2014年9月 @ 神戸映画資料館
オタール・イオセリアーニ監督の1975年の『田園詩』。
辺鄙な片田舎へ合宿に来た音楽学生達が村の静寂に落とす波紋。その波紋がぶつかり鳴る不協和音。
が、しかし、カメラは安直な“田舎幻想の破壊”へとは向かわない。
あの村の少女の表情!
ユーモラスでチャーミング。
只管ロマンティックで、そして胸に迫るラストだ。
言葉がないからこそ見える想い。
ちょっとソヴィエトの映画としては観た事ない程の軽やかさがあるんだけど、あの傘で以って何から逃れようとその足取りを早めたのか?
が、しかし、カメラは安直な“田舎幻想の破壊”へとは向かわない。
あの村の少女の表情!
学生達が村を後にした時のあの少女の表情に全てが詰まっている気がするな。
ドキュメントか?と見紛う程の村の日常の描写には、緻密な譜面が存在したのであろう。
ミハイル・コバヒーゼ監督の1964年の大学卒業制作作品『結婚』。
もし、映画がサイレントのままその進化を歩んでいたのなら?ユーモラスでチャーミング。
只管ロマンティックで、そして胸に迫るラストだ。
言葉がないからこそ見える想い。
あのシーンで過る『暗殺の森』感…
しかし、こっちの方が先だ。
ミハイル・コバヒーゼ監督の1967年の『傘』。
こちらはよりサイレント映画への親和性が高い。ちょっとソヴィエトの映画としては観た事ない程の軽やかさがあるんだけど、あの傘で以って何から逃れようとその足取りを早めたのか?
ミハイル・コバヒーゼ監督の『傘』でのあの傘と、オタール・イオセリアーニ監督の『田園詩』でのあの学生音楽家達。
あれの意味するところは多分=なのであろう。
変わりばえしない退屈な日常に一瞬吹いた、甘美な軽やかさ/優雅さの誘惑。
故にラスト、傘とサヨナラする女性の表情と、学生音楽家達の帰りのバスを見送る少女の表情は近い。
パラジャーノフの1986年の『ピロスマニのアラベスク』は、グルジアの国民的作家のドキュメントの体制ではあるものの、勿論そんなありきたりなフォームからは逸脱し、我々の“意味”へと変換するスピードを越えたイマジネーションで塗り込められる。
タルコフスキーを想起する鳴り続ける不気味なあの音楽。銃声。ロープウェイ使った鐘のアプローチもインパクト大。
書割で閉ざされた空間が一気に開けるシーンには寺山修司が過ったけれど、その開けた丘の向こうに街並みが見えるショットはアンゲロプロスの様だった。
ゲオルギー・ダネリヤ監督の1979年の長編『秋のマラソン』は、抜群のブラックユーモアと、いたたまれない程の不倫な縺れとで、最期迄ヒヤヒヤと目が離せない!
勿論人に拠っては観てられん!っぐらいの深刻さもあるんだけど、それもまた他人の不幸は何とやらだ。
“嘗ての私”を守らんと茶々入れてくるあの方の姿が痛い。
きのこの山や俗語にワクワクしてる男共の呑気さには空いた口が塞がらない。
雨に濡れた路上撮影が美しい。フィルムも綺麗だ。







