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今週の問題

1769年8月15日、ナポレオン1世が生まれています。後に、フランス皇帝となるナポレオン1世が産声をあげた島はどこでしょう。

 

選択肢

・シテ島

・エスパニョーラ島

・コルシカ島

・ブリテン島

・シチリア島

 

正解…コルシカ島

 

解説

単にナポレオンと言えばナポレオン1世そのものを指す(3世まで実在)ナポレオン・ボナパルトはフランス革命期の軍人・革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世と称されるようになりました。

 

1769年8月15日に、イタリア半島の西に位置するフランス領の島コルシカ島のアジャクシオで、父カルロ・マリア・ブオナパルテと、母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に12人兄弟の4番目として誕生しました。10歳の時にフランス本土の貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校へ国費で入学、15歳でパリの陸軍士官学校に入学して砲兵科で大砲術を学び、わずか11カ月という最短記録で全課程を修了して卒業しました。

20歳の頃にフランス革命勃発し、23歳の時に故郷のアジャクシオの国民衛兵隊中佐に選ばれるも、父親を筆頭に家族弾劾を受けて故郷を追われ、コルシカ島近くにある南仏マルセイユに移住し、フランスで生涯を暮らす決意をします。

翌年に原隊へ復帰し、カルトー将軍の南方軍に所属、トゥーロン攻囲戦では戦功をたてて旅団陸将まで昇格、フランス軍を代表する若き英雄として認識されるようになりました。
1796年27歳の時ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚、ポール・バラスによってイタリア方面軍の司令官に抜擢され、半島をほぼ全域を支配下におきましたが、唯一シチリア島だけ支配出来ませんでした。ただその10年後にナポレオンと対抗していたイギリスが、シチリアに逃れたブルボン家の国王を保護する名目で艦隊を派遣してシチリアに上陸、占領に成功して経済的に支配することになりました。


28歳でオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を締結、29歳ではピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城、ロゼッタ・ストーンの発見に繋がりました。

その後のアッカの戦いで、ブリテン島のイギリスとオスマン連合軍に敗れ、次いでナイルの海戦で補給を担当するフランス艦隊が、ホレーショ・ネルソン率いるイギリス艦隊に大敗したため、遠征の維持に補給の不安を抱えることになり、イギリスとインドの遮断することが出来ませんでした。一方大陸においてもフランス軍が劣勢に立たされ、総裁政府への支持が急落したため、遠征中止してフランスへ帰国しました。

1799年11月9日、30歳でブリュメール18日のクーデターを主導して総裁政府を打倒、統領政府を樹立して第一コンスルに就任し、1800年には1790年から西部のフランス植民地サン=ドマング(エスパニョーラ島の西半分)でハイチの独立宣言をした黒人のトゥサン=ルベルチュールの捕縛(2年後に獄死)に成功しました。

1804年12月2日、35歳の時にパリのシテ島にあるノートルダム大聖堂にて戴冠式が行われ、ナポレオン1世として皇帝に即位することになりました。


1805年10月からイギリス上陸作戦を計画するもトラファルガーの海戦で完敗、1812年からのロシア戦役でも敗北して連敗、1821年5月5日にイギリス政府よりセント・ヘレナ島へ幽閉されて生涯を終えました。