1912年、日本の南極探検隊が南緯80度5分の地点に達しましたが、この探検隊を率いた陸軍中尉は? | KMプロデュースのブログ

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今週の問題

1912年、日本の南極探検隊が南緯80度5分の地点に達しましたが、この探検隊を率いた陸軍中尉は誰でしょう。

 

選択肢

・白瀬中尉

・中瀬中尉

・赤瀬中尉

・黒瀬中尉

・百瀬中尉

 

正解…白瀬中尉

 

解説

ここでは白瀬中尉こと、白瀬矗(しらせ のぶ)について述べます。

 

「秋田ふるさと村」(秋田県横手市)のマスコットキャラクターである秋田犬の「ノブ君」の由来になったという白瀬矗は1861年、現在の秋田県にかほ市で、浄蓮寺の住職である白瀬知道とマキエの長男として出生しました。幼年時代がわんぱく小僧と言われ、佐々木節斎の寺子屋で11歳の頃に北極の話を聞いて探検家を志すようになったそうです。

1879年に母の実家がある山形県山形市七日町にある小学校を卒業し、7月に僧侶となるため上京するも2か月後、軍人を目指して日比谷の陸軍教導団騎兵科へ入校しました。この時幼名「知教」から改名しました。
1881年に教導団騎兵科を卒業した後は輜重兵科に転科、陸軍輜重兵伍長として仙台鎮台・輜重兵第2大隊付となり、仙台へ赴任します。翌年には宇都宮で行われた大演習に騎兵として参加した児玉源太郎と出会うことになります。

1890年に仙台で児玉源太郎と再会、北極探検への思いを伝えた所、

「北極探検を志すなら、まず樺太や千島の探検をしたほうがいい」と薦められ、1893年に郡司成忠海軍大尉が率いる千島探検隊へ加わりました。この探検隊は千島に到着するまで暴風雨による遭難で死者19名出すも千島列島へ到着しました。ここで8月31日まで越冬することになりますが、内訳は以下の通りに振り分けられました。

 

  1. 捨子古丹島の越冬隊・・・9名
  2. 幌筵島の越冬隊・・・1名(1894年5月に壊血病のため死亡)
  3. 占守島の越冬隊・・・白瀬・郡司・郡司の父である幸田成延を含む計7名(千島開発を途切れさせないため、郡司の帰還を承諾して2年目の越冬をするも、白瀬を含む4人が壊血病にかかって白瀬を除く3人死亡。壊血病にならなかった2人のうち1人がノイローゼ、白瀬も病気による体力低下から食料調達不可能とったため、飢餓を凌ぐために愛犬を射殺して肉を食すほど過酷な状況でした。翌年白瀬は救助されますが、日清戦争に従軍不能になった後悔で郡司親子を恨むことになり、仲が極端に悪くなります。)


1900年には国家事業として千島の経営を帝国議会に請願して10万円の予算が通過するも交付されなかったため、密漁船でアラスカに渡って6か月間北緯70度で過ごした。
1904年に日露戦争が勃発、6月から第8師団衛生予備廠長となり10月に2年程出征しました。ただ、黒溝台会戦で右手と胸を負傷したことで11月、陸軍輜重兵中尉へ進級することになりました。
 

そんな中1909年、アメリカの探検家・ロバート・ピアリーが北極点踏破の一報を聞き、先に踏破されたため北極探検を断念、南極点に変更するも、アーネスト・シャクルトンが南緯88度23分へ到達したとの報を知り意気消沈します。さらにイギリス政府がロバート・スコットが南極探検に来年も挑むと発表があったため、これを聞いた白瀬は即座に競争を決意することになります。

こうして1910年、白瀬は南極探検の費用補助を帝国議会に建議、衆議院は満場一致で可決成立したものの、政府は3万円しか補助金を支出しなかったため、渡航費用14万円は国民の義援金で賄うことで実現しました。

