駐車場代などの経費が月40万円というのが高過ぎで、全く売れない。

 まあしかし、すごかった。

 リビングが50畳で、ダイニングキッチンだけで25畳、どんだけ広いねんという感じ。舞踏会でもする設計だろうか。

カーテンは自動開閉だし、冷蔵庫はものすごいでかいアメリカGE製。あらゆる備品が備え付けられている。そのほか普通の10畳くらいの部屋が4つある5LDKである。

 きわめつけは、とある部屋の上に潜水艦のように一人がやっと通れるらせん階段があり、屋上に登れるところだ。なんでそんなに狭いねんというくらい狭いらせん階段。さぞかし遊びゴコロのある匠が作ったのであろう。

 あとものすごい暑いサンルームがある。黒の紙を間違って置いたら発火しそうな部屋である。洗濯物は良く乾くかもしれないがやや危険である。黒のTシャツは干せない。灰になりそうである。
 とにかく天井の多くがガラス張りで夏は猛烈に暑い。遊びゴコロのある匠の設計は時として日常に合わないものである。冷房費がいくらあってもたりない。

 でも、暇があったらそのマンションに行った。僕が鍵を持ってるからだ。

 何と言っても億ションを独り占めできる快感はこの上ない。

 ものすごい暑い日でも、時々そのマンションに出掛けた。だいたい不動産取引の登場人物はとんでもない人が多い。たまには心の洗濯をしなければやってられない。

水もガスも来てないので、暮らせないが、電気はなぜかつくので、電動カーテンを動かしたりして遊んだ。狭い螺旋階段も面白いので、やっばり屋上に上がってみては天下を取ったつもりになっていた。

しかしながら、全ての屋上が使えたら気持ちいいと思うのだが、なぜか屋上は5畳分くらいしかない。見晴らしも良くない。匠の考えることはよくわからない。

それでも、各部屋にぼんやり座ってみては億ションの住人の気持ちになってみたりした。汗だくになりながら。

キッチンにお皿とか、ナイフ、フォークなどが揃っていたのでテーブルに並べて遊んだりした。そんなことしても虚しいだけだが、億ションの住人は暇なのである。

 猛烈な暑さのサンルームでココロをカラカラにして、またヤクザみたいな登場人物ばかりの不動産取引に出掛ける準備をしていた。

人間、どこかにココロを洗濯する場所を持つべきだなぁと思った銀行員最後の夏のことでした。

で。あの部屋の電気代はだれが払ったんだろうと、今も不明ですが、時効ということでよろしくお願いします…。

で、結局、売れたのかなぁ、あのマンション…。管理費高過ぎだけどね…。



 不動産取引に登場してくる人物はみんな一風変わっている人が多い。
 堺筋本町のビル売買のときもすごいのが現れた。

 一応、割と大きめの不動産会社の社長なのだが、どう見ても外見がおかしい。服は浅葱色のスーツ。後日、いろいろな百貨店や専門店、紳士服店を回ったがそんな色のスーツを売ってる店がない。一体どこで買ったのだろうか?

 で、その浅葱色のスーツに紺のシャツ、ピンクのネクタイに白のエナメルシューズ。もろ、吉本新喜劇に出てくるヤクザそのものである。極めつけは45度に傾斜したメガネのレンズの色がピンクである。
 世の中に本当にそんな人がいるんだなというのだけでびっくりするが、なんとその格好で地下鉄で来たらしい。事前打ち合わせの時は普通の格好だったのにどうして取引の時はこんな格好なんだろうかと不思議だった。

 まあ、そんなこんなで取引がはじまったのだが、小さな信用金庫を取引先にしているのでなかなか入金確認が出来ない。振り込まれたのを確認して契約を締結したかったのだが、なかなか確認出来ない。

