昨日の続きです。

 

東京出身の私は、神戸が大阪を見下していることに驚きました。

 

関東では、横浜の規模は新宿・渋谷・銀座など、東京の中の都市と同じくらいの規模です。

 

つまり「東京と横浜」という比較はつり合いが取れておらず、「新宿・渋谷・銀座・横浜」という並べ方の方がしっくりきます。

 

神戸は横浜と似ているオシャレな港町というイメージがあるので、東京出身の私の頭の中は「東京=大阪>横浜=神戸」という構図が出来上がっていました。

 

なので神戸人が大阪人を見下しているのを聞いて驚いたのです。

 

さらに驚いたのが奈良と神戸の位置づけの違いです。

 

むかし(2010年頃)東京の銀座四丁目交差点でケンミンショーが「三都物語の『三都』って、どこだと思いますか?」と質問したら、多くの人が「京都・大阪・奈良」と答えて、スタジオの関西人達が衝撃を受けていました。

 

正解はもちろん「京都・大阪・神戸」です。

 

東京の人にとって、神戸は横浜と被るので大して興味がないのですが、奈良は「日本人のルーツ」という良いイメージと憧れがあります。

 

逆に、東京人は実際の奈良を知らないので、まさか奈良があそこまで田舎だとは知りません。

 

関東の人が奈良へ行くのは修学旅行のとき観光バスで東大寺や法隆寺を回るくらいなので、近鉄やJRの奈良駅前がどんな雰囲気なのか知らないのです。

 

大阪の隣なので、千葉か大宮くらいの規模だろうと思って行ってみたら、高崎や宇都宮よりも寂れていてビックリしました。

 

宇都宮は、JRと東武の駅が離れていて、その間にオリオン通りというアーケード商店街がありますが、奈良もJRと近鉄の駅が離れていて、その間に商店街があるので、奈良と宇都宮は似ていると感じました。

 

東京から見たら京都は先輩、奈良は大先輩、大阪は大都会なので、関西の三都というとどうしても「京都・大阪・奈良」をイメージしてしまうのです。

 

これは東京都民が変わっているというより、全国的には東京の感覚が一般的で、奈良の実情を知っている関西の感覚が全国とは違うのかなと思いました。

 

なぜなら、都道府県魅力度ランキングでは兵庫県よりも奈良県の方が上だからです。

 

奈良は観光地としては全国的な知名度があるものの、生活する場所としての魅力は京阪神より劣ると考える人が多いようです。

 

私は実際の奈良を知れば知るほど奈良に魅力を感じ、自然豊かで歴史があって素朴な奈良に住みたいと思いましたけどね。

 

しかし東京の私が関西で一番カルチャーショックを受けたのは、大阪でも奈良でも神戸でもなく、京都でした。

 

明日、京都のことを書きます。

 

私は東京生まれ東京育ちですが、関西へ行って驚いたことがあります。

 

それは、大阪が京都や神戸から見下されていることです。

 

関東では東京が圧倒的な都会で、千葉や埼玉が東京を下に見るということはありません。

 

逆に東京の人は他県を見下すというより、東京から出たことがなく他県に行く用事もないので、他県のことを知らないし、興味がありません。

 

神奈川の人(特に横浜や鎌倉)は「東京より横浜や湘南の方がオシャレだし、鎌倉の方が歴史があるし、私達は東京へ行かなくても十分便利」と思っているらしいですが、東京の人は神奈川の人がそう思っていることを知りません。

 

横浜とか鎌倉は、遠足とか社会科見学とか、たまのデートで行くくらいです。

 

関東から関西へ行くと、東京と大阪はとても似ていると感じます。

 

私鉄のターミナルは大阪に集中しているし、JRの環状線があるし、梅田や難波は三宮・河原町と比べて圧倒的に都会だし、人が多いです。

 

関西の人は「東京は高層ビルのオフィス街か繁華街だらけ」と思っているらしいですが、東京だって東の足立区・葛飾区・江戸川区へ行けば大阪の西成や寝屋川と似たような下町のガヤガヤした活気があります。

 

