1952年クーデターを起こし、1956年に大統領に就任後・・・・・ | KMプロデュースのブログ

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今週の問題

1952年クーデターを起こし、1956年に大統領に就任後、スエズ運河の国有化など、積極的な政策をとったエジプトの政治家は誰でしょう。

 

選択肢

・ナセル

・ラビン

・ムバラク

・サダト

・カーター

 

正解…ナセル

 

解説

日本では「ナセル」という表記が一般的だとされているガマール・アブドゥル=ナーセル(1918~1970)はエジプトの軍人で、政治家としての顔を持っています。
名前の由来は、ファーストネームの「ガマール」が「美」や「美しさ」という意味を持ち、父の名でラストネームに相当する「アブドゥル=ナーセル」が「援助者たる者のしもべ」という意味を持っているそうです。


1918年にエジプト北部・地中海沿岸の都市アレクサンドリア東端のバコス地区で、郵便局長のアブドゥル=ナセル・フセインと、母ファヒマとの間に誕生しました。

当時のエジプトはイギリスの保護国となっていたのですが、1921年にアシュート、1923年にはミヌーフィーヤ県のカタトバへ移住し、現地のの小学校へ進学しました。8歳で首都カイロでワクフ省職員として勤めていた叔父ハリールへ預けられることになったため、市内のガマリーヤのナハシン小学校に転校しました。この当時のナーセルは読書少年で、ネルソンなどの英雄に憧れていたといいます。

1928年冬、母が弟シャウキーの出産で死亡します。ただ、母に懐いていたナセルを気遣うためにこの事実を伝えずじまいになりました。この事実を知ったのは翌年夏のことで、帰郷して事実を知ったナセルは父に激しく憤り、結局距離を置くことになりました。ネルソンや叔父に向けられたヒロイズムと、父をはじめとする権威への反発は後年の民族運動の基盤となりました。こうして母の死を機に内気となり、容易に内心を明かさない陰影の濃い人格が形成されていきました。

そしてアレキサンドリアのアッタレネ小学校へ二度目の転校をするも2回留年し、1930年春にカイロで中学入学資格を得ました。ただ10月から新学期が始まるまでの学年休み中に極右政党青年エジプト党の前身となる団体主催のデモに参加して一晩拘留されため、叔父の影響を恐れてヘルワンの寄宿学校へ父によって転学させられるもマラリアに罹患したり、映画館へ入り浸ったりして通算4度目の落第を受けて中退することになりました。

1933年、父がカイロのユダヤ人地区の郵便局長となった事でアル=ナフド・アル=マシーラ中学校へ入学しますが、学業の不調や冷え切った家庭環境に嫌気がさし、モスクで時間を潰す悶々とした日々を送っていました。そんな中で青年エジプト党の入党勧告を受けてエジプトやアラブ諸国の解放を目指す民族運動に積極的に参加しました。

ただ政治活動以外に政治劇といった演劇が得意で、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」でアントニウスの役を熱演し、教員や生徒、父をも感激させたことが高く評価され、4年時の成績で本来及第点が2科目だけなのを英語以外すべて及第点にしてもらったエピソードがあります。

1935年夏に青年エジプト党からワフド党へと鞍替えし、11月12日にはサー・サミュエル・ホーア外務大臣のエジプト憲法復活拒否に抗議する学生デモに参加しました。ここでは母校での中心的存在となり、校内でアジ演説を行ってデモ行進を始めたところ、道筋に当たる各中学校を回り参加者を増やしていったのですが、ローダ島からカイロ大学へ向かうところで保安隊と衝突し、保安隊長ロータスに投石を行ったことで保安隊側が発砲、ナセルも負傷します。翌日ナセルの名前が新聞に掲載されたため、学校側がナセルを退学処分とするも学生たちの反対運動により復学します。ただ事態を案じた父は、エル=マハッラ・エル=コブラの中学校へ転学させることにして学業に専念し、大学入学資格試験を得ることになりました。
ただエジプト大学法学部に入学するも、なかなか入学できない士官学校に挑戦したいため、1学期終了後退学します。そこで大学選定委員会の委員長で国防次官イブラヒム・カーリー・パシャ少将との面会で自分面接官を務めるよう申し出て入学試験を突破、3月17日に士官学校2期生として入学が叶いました。
本来士官学校の期間は3年ですが、国内外の情勢を鑑みて士官の速成配置が急務だったことから1938年6月1日、たった16か月で繰り上げ卒業が決まって歩兵少尉に任官、第3旅団附となりアシュート近郊のマンカバドに赴任しました。ただ辺境勤務に堕落して、お酒やギャンブルに溺れて訓練も指導も出来ず、エジプト人に対して差別意識をあらわにする英軍将校たちと隣り合わせになり、イギリスへの憎悪を強めていきます。

