(2021年9月12日放送分)
問題1
市の名前を漢字一文字で表記する、蕨市があるのは埼玉県。では、燕市があるのは何県でしょう?
1…千葉県
2…岐阜県
3…新潟県
正解…3
解説
新潟県内で新潟市に次いで人口が多い燕市は、新潟県のほぼ中央部に位置する市です。2006年(平成18年)3月20日、燕市と西蒲原郡吉田町、同郡分水町の3市町の新設合併で現在の燕市が発足しました。特に洋食器の生産が世界的シェアを誇り、「商人の町」と言われている三条市と並んで金属加工を中心に栄えたこともあり、古くから相互補完の関係が深く「職人の町」と称されています。
市の名前には諸説ありますが、かつては「津波目」と表記され、「津」が港、「目」が中心地、波頭(水上)に垣間見える多くの港の中で最も栄えた中心地という意味で名付けたという説が有力です。元々燕市が内陸部のため、ここでいう港は信濃川の河岸に多くあった船着場の一つという意味であり、燕市周辺が米の集積地で、水運の中継基地として栄えたようです。
市の名前には諸説ありますが、かつては「津波目」と表記され、「津」が港、「目」が中心地、波頭(水上)に垣間見える多くの港の中で最も栄えた中心地という意味で名付けたという説が有力です。元々燕市が内陸部のため、ここでいう港は信濃川の河岸に多くあった船着場の一つという意味であり、燕市周辺が米の集積地で、水運の中継基地として栄えたようです。
伝説では川上から流れてきて燕が群れていたことから見出された祠を建てた地とされていますが、「燕」の文字に置き換えられた時期や由来は明確に分かっていません。
千葉県には柏市や旭市、岐阜県には関市があります。
問題2
絵画だけでなく、写真やグラフィックアートなどの幅広い作品を展示している、「MoMA」の通称で知られるアメリカの美術館は「何 近代美術館」でしょう?
1…ニューヨーク
2…メトロポリタン
3…グッゲンハイム
正解…1
解説
L.P.ブリス・C.J.サリヴァン夫人・J.D.ロックフェラー2世夫人という3名の女性によって近代美術館設立構想が発案され、1929年に開館したというニューヨーク近代美術館は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン区のミッドタウン53丁目にある近現代美術専門の美術館で、1920年代から「ザ・モダン」と呼ばれたモダンアートの殿堂です。
英文館の名前である「The Museum of Modern Art, New York」という頭文字をとって「MoMA(モマ)」と呼ばれてますが、20世紀以降の現代美術の発展と普及に多大な貢献をした美術館として知られています。また、分館として2002~2004年にかけてマンハッタンの本館が工事中のときに利用されていた施設をそのまま利用したクイーンズ分館 (MoMA QNS) と、より現代的・実験的な作品を展示する美術館であるP.S.1があります。
ただ開館時は現在の場所ではなく、オフィスビルを間借りして展示室にしていました。現在の場所になったのは3年後の1932年で、ジョン・ロックフェラー2世から隣接地の寄贈を受けてビルの建設を始めました。そして1939年にエドワード・D・ストーンとフィリップ・S・グッドウィンが設計し、箱形の外観・平滑な壁面・大きなガラス面などを竣工された建物部分が現在も残されています。
第二次世界大戦後の1951年と1964年の2度にわたって、フィリップ・ジョンソンによって鉄骨とガラスによるイースト・ウィングの増築が施されて彫刻庭園が増設、1983年にはシーザー・ペリによってガラスのエスカレーターが印象的なガーデン・ウィングが増設され展示面積が二倍になりました。
21世紀になって展示スペースのさらなる増加と増築によって複雑化した全体の整理を目指す事となり、国際建築コンペを行いました。そこで採用されたのが丸亀市猪熊弦一郎現代美術館や豊田市美術館などで知られる日本人建築家の谷口吉生氏の設計案であり、建築総工費900億円をかけて増築され、2004年11月20日にリニューアルオープンし、最終的な展示面積が1万2500平方メートル、そして所蔵品も10万点以上になりました。2005年の新館完成に伴い入場料が12→20ドルへと値上げされ、2015年3月現在までに25ドルへと最終的に値上げされ、ニューヨーク市の美術館入場料で最高値となっています(毎週金曜日午後16時以降は入場料無料)。
ちなみに開館第1回展は「セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホ展」でした。さらにその後も建築、商品デザイン・ポスター・写真・映画など美術館の収蔵芸術とはみなされていなかった新しい時代の表現までをも収蔵品に加えて常設・企画展示・上映などを行うことで、世界のグラフィックデザインの研究の中心地としての地位を揺るがないものとしました。また、日本製の電気製品や家具・映画作品、そして2007年1月にはauブランドを展開するKDDIのau design project(現・iida)で生まれた日本でしか利用できない4機種の携帯電話が収蔵品に選定され話題になりました。
MoMAは、現在も近現代美術の殿堂として活発な活動を続けているそうです。
ただ開館時は現在の場所ではなく、オフィスビルを間借りして展示室にしていました。現在の場所になったのは3年後の1932年で、ジョン・ロックフェラー2世から隣接地の寄贈を受けてビルの建設を始めました。そして1939年にエドワード・D・ストーンとフィリップ・S・グッドウィンが設計し、箱形の外観・平滑な壁面・大きなガラス面などを竣工された建物部分が現在も残されています。
第二次世界大戦後の1951年と1964年の2度にわたって、フィリップ・ジョンソンによって鉄骨とガラスによるイースト・ウィングの増築が施されて彫刻庭園が増設、1983年にはシーザー・ペリによってガラスのエスカレーターが印象的なガーデン・ウィングが増設され展示面積が二倍になりました。
