~俺もないけど心配するな~ -25ページ目

~俺もないけど心配するな~

デュープラー英語学院の代表、hisasueの気ままなブログ

昨夜、久しぶりに流れ星を見た。

去年の夏に運転代行をやめてから、やっぱりというか、当然というか、夜な夜な愛車デミオで当てもなく走り回るという「癖」が復活してしまった。

昨日は国道6号を柏方面に北上し、その勢いで手賀沼を大回りで一周してきた。

流れ星を見たのは、ちょうど手賀沼の道の駅のところの船取線を横切ろうとした時だった。

暗い夜空の中、進行方向のほぼ正面、やや上から真下へ、白い光の線が「ス~ッ」と流れた。

思わず「お~っ!」と声を上げてしまった。



最近の私は、宇宙に思いを馳せることがよくある。

最初の生命はどうやって生まれたのか?

広い宇宙には、他にも生命はいるのか?

宇宙には「外側」はあるのだろうか?

あるとすれば、そこはどうなっているんだろう?

そんなことを考えてしまう。


この宇宙には、いくつもの「銀河」があって、我々がいるのはその中の1つ、「天の川銀河」だ。

ちなみにお隣は「アンドロメダ銀河」である。

「天の川銀河」の中のほんの僅かな空間に我々の住む「太陽系」がある。


宇宙が、例えばバスケットボールくらいのガラスの球体だとして、それが目の前にあって、そのガラスの中に宇宙空間が広がっているとしよう。

多分、太陽系は小さすぎて肉眼では見えないだろう。

そんなちっぽけな太陽系の第三惑星「地球」の上に、さらに「大陸」がいくつかあるのも見えないだろうし、さらにその内の1つの「ユーラシア大陸」の東の端っこに「日本」という国があるのも、当然見えないだろう。

広い宇宙から見れば、我々の住んでいる場所はこんなにも小さい。

しかし、この小さな国にも、「1億2千万」人もの人間が住んでいる。

地球という星全体では、人間だけでも「69億」人近くいる。

そして、その1人1人の人生に、それぞれの「ドラマ」があるのだから驚きだ。


さらに言えば、1人1人の人間の身体には、「約60兆」個の細胞があって、それらが懸命に生きようとしている。

人間本体が生きることを望もうと望むまいと、1つ1つの細胞は確実に生きようとしている。

1つの細胞には「核」があり、その中には「23」対の「染色体」がある。

染色体を紐解いていくと、「A」「G」「T」「C」の4種類の塩基が2つで1組となるつながりが「30億組」あり、これが「DNA」を構成している。

それがタンパク質を作る設計図となり、命を子へ子へと繋いでいる。

そういう設計図となる30億組の塩基のつながりが、1人1人の人間の身体の60兆個の細胞全てに含まれているのだ。

もう、訳がわからん。


宇宙を外から見ているとしたら、想像もつかないくらい小さな世界だ。

しかし、そういうミクロな世界が自分の身体の中で展開しているのも事実だ。

宇宙からDNAまで、この驚異の世界は自然にできたのだろうか?

あるいは何者かが、何かしらの意志を持って作ったのだろうか?

どちらにしても、不思議だ。


流れ星を見ると、そういう奇跡のような世界に自分がいることを思い出す。

自分は生きているんだな、ということを思い出すのだ。



最近あちこちで「3D」という言葉を見かける。

映画でもやたら「3D化」が流行っているし、それに対応したテレビまで色々出てきた。

私が最後に「3D」の映画をみたのは、もう30年近く前だろうか。

あれは東京ディズニーランドの「キャプテンEO」だった。

3Dメガネも、左右の色が異なる仕様で、確か、青と赤だったかな?

映像が飛び出て見えたのに驚きながらも、見終わったあとの疲労感というか、めまいというか、マイナスの印象は拭えず、とにかく「また見たい」という気にはならなかった。

以来、たまに3D写真とか3D画像とかを見る機会があっても、やっぱり「目が疲れる」という結果だけは同じだった。

見た後の疲労感がこれだけあるのに、そこまでして「3D」を見るメリットはあるだろうか?

常々そう思っていた私は、去年からの3Dブームを冷ややかな目で見ている。

そのうち、「メガネ不要で3Dに対応」などというテレビも出てきたが、見ている人間の目に少しでも負担を感じさせているうちは、決して広まりはしないだろう。

先日も某家電量販店の携帯コーナーで、3D対応ケータイを見てきた。

確かにメガネ無しでも3D動画が見えたが、予想通りの目の疲れに嫌気がした。

ケータイもテレビも映画も、3D対応商品にはまだまだ技術的な課題が多い。

これは先が長いな。



…と思っていたが、そんな私のマイナスイメージを覆すような商品がついに出た!

それは、「ニンテンドー3DS」だ。

まだ発売はされていないようだが、つい先日、デモ機に触れる機会があった。

いつものように「3D」に対する期待感など微塵も持たない私は、話の種になると思ってニンテンドー3DSデモ機の列に並んだ。

私の番が来て、手に取ってみると、画面の中にイヌとネコがいて歩き回っていた。

好きな方をタッチペンで選べというので、ネコ好きな私は当然のようにネコにタッチした。

すると、そのネコが、私の呼びかけに反応し、こちらへやったきた。

次の瞬間、ネコが画面のこちらに向かって、画面から飛び出したきたのだ。

私は、飛び出したことに驚いたというよりも、その映像の「自然さ」に驚いた。

というのも、目が全然疲れないのだ。

普通、3D映像を見る時は、メガネがあろうとなかろうと、自分の目でどこかに視覚のピントを変化させて「3Dに見えるポイント」を探さなければならない。

普通はこれがなかなか見つけにくいのだ。

大抵の3D映像は、実際の画面の距離感とは違う距離感でピントを合わせる必要がある。

実際の画面スクリーンより、少し遠めだったり、あるいは少し近めだったり。

だから、常に不自然なピントで画面を見続けなくてはならない。

これが見終わった後の疲労感になっているのだろう。

ところが、ニンテンドー3DSは、実際の画面のスクリーン辺りに視覚のピントを合わせたままで、画面自体が3Dに見えるのだ。

だから画面の外に一旦視線をずらしてもピントがずれていないから普通にモノが見え、また画面に目を戻しても、そのまま3D映像が見えてくる。

何より、デモ機を見終えた後には、全くと言っていいほど疲労感はなかった。すげー!