このように、東京と大阪はとても似ており、東京出身の私にとって大阪は非常に親近感があります。

 

なので、大阪は当然近隣府県から「憧れの大都会」というイメージなんだろうなと思いました。

 

ところが実際は、大阪のことを「憧れの大都会」などと本気で思っているのは奈良県民だけで、京都や神戸からは見下されていました。

 

京都や神戸の人曰く、「大阪は下品で汚いし、人が多くてガヤガヤしている」のだそうです。

 

そして当の大阪人も、京都や神戸から見下されていることは知っているものの、気にしていないという印象です。

 

東京人の私から見ると「どう見ても大阪の方が京都や神戸より大都会なのに、なんで大阪が見下されるの?」と不思議でしたが、伝統と格式を重んじる京都人からしたら「それは東京から来た田舎者の発想」なのだそうです。

 

京都は大阪だけでなく東京のことも見下していますが、神戸は大阪のことだけを見下して、東京には一目置いているようです。

 

そこで、東京から見た神戸について明日書きます。

 

私は中国が好きで、中国のニュースをずっと追いかけています。


歴史が好きだし、中華料理も好きだし、建築のデザインも好きです。


でも、それだけでなく、中国の政治や外交にもとても興味があります。


なぜかというと、日本の常識が通用しないからです。


私達は子どもの頃から

「常識に囚われず、自分の頭で考えましょう」

「物事の良い面と悪い面を考えましょう」

「相手の立場に立って物事を考えましょう」

と言われます。


その割に、中国共産党や中国政府については悪い面ばかりが強調されることに違和感がありました。


北朝鮮のように国民が餓死したり無差別に虐殺されて大勢が脱走している国なら別です。


でも中国の人達は豊かそうに暮らしてるし、愛国心を持ってる人が多いです。


ということは、中国政府には中国政府の良さがあって、それが分からないのは私達日本人側の問題もあるのでは?