この頃からアーメルやサダト、ムヒエディンと初めて会合を開いて、国土に蔓延する腐敗と王政の打倒を誓い合って1940年4月に中尉へと昇進、上官との対立や勤務評定の低さから僻地に左遷される可能性を悟り、僻地とされていた英・エジプト共同領英埃領スーダンのハルツームでの勤務を自ら申し出てアメルとともに同地の歩兵第1大隊に赴任しました。また、1941年末にはエル・アラメインの前線付近のイギリス軍大隊に編入しました。

ナセルとアーメルが僻地にいる間、通信部隊長としてカイロに留まっていたサダトは地下組織の育成の準備をしていました。当時、反英感情の反動からエジプト世論は親独に傾倒しつつあり、カイロやアレクサンドリアなどではロンメルを歓迎するデモが行われました。1941年3月末、イラクでラシード・アリー・アッ=ガイラーニーのクーデターが失敗したと知るや、一部の将校の中にはエジプトでクーデターを起こそうとする機運が高まりつつありました。そんな中、ドイツ軍がカイロに迫る1942年2月、駐エジプト大使マイルズ・ランプソンが宮殿を英軍に包囲させ、ファールーク1世に反英政権の解体を迫る事件が起こり、ついにエジプトの反英感情が頂点に達します。

ナセル自身も外国の圧力に屈した自軍の不甲斐なさを恥じて英国を呪い、スーダン勤務へ戻った時にエジプト解放の機が熟したと考え、将校クラブのあったゲズィーラ島のザマーレクでアンワル・アッ=サーダートらと共にドイツ軍がエジプトに侵攻した時と同時に反英軍事クーデターを起こし、ナハスのワフド党政権に代わってアリ・マヘルを擁立することを計画します。しかし接触していたイギリス軍将校に扮するドイツの諜報員が逮捕されて自白したことでサーダートも逮捕され、エル・アラメインの戦いでドイツ軍が敗北したため計画が頓挫しまし。9月に大尉昇進とともに内地勤務に転じ、1943年5月士官学校教官になりました。

1948年にイスラエルの建国を契機に第一次中東戦争が始まると、少佐だったナセルは第6軍参謀としてアラブ連合軍に従軍、開戦直後、腹部に銃創を負ってエジプトに一時帰国するも1か月で回復して戦線に復帰、ファルージャの戦いで勇名をはせて叙勲を受けますが、軍上部の杜撰な指揮と劣悪な装備に怒り、

 

「真の戦場はここではなく、エジプトにあるのだ!!」

 

と言ったとされ、結局アラブ連合軍はイスラエルに敗北、エジプトへ帰国しました。

それからは反英愛国の将校らで組織された政治秘密結社を自由将校団と名乗り、1950年には将校団内部の革命実行委員会の長に選出されて実質的指導者となりました。組織の存在を公然化してもなお秘密保持を貫き、互いをコードネームで名乗るなどの措置をとり、ナセルは1919年革命の指導者ザグルールを名乗りました。

自由将校団の勢力拡大を図るナセルは、第一次中東戦争で活躍した将軍ムハンマド・ナギーブを自由将校団の首班として迎えて軍部での支持拡大を進めていきます。
自由将校団は「積極行動」がモットーとしてを掲げていて、その方法を国王や側近の暗殺路線に舵を切っていました。

1951年10月11日、エジプト政府が1936年英埃条約を破棄してスエズ運河を完全にイギリスの影響下に置くと、ナセルはここで大々的な行動に出ます。1952年1月ハッサン・イブラヒムとともに国王の側近フセイン・シリ・アメルを暗殺未遂する事件がありました。ただ、車で実行部隊の搬送を請け負うも、去り際に聞いたアメルの家族と思しき悲鳴が帰宅後も耳から離れずにいたため罪悪感に苛まれ、一睡もできなかったといいます。ただ夜が明けるにつれ、先程まであれほど殺したいと思っていたシリ・アメルの事を次第に助かれば良いがと願うようになり、積極行動の方針を改めて革命を求めるようになります。7月半ばに将校クラブの執行部が国王によって解散を命じられ、新任の国防大臣によって将校らの検挙が始まるとの情報がもたらされると、急遽計画の実行を前倒することになりました。

こうして1952年7月23日、自由将校団はクーデターを起こして国王ファールーク1世を追放し権力を掌握、王政を廃止して共和政へ移行しました。これが一般的にいうエジプト革命です。こうしてナセルは副首相兼内務大臣に、ナギーブを議長とする革命指導評議会の中心メンバーとしてそれぞれ就任して実権を握りました。