さすがは任天堂だ。

このようなことができたのは、多分、ニンテンドーDSのように一人だけで画面に向かうような機械だったからだろう。

自然な3D映像を見るには、やっぱり画面と目の間に適切な距離と角度が必要だ。

だから複数の人間が同時にあちこちから見るテレビとか映画館とかでは難しいと思う。


しかし、長年私の中にあった「3Dは人間生活の中に浸透することはない」という定説を打ち破るだけのインパクトはあった。

これからの技術開発に期待が持てそうだ。(まだまだ先だろうけど…)



<前回の続き>

前回、自分をコントロールするには「理性」と「忍耐力」をもって「ブレーキを踏む」ことが重要だと書いた。

ここまでで、自分をコントロールするには「力を入れる」と「力を抜く」と「ブレーキを踏む」の3つを挙げたことになる。

ところが、これで自分をうまくコントロールができるかといえば、そうはいかない。

もう1つ、決定的なことが抜けている。

それは「方向を変える」ということだ。

つまり、車で言うところの「ハンドル」がこれに相当する。

どんなに車の運転が上手でも、「アクセル」と「ブレーキ」だけでは目的地に辿り着くことはできない。

方向を切り替えることのできる「ハンドル」がついているからこそ、自由自在に移動し、目的地に到達することができるのだ。


今の世の中、誰しも問題を抱えていることだろうと思う。

ところが自分が抱える問題について、考えても考えても、うまい解決策が出てこないことがある。

それどころか、考えれば考えるほど、悪い方向に思考が向かってしまう、ということは誰にでも経験があるのではなかろうか。

そんな時、周りの人はこう忠告する。

「あんまり考えすぎてはいけないよ。」

そう言われると確かに自分でも考えすぎだと思って、自分で「力を抜く」や「ブレーキを踏む」などして、「考えること自体」をやめようと試みる。

ところが、時間が経って、また同じことについて考えを再開すると、やっぱり同じような結論になってしまい、堂々巡りになってしまう。


こういうときは、「考えすぎるから解決策が見えてこないんだ」と結論づけるべきではない。

「考える方向が1つに偏っているから解決策が見えてこないんだ」と意識すべきだ。

人は誰でも自分なりの「価値観」を持っていて、その価値観に従って物事を考えたり、判断したり、行動したりする。

ところが、自分の「価値観」というものはそうそう変わらない。

1つに固定された価値観を基準に物事を考えていっても、結局は同じ答えしか見つからない。

そこで「方向」を変えてみる。

「方向を変える」ということは、自分の価値観とは違う方向で物事を見てみるということだ。

これは言うは易く、行うは難し、である。

考え方の方向を変えると言っても、どうすれば良いのだ?

一番シンプルなのは、「真逆」を想像してみることだろう。


例えば、仕事がたくさんあって、なかなか終わらなくて困っていたとしよう。

終わらないから、仕方なく残業をする。

最初は1時間の残業だったのが、それでも仕事が終わらなくなってくる。

だから、次第に、2時間、3時間というように残業時間が増えていく。

これは、仕事が終わらないから、残業時間を増やしていく、という考え方だ。

しかし、一時的な繁忙期ならこれで乗り切れるかもしれないが、慢性的にこの状態では、大抵これでは問題は解決しない。

むしろ、長時間労働で身体をこわすなど、余計に問題を悪化させてしまうことだってある。


そこで、「考え方の方向」を「真逆」にしてみる。

つまり、「仕事が終わらないから残業しよう」ではなく、

「仕事が終わらないから、早く帰ろう」という考え方だ。

仕事が終わらないのに早く帰ろうとは何事だ!と叱られてしまいそうだが、これは、まずは「早く帰って休む」ことを目標にすべきという意味だ。

「定時に仕事を終えて帰る」を実践するためには、業務時間中の時間の使い方を見直さなくてはならないだろう。

もしかしたら、自分がやらなくても良い仕事までやってしまっているのかもしれない。

あるいは、本当は時間をかけなくてはならない仕事にあまり時間を割いていないことが、仕事全体の効率を下げているのかもしれない。

忙しい時こそ、早めに帰ることを意識すべきだが、「早く帰ろう」という考え方がそもそも選択肢の中になければ、絶対に早く帰る日はやって来ない。


このように、自分が当たり前だと思っている「仕事が終わらない→残業すべき」という図式を、自分の「価値観」に逆らって「真逆」にしてみると意外に問題が解決したりする。

もちろん、自分の「価値観」に逆らって「真逆」に考えるということは簡単なことではない。

しかし、真逆とまでいかなくても、自分の考え方が一方向だけに偏っていないかを見つめなおすだけで、それまで決して思いつかなかった発想を見つけることはある。


自分をコントロールするには、「アクセル」と「ブレーキ」だけでなく、「ハンドル」を駆使して縦横無尽に自分の思考を走らせてやると良い。