普通の人が教えるエンディングノートインストラクター鈴木優治のブログ

人生は目の前の1分の積み重ね

サクセスビジネスプロデューサー 後藤勇人

著書「人生を変える朝1分の習慣」より

その1分をいかに過ごすかで、将来が決まってくる。

とくに朝の1分は、その日を決める大切なひと時

だからみんな、朝をうまく使っている。

早起きが苦手?

早起きなんてする必要なし 大切なのは、過ごし方だから

いつもの朝をちょっとだけ変えれば、あなたの人生上り調子

いつもの朝の いつもの1分を、ちょっと変えてみませんか?

私たちの人生は、目の前の1分が連なってできています!

先日、後藤先生のセミナーに参加して、先生の著書を頂きました。

上記転記内容は、至極当然、誰でも知っているような内容なのですが、何故か新鮮な発見がありました。人生は目の前の1分の積み重ねであることを、改めて認識しました。


人生の真ん中を過ぎて、後半に差し掛かっても、この言葉をしっかり心に刻んで過ごしていきたいです。この世でやりたいことは、全て行ったので、この世を卒業します!って言いたいですね。


まだやり残したこと、整理していなかった事をまとめるには、エンディングノートです。

エンディングノートは明日を生きる為の、きっかけ作りです。有効に活用しましょうね。


ところで、お宅にある遺影写真は、大きいサイズでしょうか?コンパクトサイズの遺影写真パネル を扱っていますので、ご興味があれば、お問い合わせ下さい。


普通の人が教えるエンディングノートインストラクター鈴木優治のブログ

スピリチュアル・メッセンジャー美鈴

■本日の【金の魂語】(きんのたまご)20131018より引用

寿命を迎えるそのときに、

周囲の人から惜しまれる生き方を、

今のうちから心掛けていたいですよね。

この世での学びの期限を終えて、

身体とお別れをするとき殆んどの人が、

ちゃんとその様子を見て感じています。

そして、自分のお通夜やお葬式の場にも、

生きているときと何ら変わりなく“自分”として、

存在しているのです。

そこで、多くの故人が、

「もっと、惜しまれるかと思ってた…。

もっと、この人たちのために精魂込めて生きれば良かった…。」

という溜め息混じりの後悔の言霊を落とされます。

そして、

「もう、このまま直ぐに忘れられていくんだろうなぁ…。

嫌だなぁ、寂しいなぁ…。」

と、不安感に襲われて涙を流される姿も多くお見掛けします。

誰もが、ずっと語り継がれるような偉人になる必要はありませんが、

せめて、「こんな人、死んで良かった」と思われないようには、

生きたいものですが……;

でも、やっぱり「惜しい人を…」と言われたいかなぁ。。

それ以上の幸福は、「あの人、精いっぱい生ききったね。」と、

逝く人も遺される人も、そのどちらにも“後悔”なんて

微塵も感じられないような清々しい浄化の成功を成し遂げることでしょうか…。

どちらにしても、真理の溢れる生活を心掛けて、

ご縁ある人、愛する人…その全ての人が、

“報われる”ような生き方…

「今を生きる」そして「生きぬく」ことが大切ですね。

-----------引用終了


日本の習俗では、魂と肉体を分けて考えています。

このような考えが正しいのか、私にはよくわかりません。

でも魂が肉体とお別れを迎えるのは、寂しいと感じるでしょうね。


今を精一杯生きる事が大切そうですね。

お別れを考えるには、エンディングノートの活用が一番です。

ノートの事で困った事があれば、エンディングノート研究所




普通の人が教えるエンディングノートインストラクター鈴木優治のブログ

仏教講師、菊谷隆太さんの『一からわかる仏教(ブッダの言葉)』より引用させて頂きます。


【人身受け難し(5)】

お釈迦様は「自殺ほど愚かなことはない。」と説かれた方です。

愚かだと説かれる理由は、自殺者は「飛んで火にいる夏の虫」だからです。

夏に火に飛び込んで虫が死んでいくのはなぜなんでしょうか。

明りに群がるのが習性なのか、炎を花だと勘違いして蜜を求めて近寄ってくるのか

少なくとも、あそこに飛び込むと焼け死んでしまう、と覚悟して飛び込んでいるのではないでしょう。

無知なるが故の悲劇です。

お釈迦様が自殺を止められた話が仏典にありますが、

その止め方はどんな教育者もカウンセラーも

もう言わない、発想もできないような止め方をされています。


=======

ある時、釈迦が托鉢中、大きな橋の上で、辺りをはばかりながら一人の娘が、しきりと袂へ石を入れているのを見つけた。

自殺の準備に違いない、と知った釈迦は、


さっそく近寄り、優しくその事情を尋ねた。

相手が釈迦と分かった娘は、心を開いてこう打ち明けた。

「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、

今は捨てられてしまいました。

世間の目は冷たく、お腹の子の将来などを考えますと、

死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます。

どうかこのまま死なせてくださいませ」

娘は、よよと泣き崩れた。

その時、釈迦は、哀れに思い、こう諭している。

「愚かなそなたには、例えをもって教えよう。

ある所に、毎日、重荷を積んだ車を

朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。

つくづくその牛は思った。

なぜオレは毎日、こんなに苦しまねばならぬのか、

自分を苦しめているものはいったい何なのかと考えた。

そうだ! この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、

牛は車を壊すことを決意した。

ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、

木っ端微塵に壊してしまったのだ。

ところが飼い主は、

こんな乱暴な牛には頑丈な車でなければまた壊されると、

やがて鋼鉄製の車を造ってきた。

それは壊した車の何十倍、何百倍の重さであった。

その車で重荷を同じように毎日引かされ、

以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、

深く後悔したが後の祭りであった。

牛が、ちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよい

と思ったのと同じように、

そなたはこの肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。

そなたには分からないだろうが、

死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まなければならないのだ。

その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなんだよ」

そして釈尊は、すべての人に後生の一大事のあることを、

諄々と教えられた。

娘は、自分の愚かな考えを深く後悔し、

釈尊の教えを真剣に聞くようになり、

幸せな生涯を生き抜いたという。