生きがい | 同志社大学ボート部公式ブログ

こんにちは。新2回生の中田大斗です。とうとうブログの出番が回ってきました。まだまだボート部としての生活習慣に翻弄されている毎日ですが、先月からバイトを始めました。先輩方から、代々入ることが難しいと言われていた”宮本むなし(定食屋)”にキッチンで入ってます。


まもなく、みなさんのもとに運ばれる食事が、僕の調理した具材によるもの、となるでしょうね😤入部当時はフライパンですら握ったことのない生活でしたので、料理人としてのスキルが絶賛成長中です。


さぁ、今回のブログですが、あまりみなさんに自分の過去について語ってこなかったので、ここで紹介しようかな、なんて考えてます。野球やってた、ぐらいしか言ってこなかった気がするので。


※ここから約5000字続きます。時間のあるときに読んでいただければなと思います♪


いつも自分の中で難しいな、と思うのが出身地問題です。僕の記憶には存在しませんが、兵庫県で生まれて、2ヶ月で東京に引っ越したらしいです。ただ、2年ほどで今度は大阪に引っ越してきてますので、東京にいたということも実は覚えてないんですよね。それから、大阪に小3まで暮らしていましたので、出身地と生活場所が異なることを、他人に説明するには面倒なところではあります。


3歳上に兄がいるのですが、その兄の影響で小1から野球を始めました。右投げ左打ち。利き手は右手ですが、一塁までの距離が一歩短くなるから、という理由で矯正されたのを覚えてます。


僕の当時通っていた小学校が1学年2クラスしかなかったので、小4のとき東京に引っ越してから1学年4クラスとなり、人が多いな、と思っていました。


東京に引っ越す際に、少年野球の強豪チームを基準に学校を探していたので、普通の少年野球チームはその学校にいる児童のみが集まったクラブになると思いますが、僕のところは世田谷区のあらゆる所から、有志の集まった多国籍軍のような感じでした。


強豪であるがゆえに小学生の身でありながら、平日練習が存在し、小6時には週5回の練習、さらにはゲーム禁止令という、制限の加わった厳しい生活でした。「普通の小学生だったらもっと遊べたのかな?」みたいなことは今でもたまに感じますね。


僕自身は、どのポジションでも守れたので、ユーティリティプレーヤーとして、同学年の中で最も試合に出場していましたが、小6のときは、主にキャッチャーでした。毎試合、毎回打たれたら、キャッチャーの責任ということで、監督に叱られ続け、何度も泣いていました。小学生で制球力のあるピッチャーなんていませんから、構えたところに投げてくれないみたいなことはザラにあります。


今では、監督に多くの時間をかけて面倒を見てくれたことに感謝していますが、中学以降は悔しいときや、悲しいときに泣くことができない体質になってしまいました。そのため、映画館に行っても、うるっとくることはあっても、涙を流せないという悩みがあります。


とりあえず、どのチームにも1人はいる、身体の成長が早く、身長が高い警戒すべきバッターには腕の伸ばしづらいインハイ(内角高め)に構える、というのが少年野球の鉄則ですね。


こうした練習の成果か、僕たちは全国大会に出場し、神宮球場で試合できました。試合自体は、三重代表のチームにボコボコにされましたが、あの電光掲示板の4番に中田という文字が表示されていたのは、一生の思い出ですね。4番打っていたのか、と気になるかと思いますけど、ただチームの編成上、4番目に僕がいることで点数が入りやすいというだけなので、長打力があったわけではありません。当時から身長は低い方でしたので、整列したときに背番号順に並ぶと僕のところだけ凹んでる、みたいな感じでした。


実は、僕の高校までの野球人生の中で少年野球がピークで、他にも西武ドームで試合をしたなど、恵まれた生活でした。同地区である世田谷区では無双していたので、多くのメダル🥇が家に保管されています。優勝カップや、賞状といったものは、総会のときに山分けされるので、なかなか素晴らしい戦績を納めることができました。


