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~俺もないけど心配するな~

デュープラー英語学院の代表、hisasueの気ままなブログ

2日(金)と3日(土)の一泊で富山出張に行ってきた。

来年の9月に富山で開催される国際会議の会場下見が主な目的だ。

初日は会議場担当者らと打ち合わせをしながら会場を下見し、2日目の今日(日付が変わったので実際は昨日だが)は実行委員会に出席した。

実行委員会は会議運営の基本方針を決定し、実際の準備作業を行う組織だ。

私は事務局なので、その準備作業のほとんどを補佐する(時には事務局が主導権を持つこともあるが)。

今日の議論で、現在制作しているオンライン論文投稿システムについて新たに「こうしてほしい」という要望が出された。

そういう要望が出るのではないかと予想していた私は、実は制作に取りかかる前(今から約2カ月前)に委員長に確認していた。

委員長は「そうする必要はない」とはっきり言った。だから私はそのまま制作指示を出した。

にもかかわらず、今日の実行委員会での委員らの発言によりあっさりと覆されてしまったのだ。


原則的に大学教授などのボランティアで構成される実行委員会とは異なり、事務局という仕事はあくまでも「プロの会議屋」だ。

事務局にとっては実行委員会はお客様であり、基本的に指示には従わざるを得ない。

事前に委員長に確認したのは、ウェブ業者に何度も修正依頼をしないようにするためであり、ひいては実行委員会に不要なコストをかけさせないためである。

事前に確認した内容が覆された時、顔には出さないようにしたが、心の中では「そりゃねえだろ?」とつぶやいてしまった。

しかし、そこは私もプロだ。
「なんとかコストをかけず、ご要望にお応えします。」と言ってみせた。

実際、なんとかなる自信も目算もあった。なければそんな強気なことは言えない。

事務局という仕事に限らず、リピーター客を獲得するには、「こいつは使えるヤツだ」とお客さんに思わせる必要がある。

その為には、相手が気づく前にこちらの方が先に気づいたり、相手が考える以上にこちらの方が深く、多方向に考えたりすることが重要だ。

相手の方が先に気づいたり、相手の方が考えてしまっては、絶対にこちらのことを「こいつは使えるヤツだ」と思ってもらえない。

私が「客」の立場なら、絶対にそう思わない。

だからこそ私は考える。
私は決して思考スピードが早い方ではないが、じっくり、根気よく、念入りに考える。

そういう努力が、また自分に仕事を運んで来てくれるのだと思う。

そういう信頼と期待を裏切らないように、私はまた考え続けるのだ。

前回のテーマは「考える」についてだった。

何かを身につけたり、何かを理解しようとする際、ただ「覚えよう」とするだけでなく、「考えよう」という意識を持つと良い、ということを書いた。


しかし、「考えれば考えるほど悪い状態になる場合もあるから、あまり考え過ぎるのは良くない」という人もいるだろう。

確かにそうかもしれない。
しかし、そうではないかもしれない。

「考える」と言うと、まず「深さ」に目が行くかもしれないが、もう1つ重要な要素として「方向」が見落とされがちだ。

つまり、どれだけ「深く」考えを掘り下げても、考える「方向」がそもそも悪ければ、考えれば考えるほど悪い状態になるのも当たり前だ。

目の前に問題があって、考えても考えても状態が改善されない時は、「1つの方向」でしか考えていないのではないかと自問すると良い。

問題を解決していくには、1つの方向だけではなく、まずは自分が既に考えている方向とは別の方向を探す必要がある。

真逆の方向とか、ちょっとひねった方向とか、それらの中間の方向とか。

常に一方向だけで思考を深めていくと、その方向と異なる考え方をする人と対峙した時に摩擦が生じたり、衝突したりする。

あるいは、勉強をしていても、例えば文法書を読んでも、なかなか正しい理解に辿り着けなかったりする。


複数の方向で考えるというのは、イメージで言うとこんな感じだ。

自分を中心に円を描くと、360度の思考の「方向」があることに気づく。1度に1つとしても360通りの考え方がある。

更にこれを3次元でイメージし、ある球の中心に自分を置いてみる。すると、360度×360度の数だけ「方向」が見えてくる。

普通は、人が何かを考え始めると、自分が向いている「前方」だけに思考が向きがちだ。しかし普通なら向かない方向にだって考える要素があるはずだ。

「考えれば考えるほど悪い状態になるから、考えるのはやめよう」というよりは、
「自分が自然に考えてしまう方向を敢えて避けて、別の方向を探しながら更に考えてみる」という方が問題は解決しやすいのではないか。