ただ、革命後まもなく大統領に就任したナギーブと将校団のリーダーだったナセルとの対立が表面化してしまいます。1954年2月22日、革命指導評議会はナギーブの首相兼任を解きナセルの首相就任を決定するも、ナギーブを支持する多くの市民たちの抵抗にあって約2週間で終わり、再びナギーブが首相を兼任します。ただ2か月後の4月18日に、ナセルは改めて首相に任命されます。その後ムスリム同胞団がナセル暗殺未遂事件を起こすと11月14日、ナセルはナギーブ大統領を解任して革命指導評議会議長に就任し、ナギーブ派を追放して権力を掌握、1956年6月25日に正式に大統領へと就任することになりました。
1952年に実施された農地改革を皮切りに、主力産業や銀行を国有化するなどしてアラブ社会主義政策を推進しました。外交では汎アラブ主義政策を取り、イラクなどの中東諸国が結んだバグダード条約機構に反対する一方、アラブ諸国間の団結を唱えて主導権を握りました。また非同盟主義を唱えて第1回アジア・アフリカ会議に出席して第三世界における指導者の一人となり、この会議に参加した周恩来と意気投合して中華人民共和国をアフリカ諸国では初の国家承認をしたことは当時のアメリカ合衆国国務長官のジョン・フォスター・ダレスの怒りを買ってアメリカとの亀裂を決定的にしたことでも知られています。

 

1952年にエジプト政府はアスワン・ハイ・ダムの建設計画を立てた。これはイギリスが建設を主導する予定だったのですが、エジプト革命で建設中断の状態でした。そこで建設再開し、建設費用獲得のために1956年7月26日、スエズ運河の国有化を宣言しました。これにイギリスやフランスが反発してスエズ戦争が勃発、何とか英仏軍を退けて勝利して国有化承認を勝ち取りました。こうして国際的威信を高めたナセルは、アラブの大同団結を目指していくことになります。

 

ところが1961年、アラブ連合共和国はシリアが脱退したため事実上崩壊してしまいます。引き続きエジプトの国号を「アラブ連合共和国」とするも、復活することはありませんでした。この頃からナーセルの威信に陰りが見え始めていきます。

ナセルは「反イスラエル」の立場から逃亡中のナチス戦犯を多数匿ったとされていて、その大半がエジプト軍・治安機関の養成や反ユダヤ主義プロパガンダの作成に当たっていました。1960年代にイスラエル政府はエジプトがドイツ国防軍の科学技術を手に入れて、弾道ミサイルを開発することを恐れ、元ナチスの科学者のふりをしたスパイを送りこむほどだったのですが、それ以上にイスラエルがソ連と深い関係にあったため、エジプト政府による元ナチに対する支援は益々下火になっていきました。
1967年の政権危機を乗り越えたナセルは内閣改造を行い、1962年以来の首相兼任によって政権の求心力を高め、第三次中東戦争の敗北によって壊滅状態となった軍の再建を進め、機能不全に陥っていた官僚機構の是正に務めていきました。
ソ連、チェコスロバキアといった東側諸国の協力を得て1970年にアスワン・ハイ・ダムの完成を見たが、国内ではスエズ運河の収入が無くなりインフレが進行、ヨルダン内戦の仲裁や北イエメン内戦への軍事介入を行うなど多忙を極める最中、クウェート首長サバーハ3世を空港に送った直後に心臓発作を起こしてそのまま急死しました。死因はヘビースモーカーでかつ、長らく患っていた糖尿病による動脈硬化症と静脈瘤の合併症だったそうです。

ナセルの葬儀の様子は国内外でも大きく取り上げられ、レバノンの首都ベイルートでは支持者が高級車を自ら焼くなどの混乱が起こるほどの衝撃だったともいわれています。
ナセル亡き後の後任は、士官学校以来のナセルの盟友で副大統領のサダトが就任して、ナセル体制にかわる経済の自由化を進めることになったのです。

 

 

 

イツハク・ラビンはイスラエル第7代参謀総長・イスラエル第6・11代首相、イスラエル第3・5代労働党党首を歴任した政治家です。
ムハンマド・ホスニー・ムバラーク(ムバラク)は共和政エジプト第4代大統領(第2代エジプト・アラブ共和国大統領)として約30年にもわたる長期政権を維持したエジプトの政治家です。

ジミー・カーターはアメリカ合衆国第39代大統領に就任し、ノーベル平和賞を受賞したアメリカの政治家で、2024年2月現在、歴代の大統領の中で最高齢の存命者であり、歴代大統領1位の長寿記録保持者です。