21世紀になって展示スペースのさらなる増加と増築によって複雑化した全体の整理を目指す事となり、国際建築コンペを行いました。そこで採用されたのが丸亀市猪熊弦一郎現代美術館や豊田市美術館などで知られる日本人建築家の谷口吉生氏の設計案であり、建築総工費900億円をかけて増築され、2004年11月20日にリニューアルオープンし、最終的な展示面積が1万2500平方メートル、そして所蔵品も10万点以上になりました。
ちなみに開館第1回展は「セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホ展」でした。さらにその後も建築、商品デザイン・ポスター・写真・映画など美術館の収蔵芸術とはみなされていなかった新しい時代の表現までをも収蔵品に加えて常設・企画展示・上映などを行うことで、世界のグラフィックデザインの研究の中心地としての地位を揺るがないものとしました。また、日本製の電気製品や家具・映画作品、そして2007年1月にはauブランドを展開するKDDIのau design project(現・iida)で生まれた日本でしか利用できない4機種の携帯電話が収蔵品に選定され話題になりました。
MoMAは、現在も近現代美術の殿堂として活発な活動を続けているそうです。
メトロポリタン美術館は英語で「The Metropolitan Museum of Art」(通称:The Met)と呼ばれ、世界最大級の美術館として知られています。
グッゲンハイム美術館は正式名称で「ソロモン・R・グッゲンハイム美術館」と言います。英語で言うと「Solomon R. Guggenheim Museum」で、ソロモン・R・グッゲンハイム財団が運営しています。場所はアッパー・イースト・サイドにあり、近現代美術専門の美術館です。
グッゲンハイム美術館は正式名称で「ソロモン・R・グッゲンハイム美術館」と言います。英語で言うと「Solomon R. Guggenheim Museum」で、ソロモン・R・グッゲンハイム財団が運営しています。場所はアッパー・イースト・サイドにあり、近現代美術専門の美術館です。
なお、選択肢にある美術館は全てアメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン区にあります。
問題3
1789年ジョージ・ワシントンがアメリカ初代大統領に就任しました。この時、日本の江戸幕府で第11代将軍を務めていたのは誰でしょう?
1…徳川家治
2…徳川家斉
3…徳川家慶
正解…2
解説
1603~1868まで続いた江戸幕府ですが、将軍の在位は以下になります(名前の後は在位となります)。
初代…家康(1603年2月12日~1605年4月16日)
二代…秀忠(1605年4月16日~1623年7月27日)
三代…家光(1623年7月27日~1651年4月20日)
四代…家綱(1651年8月18日~1680年5月8日)
五代…綱吉(1680年8月23日~1709年1月10日)
六代…家宣(1709年5月1日~1712年10月14日)
七代…家継(1713年4月2日~1716年4月30日)
八代…吉宗(1716年8月13日~1745年9月25日)
九代…家重(1745年11月2日~1760年5月13日)
十代…家治(1760年5月13日~1786年9月8日)
十一代…家斉(1787年4月15日~1837年4月2日)
十二代…家慶(1837年4月2日~1853年6月22日)
十三代…家定(1853年11月23日~1858年7月6日)
十四代…家茂(1858年10月25日~1866年7月20日)
十五代…慶喜(1867年1月10日~1868年1月3日)
三代…家光(1623年7月27日~1651年4月20日)
四代…家綱(1651年8月18日~1680年5月8日)
五代…綱吉(1680年8月23日~1709年1月10日)
六代…家宣(1709年5月1日~1712年10月14日)
七代…家継(1713年4月2日~1716年4月30日)
八代…吉宗(1716年8月13日~1745年9月25日)
九代…家重(1745年11月2日~1760年5月13日)
十代…家治(1760年5月13日~1786年9月8日)
十一代…家斉(1787年4月15日~1837年4月2日)
十二代…家慶(1837年4月2日~1853年6月22日)
十三代…家定(1853年11月23日~1858年7月6日)
十四代…家茂(1858年10月25日~1866年7月20日)
十五代…慶喜(1867年1月10日~1868年1月3日)
家斉の生涯をここで紹介します。
安永2年(1773年)10月5日に御三卿の一つである一橋家の当主・一橋治済の長男として誕生し、
1779年に第十代将軍・徳川家治の世嗣である徳川家基が急死してから2年後の閏5月に家治の養子となり、江戸城西の丸に入って家斉と称すことになりました。
だがその家治も5年経って50歳で病死したため、1787年に第十一代将軍へ就任したのです。この時の家斉は若干15歳でした。
将軍就任後すぐ、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免して、御三家が家斉を成長するまでの繋ぎで松平定信を立てる形で老中首座に任命しました。この時、定信が主導した政策が寛政の改革になります。
1779年に第十代将軍・徳川家治の世嗣である徳川家基が急死してから2年後の閏5月に家治の養子となり、江戸城西の丸に入って家斉と称すことになりました。
だがその家治も5年経って50歳で病死したため、1787年に第十一代将軍へ就任したのです。この時の家斉は若干15歳でした。
将軍就任後すぐ、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免して、御三家が家斉を成長するまでの繋ぎで松平定信を立てる形で老中首座に任命しました。この時、定信が主導した政策が寛政の改革になります。
アメリカでジョージ・ワシントンがアメリカ初代大統領に就任した1789年(寛政元年)、家斉は島津重豪の娘である近衛寔子と結婚しますが、松平定信が幕府財政の建て直しを図るべく敷いた寛政の改革はあまりにも厳格過ぎてしまい、家斉だけでなく他の幕府上層部から批判が巻き起こり、やがて対立するようになります。そして寛政5年(1793年)7月には父・治済と協力して定信を罷免して寛政の改革が終わったのです。
