今週の問題
1912年、日本が初めて参加した第5回のオリンピックは、何という都市で行われたでしょう。
選択肢
・ロンドン
・パリ
・アントワープ
・セントルイス
・ストックホルム
正解…ストックホルム
解説
第1回が1896年に行われたアテネ、
第2回が1900年に行われたパリ、
第3回が1904年に行われたセントルイス、
第4回が1908年に行われたロンドン、
第5回が1912年に行われたストックホルム、
第6回が1916年に行われるはずだったベルリンが第一次世界大戦で中止になり、
第7回が1920年に行われたアントワープと続きました。
第1回が行われる前の近代オリンピックは、フランスの教育者であるピエール・ド・クーベルタン男爵がアテネオリンピックが開催される4年前の1892年、ソルボンヌ大学で
「古代ギリシアで4年に1回行われていたオリンピアの競技大会を復興しよう」
と呼び掛けたことから始ったのですが、この当時はあまり理解が得られなかったため、
「スポーツを通じてより平和な世界を目指す」
というオリンピック理念を宣伝し、有力者の賛同を得てまわったそうです。こうした地道な努力が実を結び、1894年6月同大学でスポーツ振興のための国際会議を開催、そしてオリンピックの復活とIOCの創設が決まり、提唱したクーベルタン男爵が初代IOC会長として就任する事になりました。
この当時の日本はオリンピックという競技大会が開催されていることすら知りませんでした。
第4回ロンドン大会を終えて、クーベルタン会長がアジアから参加国が一つもなかったことを疑問視し、大会をより国際的なものにしたいと考え、明治41(1908)年に駐日フランス大使であるオーギュスト・ジェラールに、IOC日本代表委員の推薦を依頼しました。そこで白羽の矢が立ったのが、スポーツに造詣が深く、語学が堪能という理由などから講道館柔道の創始者として知られる嘉納治五郎が推薦され、翌年のIOC総会でアジア初のIOC委員に就任したと言われています。
就任した嘉納は明治44(1911)年7月、オリンピック選手派遣の母体として大日本体育協会を設置して、11月に羽田でオリンピックの予選会を開催、そしてストックホルム大会に日本選手団の団長としても参加しました。
但し参加費は当時選手の自己負担だったそうで、当時の額で1,600円(現在の約400万円程度)したため、金栗四三は経済的理由で一度辞退を申し出てますが、金栗が所属していた東京高等師範学校の校長でもあった嘉納治五郎が後援会を結成し、募金を呼びかけて資金が集まり、参加に無事こぎつけることが出来たそうです。
大日本体育協会は翼賛員と維持員の制度を創設して幅広く資金集めをするようにしたまでは良かったのですが、派遣費用を賄うまで至らなかったため、アントワープ大会への選手派遣もかなり苦労したそうです。
ちなみにストックホルム大会の結果ですが、
陸上短距離(100m、200m、400m)・・・・三島弥彦
100m、200mが予選落ち、400mで準決勝進出するも疲労のため棄権
マラソン・・・・金栗四三
脱水症状を起こして途中棄権
この二名が出場し国際スポーツ界へとデビューしましたが、世界水準との差の大きさが浮き彫りになると同時に、日本のスポーツ界水準の向上という大きな課題を残す大会となりました。
そこで追いつくべく、大正から昭和にかけて各種競技で国際大会に多くの選手が参加し、日本国内でも海外の選手を招待して大会が盛んに行われるようになり、現在に至っています。
ちなみにPS2のアタック25発売後は、第28回が2004年にアテネで行われ、そして
第33回となる2024年にパリで行われます。