常々思っていることだが、昔から親や教師が「勉強しなさい」と子供にいうとき、それは「覚えなさい」の意味であることが多い。
人が知的活動を行う際、「覚える」と「考える」の2つに分かれるように思う。
「覚える」というのは、「頭の中に情報を入れ、そして時間をおいてもそれを引き出せる状態にする」ということだ。
これが得意な人は「知識」が豊富だ。
一方「考える」というのは、「既に頭の中に入っている複数の情報同士をつなげ合わせ、新たに自分で答えを生み出したり、理解したりする」ということだ。
「覚える」と「考える」は密接に関係しているのだろう。
「覚える」ために「理解」が必要なこともあるし、
「考える」ために「知識」が必要なこともある。
しかし、どうも今の日本では、「勉強しなさい」というのは「覚えなさい」の意味で使われ、「考えなさい」という意味で使われることが少ないのではないか。
その結果、「勉強する=覚える」と教え込まれた子供がそのまま成長し、「教えられていないことは分からない」ということを平気でいう大人になってしまうこともある。
人生、生きていれば「教えてくれる人がいない」「誰にも答えを与えてもらえない」という状況でも、自分で答えを出さなくてはならないことがある。
教えてくれる人がいたり、答えを与えてくれる人がいたとしても、果たして、それが正解かどうかはわからない。
私の教室には、文法書を読んで、ついさっき読んだはずのことと、今読んでいることが「つながらない」という生徒が割と多い。
こういう人は、「考えよう」ではなく、「覚えよう」という意識で説明を読んでいる。
「覚えよう」ではなく、「考えよう」として読んでいけばさほど苦労せずに答えにたどり着けるはずなのに、「覚えよう」というスタイルのままで苦しんでいる生徒も多い。
特に、学生時代に真面目に勉強してきた(つまりは「覚える」をたくさんしてきた)人に限って、「考える」ということが苦手な傾向があるようだ。
人は「意識をもって繰り返す」を行えば、よほど実現不可能なことでない限り、必ずできるようになる。
「覚える」ということを意識して繰り返してきた人は「覚える」のが得意になる。
ということは、「考える」ということを意識して繰り返せば、「考える」のだって得意になるはずだ。
しかし「覚える」ができる人とっては「考える」ということは「面倒くさい」「辛い」などという理由で敬遠したくなるものだろう。
答えがそこにあるならば、答えに辿り着く過程を「考える」よりも、そのまま答えを「覚える」方が楽だからだ。
ところが、「考える」を練習してこなかった人は、いざ「答えを自分で出しなさい」となった時に困ってしまう。
あるいは、なかなか「理解」できずに苦しんでしまう。
「考える」ができれば、今まで「覚える」だけではできなかったことができるようになるかもしれない。
それは「自分で答えを出す」だったり「理解する」だったりする。
他人の気持ちをくんであげたり、お客様のニーズに応えるようなサービスを提供したり、効率の良い仕事のやり方を見つけたりするのは、全て「考える力」によるものだ。「覚える」だけを武器にしている人は、こういうところでも苦労しがちだ。
「覚える」だけで通用するのは大学受験まで。
社会に出てから、あらゆる人間関係を円滑にしたり、自分の幸福を探し求めたりするのには、自分の頭で「考える」ということが必要不可欠だ。
「考える」ということを繰り返すには、「考える」ための環境が必要だ。
「考えなくても良い」という環境、つまり平和で満たされた環境にいれば、人は考えなくなる。
「考える」のが必要な環境とは「問われる環境」だ。
問うのは人間でも良いし、環境そのものでも良い。
人を「考える」ようにさせたければ、「問いかける」ことも大事だし、また「平和ではなく、満たされていない環境」を作ってあげることも大事だ。
親や教師には、目の前の子供や生徒に「考える」という練習をさせられているかどうかを「考える」ことが必要なのだろう。