松平定信の失脚後、家斉は定信の下で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命し、これを戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中たちが支える形で定信の政策を継続していくことになったことから、彼らは「寛政の遺老」と呼ばれるようになりました。
1817年に松平信明が病死すると、寛政の遺老たちからも老齢などの理由で辞職を申し出る者が続出します。そこで1818年に側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを幕政の中枢部から遠ざけます。ところがその忠成はどうだったかというと、定信や信明が禁止した贈賄を公認して収賄を奨励し、家斉も宿老たちがいなくなったのをいいことに贅沢三昧な生活を送るようになりました。また、異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れが横行する結果になりました。そこで忠成は財政を再建するため、文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行ったのですが、逆に物価の高騰を招く事態になり、政治が悪化しました。
1834年に忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となったのですが、幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治はなおも続いていました。こういった腐敗政治で、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、天保8年(1837年)2月には大坂では大塩平八郎の乱が起こり、さらに呼応するかのように生田万の乱をはじめとする反乱が各地で相次ぎ、モリソン号事件も起こるなど、海防への不安も一気に高っていったのです。そして4月には次男である家慶に将軍職を譲って大御所となり、老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用して1841年1月7日の69歳の生涯を閉じるまで幕府の実権を握り続けたと言われています。
家斉の死後、側近政治が幕政の実権を掌握した水野忠邦に完全否定され、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷され、間部詮勝や堀田正睦などの側近は老中や幕府の役職を辞任する事態となりました。こうして水野忠邦による天保の改革が始まっていったのです。
ちなみに家斉の子孫は特定出来るだけで16人の妻妾、26男・27女いたそうですが、成年まで生きた子は半分(28名)程度だったそうです。なお、玄孫には第34・38・39代内閣総理大臣を務めた近衞文麿(1945年没)がいました。
松平定信の失脚後、家斉は定信の下で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命し、これを戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中たちが支える形で定信の政策を継続していくことになったことから、彼らは「寛政の遺老」と呼ばれるようになりました。
1817年に松平信明が病死すると、寛政の遺老たちからも老齢などの理由で辞職を申し出る者が続出します。そこで1818年に側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを幕政の中枢部から遠ざけます。ところがその忠成はどうだったかというと、定信や信明が禁止した贈賄を公認して収賄を奨励し、家斉も宿老たちがいなくなったのをいいことに贅沢三昧な生活を送るようになりました。また、異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れが横行する結果になりました。そこで忠成は財政を再建するため、文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行ったのですが、逆に物価の高騰を招く事態になり、政治が悪化しました。
1834年に忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となったのですが、幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治はなおも続いていました。こういった腐敗政治で、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、天保8年(1837年)2月には大坂では大塩平八郎の乱が起こり、さらに呼応するかのように生田万の乱をはじめとする反乱が各地で相次ぎ、モリソン号事件も起こるなど、海防への不安も一気に高っていったのです。そして4月には次男である家慶に将軍職を譲って大御所となり、老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用して1841年1月7日の69歳の生涯を閉じるまで幕府の実権を握り続けたと言われています。
家斉の死後、側近政治が幕政の実権を掌握した水野忠邦に完全否定され、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷され、間部詮勝や堀田正睦などの側近は老中や幕府の役職を辞任する事態となりました。こうして水野忠邦による天保の改革が始まっていったのです。
ちなみに家斉の子孫は特定出来るだけで16人の妻妾、26男・27女いたそうですが、成年まで生きた子は半分(28名)程度だったそうです。なお、玄孫には第34・38・39代内閣総理大臣を務めた近衞文麿(1945年没)がいました。