しかし、「自分が自然に考える方向とは別の方向で考える」というのは、本当に思考力が必要だ。

こんなことを書いている私だって、たいていは1つの方向に凝り固まって考えてしまうことの方が多いと思う。

1つの方向に偏らない為には、自分を肯定すると同時に否定したり、あるいは自分を信じると同時に疑ったりすると良い。

要するに、自分の中で「矛盾」を持つことが大事なのだ。

「矛盾」というと悪いイメージがあるかもしれないが、とんでもない。

「矛盾」があるから色々な方向へと考えていけるのだ。

少なくとも2つの真逆の方向に両極を捉えることができれば、そこで少なくとも「バランス」を取ることはできる。

1つの点ではバランスは取れない。
2つ以上の点があればバランスは取れる。

複数の方向からバランスを取るように「考える」を深めていけば、少なくとも「考える」を始める前よりは状態は良くなるのではないかと思う。

ブレーキを踏んでいれば事故に遭う確率は下がるかもしれないが、ブレーキを踏みっぱなしでは決してゴールに辿り着けない。

だからと言ってアクセルばかりでもゴールに辿り着けない。

アクセルを踏んで、さらに「ハンドル」で方向を変えていくからゴールに辿り着けるのだ。

「考える」のがうまい人は、「思考のハンドル」さばきもうまいのだと思う。
 
常々思っていることだが、昔から親や教師が「勉強しなさい」と子供にいうとき、それは「覚えなさい」の意味であることが多い。

人が知的活動を行う際、「覚える」と「考える」の2つに分かれるように思う。

「覚える」というのは、「頭の中に情報を入れ、そして時間をおいてもそれを引き出せる状態にする」ということだ。
これが得意な人は「知識」が豊富だ。

一方「考える」というのは、「既に頭の中に入っている複数の情報同士をつなげ合わせ、新たに自分で答えを生み出したり、理解したりする」ということだ。

「覚える」と「考える」は密接に関係しているのだろう。

「覚える」ために「理解」が必要なこともあるし、
「考える」ために「知識」が必要なこともある。

しかし、どうも今の日本では、「勉強しなさい」というのは「覚えなさい」の意味で使われ、「考えなさい」という意味で使われることが少ないのではないか。

その結果、「勉強する=覚える」と教え込まれた子供がそのまま成長し、「教えられていないことは分からない」ということを平気でいう大人になってしまうこともある。

人生、生きていれば「教えてくれる人がいない」「誰にも答えを与えてもらえない」という状況でも、自分で答えを出さなくてはならないことがある。
教えてくれる人がいたり、答えを与えてくれる人がいたとしても、果たして、それが正解かどうかはわからない。

私の教室には、文法書を読んで、ついさっき読んだはずのことと、今読んでいることが「つながらない」という生徒が割と多い。
こういう人は、「考えよう」ではなく、「覚えよう」という意識で説明を読んでいる。

「覚えよう」ではなく、「考えよう」として読んでいけばさほど苦労せずに答えにたどり着けるはずなのに、「覚えよう」というスタイルのままで苦しんでいる生徒も多い。

特に、学生時代に真面目に勉強してきた(つまりは「覚える」をたくさんしてきた)人に限って、「考える」ということが苦手な傾向があるようだ。

人は「意識をもって繰り返す」を行えば、よほど実現不可能なことでない限り、必ずできるようになる。

「覚える」ということを意識して繰り返してきた人は「覚える」のが得意になる。
ということは、「考える」ということを意識して繰り返せば、「考える」のだって得意になるはずだ。

しかし「覚える」ができる人とっては「考える」ということは「面倒くさい」「辛い」などという理由で敬遠したくなるものだろう。
答えがそこにあるならば、答えに辿り着く過程を「考える」よりも、そのまま答えを「覚える」方が楽だからだ。

ところが、「考える」を練習してこなかった人は、いざ「答えを自分で出しなさい」となった時に困ってしまう。
あるいは、なかなか「理解」できずに苦しんでしまう。

「考える」ができれば、今まで「覚える」だけではできなかったことができるようになるかもしれない。
それは「自分で答えを出す」だったり「理解する」だったりする。

他人の気持ちをくんであげたり、お客様のニーズに応えるようなサービスを提供したり、効率の良い仕事のやり方を見つけたりするのは、全て「考える力」によるものだ。「覚える」だけを武器にしている人は、こういうところでも苦労しがちだ。

「覚える」だけで通用するのは大学受験まで。
社会に出てから、あらゆる人間関係を円滑にしたり、自分の幸福を探し求めたりするのには、自分の頭で「考える」ということが必要不可欠だ。

「考える」ということを繰り返すには、「考える」ための環境が必要だ。
「考えなくても良い」という環境、つまり平和で満たされた環境にいれば、人は考えなくなる。

「考える」のが必要な環境とは「問われる環境」だ。
問うのは人間でも良いし、環境そのものでも良い。

人を「考える」ようにさせたければ、「問いかける」ことも大事だし、また「平和ではなく、満たされていない環境」を作ってあげることも大事だ。
親や教師には、目の前の子供や生徒に「考える」という練習をさせられているかどうかを「考える」ことが必要なのだろう。