「太陽が地上に落ちた。
街は悲鳴をあげ、身もだえするように燃えていた。
炎は空を焦がし、熱風があたりをひとなぎするごとに
草も木も、人間も、燃えた。
凄まじい光景を前に息を呑んだ。再び息を継ぐと、
炎の塊のような大気の熱さに喉は痺れた。
いまにも体がハイフのうちから火を噴きそうだった。」
(『ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆』 山口彊)
著者・山口彊(ツトム)氏は、1916年長崎生まれで、
ヒロシマ、ナガサキと二度被爆。
このような「二重被爆者」は、日本に165人程おり、
山口彊氏もその一人。
1945年5月上旬、造船の仕事で3ヶ月間、
広島に出張となり、8月7日に広島を出て、
長崎に戻る予定でありました。
その出発の前日、8月6日に広島で被爆し、
翌7日にかろうじて列車に乗り、1昼夜かけ、
8日に長崎に到着し、翌9日に長崎で2度目の被爆。
2006年、「二重被爆」というドキュメンタリー映画出演を
きっかけに、積極的にメディアを通じてメッセージを
発するようになり、90歳にして人生初のパスポートを
取得し、国連やコロンビア大学で映画上映とともに講演。
山口彊氏は英語が堪能で、
オックスフォードに留学していた英語の先生と、
マレー半島やアメリカで仕事をしていた叔父の影響で、
学生の頃より英語の勉強に励み、戦前は英語の教員として、
戦後は、アメリカ占領軍の通訳として活躍しました。
山口彊氏自身、英語を話せば世界に通じる、
銃をつきつけるよりも、話せばわかるのだから、
英語を学べばいいじゃないかという思いで、
敵国語とされていた時代にあっても、
英語を通じて「戦争反対」という信念がありました。
また、中学時代、言論統制が厳しくなっていく中で、
弁論部であれば、比較的言論の自由があると感じ、
弁論大会において、将校、全校生徒を前にして、
堂々と次のような「世界平和論」を訴えました。
「いまの世の中は、一方で手でサーベルを握りしめながら、
一方で握手しようとしている。
しかし、そんなことではどだい平和など無理な話だ。
サーベルを捨てないでどうして平和がもたらされるだろうか。
世界が平和になるには、「人類愛」という大局を
見据えた愛が必要だ。それがなければ、平和は来ないだろう。
そうであれば、武器を取ってどうして本当の平和が
得られると思うのか」(同前掲)
なお、「彊」とは、中国の古典「易経」にある
「自彊不息」で「自ら努めて息(や)まず」という意味。
それも、山口彊氏には兄がいましたが、
出生後、まもなく亡くなってしまい、それで親が、
強い子に育ってほしいという思いでつけたとのこと。
また、家族に関しては、その母も、
彼が小学2年時に自殺してしまい、
彼自身、結婚して生まれた長男が、
医薬品が貧窮していたために半年でなくなり、
もう一人の息子も、被爆の影響が遺伝し、
60歳で全身ガンに冒され、山口彊氏に先立ち、
亡くなってしまいます。
「原爆によって、私の体と人生はひどくえぐられたが、
その傷だけが私のすべてを物語るわけではない。
私の人生はその外に広がっている」(同前掲)
この言葉通り、原爆は事実でありながらも、
それを上回る彼自身のたくましい人生がありました。
「黒き雨また降るなからにんげんがしあわせ祈るためのあおぞら」 山口彊
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