と思いました。


スピリチュアル的に言うと、ジャッジを辞めれば辞めるほど魂のレベルが上がると言われます。


中国のことを知ると、もちろん日本で報道されている通りの酷い面はたくさんあります。


中国には中国の常識があって、それに縛られて生きると自由な人生からは遠ざかります。


しかし酷い面があるのはアメリカや日本も同じです。


中国といえども、国家分裂や政権転覆を企てたり、国家機密を盗まない限りは大丈夫で、普通に暮らしてる分には日本と変わりません。


知れば知るほど「どっちもどっち」という印象です。


自分の中での「こうでなければならない」という常識の枠が少し緩くなって、すこ楽になった気がします。

私はThe・昭和の価値観の家庭で育ったので(私と同世代は殆どの人がそうだと思いますが)親戚で転職を経験した人など誰もいません。


新卒で入社した会社に定年まで勤めるのが当然で、転職なんて離婚に匹敵する一大事であり、転職をする人には何か問題があると思っていました。


しかし新卒で入った会社の48歳の上司はなんと8社目で、「そんな人がいるのか」と度肝を抜かれました。


それから色々と経験しましたが、私は30代半ばにして現在5社目です。


私の職種は割と転職が当たり前で、50代でもポンポン転職しています。


たまにインターネットで「転職しようか悩んでたら5年経った」という書き込みを見ますが、どこの国の話だろう?と思います。


私自身は1つの会社で働き続けるより、色んな会社で様々な人と働き、豊富な経験を重ねたい性格なので、とても有り難いです。


転職するたびに新しい経験を積めて給料もどんどん上がりますし、転職を重ねると会社や仕事の選び方のコツも分かってきます。


今は「3〜5年で転職するのが当たり前」という世界線で生きているので、周りもそういう人ばかりですし、将来への不安もありません。


外資系やベンチャー、IT系や会計系などの世界はどこでもそうだと思います。


たまに「そんなに転職して大丈夫か?」と心配されますが、何が心配なのかよく分からず、全く気になりません。


もし親の期待に応えて大企業に入って長年働いていたら、全く世界の見え方が違っていたでしょう。


自分の潜在意識が世界を作るってこういうことかなと思います。


私は今、離婚した妻と友達関係なのですが、そのまま次のパートナーを見つけたいと思っています。


元妻とは夫婦関係の距離感が合わなかっただけで、人として嫌いなわけではないからです。


私の身近に、離婚したあと元配偶者と友達をやったまま別のパートナーを見つけた人など誰もおらず、私の考え方はとても非常識だと非難されると思ってます。


でも、私の潜在意識がそういう価値観に縛られているから、非難されるような現実を引き寄せるんだろうなと思います。


世の中のブログやYouTubeを見れば、今の家族を愛しつつ元パートナーとも円満な友達関係を維持している人はいるので、それが当たり前だと潜在意識を書き換えれば見える世界が変わってくると信じています。


それが、これからの新しいチャレンジです。


私は東大卒なのですが、現役で東大に合格したあと、学生の間は天狗になっていました。

 

「東大生でなければ人間でない」とでも言わんばかりに、とにかく他大学の人を見下して「MARCH以下の大学なんてFラン大学でしょ」などと鼻で笑っていました。

 

しかし就職活動の段階になり、リーマンショックの影響で全く就活が上手くいきませんでした。

 

いくら不景気とはいえ東大生なんだから、適当に就職活動をしていればどこか大手企業に入れるだろうとタカをくくっていました。

 

ロクに企業研究もせず、大手企業を手当たり次第に受けていたら全滅してしまいました。

 

大手の採用時期が過ぎて中小企業しか受けられない段階になったのですが、この時になってようやく天狗の鼻が折れました。

 

プライドの高さが邪魔をして中小企業の就職活動も難航し、何とか内定を取ることができましたが、入社後に会社が倒産寸前であることが分かり、上司がリストラされ、私自身も半年で転職しました。

 

当時は、新卒で大企業か官僚になれなければ人生終わりだと思っていたので、多くの友人との縁が切れました。

 

大学外で知り合った友人(バイト先や旅行先、インカレサークル)の中には就職先に関係なく付き合ってくれる人もいました。

 

この時、世の中には、肩書きや状況にとって見る目が変わる人と、状況に関係なく付き合ってくれる人がおり、後者を大切にしたいと心底思いました。

 

そして、学歴や職歴、ステータスよりも人間性が重要であると腹の底から痛感しました。

 

この頃は人生で一番どん底だった時期ですが、頂点からどん底へ叩き落とされたことで人生が変わりました。

 

40代で出世競争に敗れて目覚める人もいれば、定年後に人が離れて気がつく人もいるようですが、20代で気づけた私はラッキーでした。

 

しかし逆に20代の頃は、学歴や職歴のマウンティングに対して敏感になり「10代の頃は勉強ばかりしていたから人間性が育たなかった。東大へ行ったのは間違いだった」と、10代の自分を否定していました。

 

成功へ向けて一生懸命頑張ることに対して否定的になっていたのです。

 

それはそれで余裕がなかったのです。

 

30代になり幸せになった今、10代の自分も20代の自分も受け入れられるようになりました。

 

東大に現役合格するというのは、もちろん周りの支えもありますが、自分の努力もあるので否定することはありません。

 

10代の未熟な時期に成功してしまえば、天狗になってしまうのも仕方がないと思います。

 

そして20代で人間関係に苦労していた時期に、勉強ばかりしていた10代を否定してしまうのも仕方がないと思います。

 

色々と経験したからこそ調子に乗ってマウンティングしたくなる人の気持ちも分かるし、マウンティングされて傷つく人の気持ちも分かります。

 

色々な立場の人の気持ちが分かるからこそ、人生の奥深さを感じられて、とても毎日が楽しいのです。

 

過去の大変だった経験があってこそ今の自分があると思うと、過去の未熟だった自分にも感謝をしたくなります。

 

そして、周りで「未熟だなぁ」と感じる人を見ても、「まぁそういう時期もあるし、気持ちは分かる」と思い、その人が成熟して幸せな人生を歩めることを素直に願えるようになりました。

60年前くらいまで日本でもお見合い結婚が一般的で、古くは武士の時代も家の発展のために政略結婚が行われていたようです。

 