 もう、そうなってくるとイライラが高じて、そのピンクのメガネは
「おい!兄ちゃん、いつまで待たせるねん。早よ帰りたいやんけ。」と、ナニワの帝王みたいな口調。
「何言うてるねん。そもそも、あんたが聞いたことない信用金庫を指定するからこうなるねん。うちの振出小切手持って来たら済む話や、ごちゃごちゃ言わずに待ってもらえますかぁー。」と、同じぐらいの音量の声で返答すると、
「お、兄ちゃん、やるやん。銀行員で、そんな反応するのはじめてやで」と、褒められた。

しばらくして、そのピンクのメガネが、おもむろに
「うち、来えへんか? 部長待遇でスカウトするでぇ」と、言うではないか。

 大学時代からヤクザに気に入られやすいのかも知れないが、もう変なのしか登場しない不動産取引はこりごりで、もちろん丁重にお断りした。

 がしかし、思いっきりヤクザがらみとおもってた会社なのだが、実は国公立大出身の人も新卒で就職するかなり普通の会社ということはあとで知った。人は見かけによらぬもの。

 今頃僕も、幹部だったかもしれないけど、まあ、人生は往々にしてそういうものなのでしょう…。
 とある駅前にその耳鼻科はあった。

 5階建てのビルの1階が銀行のATMコーナーになっている。最上階が目的の耳鼻科である。バブル時代に銀行がその耳鼻科の先生に提案して、先祖代々の土地にビルを建てさせたという典型的な銀行ビルである。3年前までは銀行の出張所が1階~3階まで入っていた。多分、ビルを建てる資金を融資する代わりに、返済資金として銀行が入り賃貸料を払うという形だったのだろう。

 しかし、その出張所も閉鎖になり、がらんどうのビルになっている状態だった。

 「そこに行け」と言われた。「相当偏屈な爺さんで、過去のことを根にもってるから気ィつけてね」とも言われた。

 その頃は、もう銀行を辞めようと思っていたので、どんなことにも対応できた。今回の案件は1階のATMコーナーにあらたに「サラ金」のブースを設置するという絶対断られそうな案件である。銀行も酷い組織で、過去にそうやって無理やりお金を貸して、勝手に出張所を閉鎖しておいて、今になって「サラ金」のブースを作らせてください、と良く言えるものだ。

 がしかし、上司からは「話が出来ただけで100点」と言われたので、とりあえず話を聞くだけ聞いてみようと思った。聞くところによれば出張所閉鎖から誰も行ってないらしい。とにかく気難しいので有名でアンタッチャブルなお客さんらしい。

 僕自身はもう銀行の評価などどうでも良くなっているので、どんな人だろうとワクワクしながら行ってみた。

 小さなエレベータで5階まで行った。広いエントランスのある耳鼻科で、人の気配が全然しない。まだ朝の10時である。普通の耳鼻咽喉科だと患者さんで賑わっている時間帯だ。

 「しーーーーん」としている。

 受付にまず人がいない。しかたがないので
「すみません~、○○銀行の鈴木です~」と大声で呼んでみた。

 そうすると、奥から大儀そうに年配の女性が現れてきた。
「ああ、銀行の方ですね。どうぞ、こちらです」

 誰もいない待合室を抜け、だだっ広い診察室に案内された。上方落語に客の少ない医者に行って、すーーとあの世に行ってしまった、というネタがあるが、そんな感じの病院である。

 で、とうとう偏屈オヤジの登場である。

 と思ったが、出てきた人は見たところ、とても人のいいおじいさんである。話を聞くと、いろいろな思い出話を話してくれる。「昔の銀行は良かった」というくだりを聞いてて胸にしみた。(僕も昔は良かったと思ってるよ、今はアカンから辞めるねん。と心に話しかけてた。)
 とにかく、全然アンタッチャブルでなかった。何の欲もなく、懐に飛び込めば、人は正直に話してくれるもんだなと思った。

 で、話すだけで100点だったのに、なんと1階のサラ金のブース設置の話もOKをもらって、満面の笑みで会社に帰った。「200点ですか?」と上司に聞いたが、特に何も返事がなかった。どこまでも使えない上司である。

