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刑事弁護人の憂鬱

日々負われる弁護士業務の備忘録、独自の見解、裁判外の弁護活動の実情、つぶやきエトセトラ


犯罪各論の基礎「生命の保護・自己決定権と刑法202条の趣旨」その2(完)

 そうだとすると、同意殺人も自殺関与も、普通の殺人罪、その教唆・幇助と同じ法定刑で処罰するのが、生命の保護の徹底からして、自然である。しかしながら、
202条は、普通殺人に比較して、法定刑は軽く、普通殺人罪の減軽類型として規定されている。学説は、普通殺人罪に比べて、違法性が減少していることを減軽根拠とするが、違法減少の根拠を自己決定権に求めるならば、生命放棄に関する自己決定権を否定したことと矛盾しよう普通殺人罪も202条も保護法益は生命である(ただし、一種の社会的法益と理解する少数説もあるが[林幹人・刑法各論初版21頁以下参照]、この説からは自己決定権は、全く202条の解釈に影響しないことになろう。)。

仮に202条が自己決定権の分だけ違法減少しているというならば、普通殺人罪の保護法益は、生命プラス自己決定権となってしまう。しかし、法益概念は、その利益の享受のほか、その処分、放棄の自由を含んでいるとすると(山中など)、生命という法益と生命放棄の自己決定権は、区別するものではないことになる。とすれば、生命マイナス自己決定権という図式での違法減少は認められないことになる。これを「法益性の減少」とみるならば(西田典之・刑法各論第6版15頁など)、意思に反する生命侵害と意思に反しない生命侵害における生命の価値の優劣を認めることになる(生命対生命の違法阻却としての緊急避難や安楽死の違法性阻却を否定する見解(例えば、内藤、井田など)からは、よりどころである「生命保護の絶対性」の価値と矛盾することになる)。

 

3 ではどう考えるべきか?

202条の行為規範は、被害者の意思に合致する他人による生命侵害行為ないし間接的生命侵害行為を禁止することは明白である。しかし、行為規範に違反し、結果が惹起された場合(202条が成立し、行為規範を裏付ける制裁規範が前面にでて発現する=刑罰権が発動する場合)は、皮肉なことに被害者の自己決定がある意味実現されたことを意味する。すなわち、202条は、一方で生命保護の絶対性を示しつつ、他方で、同意殺人・自殺関与が心中、同情に値する病気・責任感・名誉・いじめ等(「世をはかなんで」)から行われること(199条の普通殺人とは同視しにくい事情)、202条の被害者は、実質的には加害者(の一人)でもあるので、普通殺人よりも刑を減軽すると解される

換言すると、202条が199条よりも刑を減軽している趣旨は、法的(規範的)評価として、被害者は、生命侵害結果の惹起という不法の帰属を一部分担していると評価できることから(ただし、属人的に可罰的違法性が阻却される)、行為者に対する生命侵害の結果の不法帰属は100%のものではないという意味で違法減少を認めることにあると解すべきである被害者の自己決定権は、このような変容された形で(100%ではなく)、部分的に尊重されているというべきであろう。※

 

※疑似共犯・疑似正犯的な帰属の配分

 同意殺人罪においては、被害者は、教唆(嘱託)ないし承諾(幇助)的行為を行い(間接的結果惹起)、自殺関与罪では、疑似ないし事実上の正犯として自殺行為を行う(直接的結果惹起)。つまり、被害者は、被害者自身に対して直接的又は間接的な「加害者」であり、不法な結果を惹起している。行為者もまた直接的又は間接的に結果を惹起しており、疑似正犯・共犯関係ともいうべき実体がある。被害者にも帰責性があり、行為者に対して全面的な不法結果を追わすのは不公平と感じられる(罪刑の均衡を失する)場合は、帰属の配分に応じた減軽を行うことにも合理性がある。もっとも、被害者には自己責任として、何%負わすのが相当か=どの程度、行為者を減軽するのが相当かを数学的に表現することは困難で有り、被害者の類型的な事情を踏まえた上で、政策的に減軽を決定せざるを得ない。刑法の平成16年改正前は、普通殺人罪の有期懲役刑は、3年以上15年以下であったが、改正後5年以上20年以下となったが、202条は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮のままで、法定刑の変更はなかったため、普通殺人罪の法定刑と比較すると、より一層、減軽していることになる。普通殺人罪も202条も生命を保護法益とするならば、普通殺人罪の刑が重くなれば、比例して、202条も重くすべきと立法者は考えなかったのである。これは、政策的に202条は、重罰化する必要性がないと判断したものと思われる。