今でもインドでは見合い結婚が当たり前で、恋愛結婚は少数派のようです。

 

なぜ見合いの制度が発達したのかというと、私の推測ですけど、一族の財産を守るためかなと思います。

 

自由恋愛の結果、ロクでもない異性と結婚して一族の財産を使い果たされてしまったら困るので、相手の家柄の格式や財産を確認してから結婚することが大切だったのではないかと思います。

 

逆に、縄文時代まで遡ると私有財産はなかったので財産を守る必要もなく、従って見合いをする必要もなく、むしろ妊娠出産の大変さを恋愛という脳内麻薬で乗り越えるために自由恋愛だったんじゃないかなと推測してます。

 

たぶん縄文時代は夫婦だけで子供を育てるというより村全体で子供を育てるという感じだったのではないかと思うので、今のように教育資金を気にせずポンポン子供を作れたのではないかと思います。

 

縄文時代にも非モテで悩む男女っていたんですかね?

 

今の時代、日本では社会保障制度が発達し、昔ほど家の財産を守ることの重要性が高くないので見合いよりも自由恋愛が発達したのかなと思います。

 

今の時代、年収や年齢、学歴の条件で結婚相手を選ぶことはネガティブに捉えられがちで、相手のスペックよりも恋愛感情を優先して結婚するべきという風潮が強いと思います。

 

でも、なんだかんだ結婚したあとに財産を巡ってトラブルが起こる家庭は多いですし、見合い結婚の方が最初の期待値が低い分だけ恋愛結婚よりも離婚率が低いという噂も聞いたことがあります。

 

ドラマなどでは自由恋愛至上主義が強いですが、スペックで相手を選んでから愛情を育てることが必ずしも悪いこととは思わないです。

 

もちろん、自由恋愛が見合いよりも悪いわけでもなく、性格や価値観によって向き不向きがあるのかなと思います。

私自身は前世や輪廻転生、引き寄せの法則などを信じているのですが、「スピリチュアルに興味があります」とは言いません

 

スピ系と言っても色々いるんですけど、自分に自信がなく、自分で決断や行動ができないからといって占いに逃げる人は嫌いです

 

具体名を挙げて申し訳ないけど、細木数子さんの大殺界などを信じて行動できなくなる人は嫌い

 

私は引き寄せの法則を信じているので、大殺界があると信じれば大殺界を引き寄せるし、ないと信じれば引き寄せないと思っています

 

潜在意識が現実を作ります

 

自分の決断に自信が持てず行動を起こせないときに、宇宙の法則を信じて「大丈夫だから大丈夫だ」と根拠なく信じることは大切だと思うんですけど、不安を煽って行動を抑圧する系のスピは本当に嫌い

 

パワースポット巡りをして「私はパワーをもらったから行動しても大丈夫だ」と行動する人は好きなんですけど、「私はパワースポットにいったから何も行動しなくて大丈夫だ」と逃げ口上に使う人は嫌い

 

私も神社やお寺、自然の絶景などパワースポットに行ったり、瞑想で心を整えるのは好きですけど、それは自分自身の魅力を引き出すためにやっています

 

大殺界や地獄などを持ち出して不安を煽り、罪悪感でコントロールし、人間の自由を奪おうとするスピは本当に嫌い

 

「スピリチュアル」というと、そういう有象無象が大勢寄ってくるので、むしろスピを信じずに行動している人の方が好きです

 

 

 

 

たまにポリアモリ―への誤解として

 

「女性は出産リスクがあるからモノガミーになりがちだけど、男性は複数の女性と関係を持ちたがるからポリアモリ―の傾向がある」

 

というコメントを見かけるけど、そういうことではない!