その代償として、怒られることに慣れたがゆえに、自分の感情表現がどこか閉鎖的になりがちとなったり、世の流行りとは異なる生活でも、自分のことは自分で選べば良く、周りに合わせる必要はないという価値観の土台を築くこととなりました。


中学では、中学受験するほどの時間と学力がなかったので地元の公立中学校の部活で野球を続けました。最高戦績が都大会ベスト16とまずまずの結果を残しましたが、小学校の頃と比べると、やはり見劣りしてしまいますね。


なぜかうちの中学校は、帰国子女が多く、英語教育が盛んに行われていましたので、おのずと学校の成績をとるのが難しかったです。ボート部の方々は、小、中学校の学校の成績及び学力が輝かしい人だらけですので、すごいなと思います。僕は、中学の頃は、上位30〜40人目ぐらいだったと思います。普通のちょっと真面目な中学生でした。


高校受験に関しては、兄のリベンジとして公立高校でありながら、21世紀枠に選ばれたこともある、強豪校の東京都立小山台高校に通いました。世間には練習時間が平日17時までと謳っておりますが、河川敷、球場を借りるなどして、最長で21時まで練習していました。もちろん、勉強することはできず、入学時の学力からどんどん下降していきました。それでも、勉強できる人は現役で早慶に行く程でしたので、勉強=センスという変な偏見を持ち始めるようになりました。


野球に関していうと、同学年が33人と多く、3学年合わせて最高120人越えという大所帯チームとなりました。学校のグラウンド自体、東京の都心に近い公立高校ということもあり、もちろん試合できるほどのスペースはありません。


それでも、うちの監督の方針として大会前以外は、全員に同じ機会を与えるようにと、狭いグラウンドを短い時間で10個くらいのメニューでローテーションするという効率化を図りましたが、やはり人数が多いと1人あたりの練習量は落ちてしまう。技術的に上手くなることは難しいなと感じました。


確かに、自分たちのライバル私学強豪校となる関東一校や、二松学舎に練習量で上回ることは不可能に近いので、心で勝とう、というのが我々の目標でもありました。そこで、ノートに毎日1ページ思ったことや、感じたことを書く、野球日誌というものを3年間続けました。技術的な内容を書くのではありません。チームの雰囲気、仲間との関係を通じて、日本一に向けた取り組みができているか、振り返るものでもありました。もちろん、監督に提出したり、仲間で交換日誌を行うなど、交流を深める目的もあります。


今もかなり長くなっておりますが、3年も続けると文章を書くこと、考えることが得意になりました。その関連で新3回生の寺井さんの母校である米子東高校の監督が自分の高校に訪問するということもありました。高校の頃から寺井さんとは見えない糸で繋がっていたかもしれませんね。


残念ながら、高校野球で自分はレギュラーどころかベンチ入りすらもできませんでした。やはり、軟式から硬式に上手く適応できなかったこと、練習の忙しさに追いつくのがやっとであったこと、体が小さく注目されにくかったこと、それ故に野球に対する向上心が今ひとつであったことが原因です。


高校の仲間とは仲良くやってこれましたが、正直自分が活躍できないつらさ、しんどさが大きく、あまり楽しいとは言い切れない野球生活であったと思います。自分の調子がいいときに仲間を応援することはたやすいことですが、自分の苦しんでいるときも応援するというのは、頭の中では理解していても行動で示すのは難しいなと感じました。スポーツはする派、見る派みたいな議論がありますけど、僕は絶対する派ですね。自分が活躍しないとつまらないです。


一方、勉強の方もどん底に落ちることとなります。勉強できていなかったことで学年320人中300位代の成績をとることが続きました。いわゆる落ちこぼれというやつです。ここまでくると、授業に追いつく、追いつかないの話ではなく、勉強するか、しないかの問題になってきます。周りの会話が気になり、常に敏感になります。「あと一問できなかった」とか、「最悪だ」とか僕よりできてるくせに話してる会話を聞くだけで、周りがみんな敵に見える現象に悩まされました。