船の調達もかなり難航して予算が2万5千円程度で残金も十分ではなかったため、千島探検で険悪の仲となっていた郡司成忠に頭を下げ、積載量204トンの木造帆漁船を買い取って中古の蒸気機関を取り付けたりして改造し、東郷平八郎に「開南丸」という名前がつけられました。
11月29日に開南丸は芝浦埠頭を出港するも、航海中で殆どの犬が原因不明の病で死に、船内では不和が起こります。翌年2月8日、ニュージーランドのウェリントン港に入港して物資を積み込んでから3日後に南極へ向けて出港しようとしましたが、南極では夏が終わりに近づいていてかつ、冬になるにつれ氷が増すため、船が立往生する恐れがありました。そこで5月1日、オーストラリア大陸にあるシドニーに入港しました。
ここで資金調達すべく、書記長の多田と船長の野村が帰国、探検用の樺太犬を連れてシドニーへ合流した隊は11月19日に出港しました、

1912年1月16日に南極大陸に上陸、その地点を「開南湾」と命名しました。ただ同地は上陸、探検に不向きだったため、ロス棚氷・クジラ湾に向かって再上陸し、同年1月20日、極地に向けて出発した。ただこの時点では南極点到達は断念して、南極の学術調査とともに領土確保を目的にしたそうです。
1月28日に帰路の食料を考えて、南緯80度5分・西経156度37分地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名、隊員全員で万歳三唱、「南極探検同情者芳名簿」を埋めて日章旗を掲げ、「日本の領土として占領する」と先占による領有を宣言しました。ただこの領有宣言はアーネスト・シャクルトンにならって行われたのですが、この地点は実際棚氷であり、領有可能な陸地ではないことが後に判明しています(「探検の記録映像『日本南極探検』は東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵しており、展示室のビデオモニターでその一部が鑑賞できます)。

こうして1912年2月4日に南極を離れ、ウェリントン経由で日本に戻ることになるのですが、海が大荒れになったため、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なかったそうです(6頭は生還)。
ウェリントンに戻ると白瀬隊の内紛が修復できないほど悪化していたため、白瀬と彼に同調するもの4人は貨客船で日本へ帰国し、他の者は開南丸に乗って館山、横浜、芝浦へ無事帰還に成功したそうです。

全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸き、白瀬も皇太子の謁見を受け、また各地での歓迎式典が開かれたほか、学術的資料としても南極の気象や動植物の記録、ペンギンの胃から出てきた140個あまりの石の分類も行われました。
 

帰国後に後援会が資金を遊興飲食費に充てていたことが判明し、白瀬は4万円(現在の1億5千万円)の借金を背負うことになり、自宅・家財道具・軍服と軍刀を売却、転居を重ねつつ、実写フィルムを抱えて娘と共に日本国内のほか台湾・満州・朝鮮半島を講演して回り、20年かけて借金の弁済に努めたそうです。

借金返済が終わってからその後、1938年には国から「大隈湾」「開南湾」の命名に対して感謝状が贈られました。

 

  • そして8年後の9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で腸閉塞を発症して死去しました(享年85)。

祭壇には床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ2つ・ナス数個・乾きうどん1把が供えられていたそうで、弔問する人は殆どいなかったと言われ、また近隣住民も白瀬が住んでいることすら知らなかったといいます。

死去してから1960年11月29日には「白瀬中尉南極探検50年記念」の記念切手が発行され、1961年にはロス棚氷の東岸はニュージーランドの南極地名委員会によって「白瀬海岸(しらせかいがん)」と命名されました。
1970年に日本人初で、男性2人と白瀬矗の弟の孫娘である白瀬京子が小型ヨットによる世界一周航海を達成しましたが、この時京子は秋田県にかほ市にある「白瀬南極探検隊記念館」の初代館長へ就任するも1990年の開館日9日前に死去しています。

南極観測船「しらせ」(初代・2代)の艦名は『白瀬矗』からきているという認識が多いですが、旧海軍の時代から慣例的に艦名を人名に因むことを避けないといけない認識であった以上はそのまま採用出来ないため、白瀬を記念した地名である「白瀬氷河」を由来としています。

また、白瀬が明治45年(1912年)1月28日に大和雪原に到達したことを記念して、毎年1月28日に白瀬の出身地であるにかほ市金浦地区で「白瀬中尉をしのぶ集い」が開催され、約2.5キロメートルの「雪中行進」を行っているそうです。


白瀬矗の墓碑は愛知県西尾市吉良町に「南極探検隊長 大和雪原開拓者之墓」という墓碑銘で現存しています。