 

パートナーに隠れてコソコソと浮気や不倫をしたり、性欲に任せて関係を持つのはポリアモリ―ではなく、ただの不誠実なヤリ○ンです

 

ポリアモリ―は、「複数の人と関係を持つ」という行動に走る前に、自分の気持ちをパートナーとオープンに話して、合意を得るまでは他の人とは関係を持たない

 

そして、自分のパートナーが他の人と仲良くすることも受け入れる

 

前近代の妾や側室の制度、一夫多妻制はポリアモリ―とは全く別物だと思います

 

ポリアモリ―には嫉妬の感情のマネジメントが大切

 

むしろ、自分のパートナーが他の異性(同性でもいいけど)と仲良くして幸せな顔をしているのを見て自分自身も幸せを感じる(「コンバージョン」というそうです)こともある

 

そして、そんな価値観が理解できる人は殆どいないから、世間の常識に囚われず自分の価値観を貫く自分軸の姿勢とか、世間の批判を受け入れる度胸とか、いろんな覚悟がいる

 

そんな考え方の男性が多数いるわけはないと思う

 

だから男女関係なく、ポリアモリ―の人は珍しい

 

「愛情とは、パートナーを独占することではなく、パートナーの幸せを願うこと」

というのが本当に心の底から腹落ちしている人でないとポリアモリ―で幸せにはなれない

 

自分自身やパートナーと向き合うことから逃げるのが不倫

 

自分自身やパートナーと徹底的に向き合って「本当の愛とは何か」を極めるのがポリアモリ―

 

生半可な覚悟でなれるものではない

必死に異性(同性でもいいけど)を追いかけていたのに、その異性が自分に振り向いた瞬間に、その人のことを嫌いになる

 

という現象を蛙化現象というそうです。

 

原因は自己肯定感の低さで、自分自身のことを嫌悪しているから「こんな自分を好きになるようなレベルの低い異性は嫌い」となるそうです。

 

自分には手の届かないようなレベルの高い異性を好きになります

 

パートナーによって自己肯定感の低さを埋め合わせようとしているのかも知れません

 

女性に多いらしいですけど、男性でもあります

 

私がまさにそれ

 

とても綺麗で憧れの女性だったのに、向こうから頻繁に連絡をくれるようになると返信するのがダルくなる

 

こんな状況では結婚生活は送れない

 

自己肯定感が上がると蛙化現象は治るようですけど、自己肯定感を上げるのは難しい

芥川龍之介の書いた「杜子春」という小説があります。

 

仙人を目指す少年が仙人から「仙人になりたければ、これから何があっても声を出してはいけない」と言われます。

 

少年は、虎が襲ってこようが地獄に落ちようが声を上げませんが、最後にお母さんが滅多打ちになるのを見て「お母さん!」と声を上げてしまいます。

 

すると仙人が出てきて、これまでのことは全て幻だったと分かり、仙人は「もし声を出さなければ、お前を殺していただろう」と言って去ります。

 

この話は中国の伝奇小説を題材にしていますが、原作ではラストが全く異なります。

 

原作では、主人公の子ども(赤ちゃん)が滅多打ちにされるのですが、主人公が声を上げると、仙人から「もし声を出さなければ仙人になれたのに・・・」と言われます。

 

インターネットの評価では、原作の結末は残酷すぎて理解に苦しむという意見が多いです。

 

確かに芥川の結末の方が現代社会の倫理観には適合していると思います。

 

しかし私は、原作にこそ多くの現代人が幸せに生きるヒントがあるのではないかと思います。

 

アルコール依存症の夫の世話をする妻、DV夫から離れられない妻は「私がこの人を見捨てたら、この人は生きていけない」と錯覚し、アルコール依存症やDVを悪化させてしまいます。

 

しかし「私が見捨てたらこの人は生きていけない」というのは幻想です。

 

実際には、支援者を失ったアルコール依存症夫は自分で生きていかなければならないので自立します。

 

引きこもりで親の脛をかじる子供を見捨てられない親、過干渉な親から離れられない子供など・・・

 

本当は家族との関係を切り捨てた方がお互い幸せになれるのに、「私がいないとこの人は生きていけない」という幻想に取りつかれ、共依存関係から抜け出せず、共倒れしてしまうケースは後を絶ちません。

 

「子どもが鬼から襲われる」というのは比喩ですが、ギャンブル依存症の子供が高額の借金をして闇金融業者から狙われるというシチュエーションは似たようなものでしょう。

 

アドラー心理学の「課題の分離」に通じる考え方ではないでしょうか。