長い反抗期も重なり、勉強しても、しなくてもできない、それならやらないでおこうという不適切な合理化を成就させました。おそろしい選択ですね。本当にメンタルがズタズタな高校生活でした。いまだにそのトラウマを思い出すときがあり、勉強だけ試験が近づくにつれ、やる気が減退するという負の爆弾ルーティンを抱えてます。勉強に関しての成功体験がなさすぎて、本当に悩んでるところであります。


暴露話になりますが、模試の判定で、友達と志望校が重ならないようにするために、東京にいながら関西の大学を選んでいた、というのが本音です。普通、わざわざ東京にいながら地方に移動するメリットなんてありませんからね。「何でわざわざ関西に来たん?」てよく聞かれますが、建前上は親の実家が関西だからですが、本当は周りと比較されるのが怖かったんです。


まぁ、それで必然的に浪人することになり、今がある、という感じでしょうか。浪人時もわざと徹夜したり、夜中徘徊したりと奇行を繰り返し、自分の器を壊しては壊す、その連続でしたね。河合塾にお世話になっていましたが、中高男子校出身の学力至上主義者が複数名いて、大声で成績を言い合ったりしており、気味が悪かったです。


僕の私見ではありますが、男子校、女子校は閉鎖すべきです。幼稚な配慮のない学生が高校までズルズルと引きずっているのは、教育上大問題です。また、未婚率が、、、というのは触れずにやめときましょう。


そんな僕の過去を知らないので当然ですが、どうやら僕は周りから勉強できる人に見えるようです。ここまで読むとそんなことはなかったと気づけるでしょう。まぁ、勉強できる人に見られて嫌だという人はいないと思いますが。


ここで、今回のブログのテーマにしている"生きがい"ということについて。ここまで、一切そんな話はしてこなかったじゃないか、と疑念を抱かれる方もおられると思います。安心してください。今から話します。


野球でもダメ、勉強でもダメ。じゃあボート?いやいや、ボートにはならないですね。なぜなら、大学に入るまでボートなんて知りませんでしたから。ただ、様々な点において弱者として経験してきたからこそ、活かせる部分があるのではないか、ということなんですね。


悩みに悩んだからこそ、自分探しを繰り返してきました。自分とは何か。アイデンティティを追求してきたという自負は誰にも負けません。結局のところ、どの競技、どの勉強においても、トップに立てるのは1人だけ。その他はみんなきつく言えば敗者なんです。あとはどれだけ自分のことを認められるか、自分を自分で褒められるかだと思います。どのラインで自分を許容できるか、見定めるべきだと思います。もちろん、トップを目指すべきです。このような採点競技みたいなヒエラルキーの存在するものはね。


しかし、僕の目指すべき到達点はそこではありません。階級の存在しないところ、つまり人の徳に関してです。本を読まない人なので倫理的にとか歴史的にとかはよく分かりません。ただ、たとえば食料に困っている人に食べ物を分け与えた、という行為に対して、高額だから良いというわけではなく、分け与えた人全員に同じ評価がなされると思います。


このような気前の良さ、やさしさを見返りを求めず、常に頭の片隅に置いておきたいと思っています。驕らずに、同じ目線で手を差し伸べる。こういった姿勢は勉強ができるから、スポーツができるから可能にするものではありません。だからこそ、せめて人としてだけは優れた人格でいたいなというのが僕の中の理想です。


そこで僕の中で"生きがい"というのは、誰かを喜ばせることをしたときに生まれます。周りの人からすれば面倒なことであっても、何か協力したい、手助けしたいと思うときがあります。見返りを求めない優しさを分け与えること、これが純粋な気持ちで行えるようにできたらな、と思います。


なんかつまらない内容で長すぎてすみません。こういうときに限って熱が入ってしまう自分なので、止められませんでした。念のためですが、インスタのサブ垢の方でも日記を行なっているので、興味のある方は本垢から飛んでもらえばいけるはずです。


こういう背景のもと、野球は諦めてではなく、ボートに転進しました。今でも、1日オフを廃人のように溶かしてしまうことがありますが、もう一度自分が輝く主人公となれるよう、日々、乗艇にエルゴ、筋トレを頑張ります。