 それにしても、10時でお客さんゼロの耳鼻科である。しかもペンを持つ手が震えていた。あの手で耳の中を触られるのを想像するだけで少し怖い。というか痛そうである。。

 あれからもう10年経つが、あのおじいさん元気なのかな…。
 不動産の売買取引をしていたころ、「境界確認」ということをよくやった。これは隣地との境がどこにあるのかというのを、隣地の所有者と確認して、自分の土地の範囲を決めるというとても地道な作業なのだが、これにまつわるエピソードはたくさんある。

 京都の紫野での社宅の売却案件では、隣地のおじさんの挙動がどうもおかしい。よくよく聞くと登記簿に載っている所有者はその人のお父さんでもう8年前に亡くなっているというではないか。

 しかしながら、不動産取引ではこういうこともよくある話で、その場合は、相続人全員の同意があれば特に問題ないので、「じゃあ、ここに相続人全員の判子と印鑑証明書いただけますか?」と聞くと、「それは無理です。」と言う。聞けば姉二人が一人は海外、もう一人も関東に住んでいて疎遠になっているとのこと。「それでは、こちらで郵送させていただきますので、ご住所とお名前を教えてもらえませんか?」と聞くと、「それも無理です。」と言う。

「姉貴二人に黙って、勝手に住んでいるんです。」
「はぁ~?」
「相続手続きも全くしてません。」
「え~?」
「だから黙っといて欲しいんです。」
「はい…。」
「このまま、僕らが住み続ければ時効で僕らの土地になるんです。」
「ああ、そういうことですか…。(民法162条のことかな?善意無過失で10年だな…。)」
「あと2年なんです。そっとしておいて欲しいんです。」
「なるほど…。(やっぱり…。)」

 しかし、判子を押してもらわなければ、こちらの境界が確定せず、こっちの土地が売れない。

 結局、すったもんだのあげく顧問の土地家屋調査士さんの力で、なんとかその人だけの判子で大丈夫なようにとりはからってくれた。

 世の中にはいろいろ事情がある人がいるんだなと思った次第。相続の話は銀行時代、山のように抱えていたが、どこもうまくいっていない。財産は残さないのが一番だなとつくづくそう思います。

 あとで聞いた話だが、隣のおじさん、奥さんにも遺産のことを言ってなかったらしく、僕らが去った後、大騒動だったそうで…。隣の土地を売るだけの話だったのですが、大変であります。。。
 父が亡くなって1年半になる。正直晩年の闘病生活が長すぎて、あまりカッコイイ生き方ではなかったが、母に最後まで愛されていたので、その部分は尊敬できるかもしれない。

 死ぬのがわかっているのに、最後まで「株が上がらん」とかばかり言ってたのが惜しいと思う。株が上がって金ができたところで旅行も行けない体だったのに。最後まで金に苦労して、特にいい思いもせずに亡くなっていったのが残念だ。

 しかし、そんな父親も実は会社の女の子にモテていた時期があったのを知っている。会社のイベントでハイキングや運動会の時に必ず父のそばにいる女の人がいた。やはり会社に行くモチベーションはそれなんだろうなというのは高校生だった僕にも理解できた。

 60歳になって定年になった1週間後に狭心症で倒れた。その後は少し安定していた時期もあったが、骨折したり、なんやかやと病気がちだった。最終的には肺線維症で最後の8年位は酸素吸入の生活だった。会社を辞めた途端の病気の連発だったので、人間生活にはモチベーションの維持が必要なんだろうと思った。楽しいことが途切れた途端人間は身体のバランスを崩すのだ。

 このことは母親には内緒にしていた。

 ときどき会社帰りの父と同じ電車になることがあったのだが、公園を過ぎて人通りが少なくなる家までの一本道で、前を歩く父はいつも掌を加トちゃんダンスのペンギンのように横に開いて、リズムを取りながら、「ふふふ~ん」という感じで鼻歌交じりに歩いていた。音痴の父なので音楽になっているはずがないが、今日も会社でいいことがあったんだろうなと想像していた。とても声を掛けれる雰囲気ではなかった。母には絶対に見せない雰囲気だった。

 父親のことを書いた本を読みながら、ふとそんな父の後ろ姿を思い出したのでした。