犯罪各論の基礎「生命の保護・自己決定権と刑法202条の趣旨」

 

刑法第202条(自殺関与及び同意殺人)

「人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。」

 

1 刑法は、殺人罪、傷害罪等を処罰することにより、人の生命・身体の保護を図る。ただし、殺人罪においては、被害者の同意がある場合、同意殺人罪、自殺に対する教唆・幇助を殺人罪よりも軽く処罰している(202条)。

傷害罪においては、被害者の同意がある場合の202条のような特別規定はなく(ただし、不同意堕胎罪、同意堕胎罪、自己堕胎罪の対比から、同意堕胎罪は、母体に対する同意傷害を不同意堕胎罪よりも軽く、自己堕胎罪よりも重く処罰しており、このことからすると、同意傷害は、可罰的とするのが刑法の趣旨とも解しうる。)、解釈に委ねられているが、近時の有力説・多数説は、被害者の同意を自己決定権の行使と把握し、原則、傷害罪は処罰されないが、202条が生命に対する自己決定権をパターナリズムの見地から制限することとの均衡から、生命に対する危険がある傷害、または、回復困難な重大な傷害(手足の切断、回復困難な昏睡状態をもたらす脳障害など)については、例外的に傷害罪が成立すると解している。

ただし、202条との均衡から、法定刑の上限は202条の7年を超えるべきでないとする(斎藤、井田、山中、佐伯等。)※

 

※社会倫理・道徳と同意傷害の可罰性

判例のように違法な目的などを考慮する総合判断説ないし社会的相当性説から被害者の同意の有効性を考える見解は(団藤、大塚、福田など)、今日では少数説となっている。やくざの指つめやSM行為、入れ墨行為について、反社会的・反道徳的と判断すると、総合判断説や社会的相当説からは、違法性阻却は否定する方向になりやすい。最近、入れ墨行為を医師法違反で処罰する実務に対して、入れ墨の文化、ファッションとしての自由の点から、裁判で争うケースがでているようである。仮に傷害罪でなく、医師法違反という罪名だけで起訴されているのならば、検察実務は、入れ墨行為を同意傷害としては不可罰と考えている節もある。なお、ドイツ刑法228条は、同意傷害について、「行為が善良な風俗に反する」場合は違法として処罰し、被害者の同意による傷害行為について倫理的・道徳的制限を設けている。日本の判例や総合判断説等は、このような制限を違法阻却の解釈論として援用しているのかもしれない(日本刑法には明文がないにもかかわらず)。

 

ドイツ刑法第228条 

「被害者の承諾を得て傷害を行った者は、承諾にもかかわらず、行為が善良の風俗に反するときにのみ、違法に行為を行った者とする。」

 

202条から自己決定権の限界を図る、かかる生命危険・重大な傷害説は、一定の説得力をもつが、問題はそのよりどころである202条と自己決定権の関係、つまり、生命の保護と自己決定権の関係が明瞭でない点がある。

以下、具体的に指摘したい。

 

2 刑法202条は、同意殺人と自殺関与罪を同一の条文で、6月以上7年以下の懲役又は禁錮と殺人罪よりも軽く処罰している。前者に関しては、生命放棄の自己決定権を刑法はパターナリズムから認めていないこと、後者に関しては、生命放棄の一態様である自殺を間接的に防止することである。つまり、殺人罪の「人」は他人を意味し、自己は含まれないので、自殺行為自体は、構成要件に該当しない行為である。自殺行為を直接処罰して禁止しても、自殺が既遂にいたれば、処罰は無意味であり、未遂で終わっても、自殺意思を放棄しない限りは、禁止規範による直接の自殺行為防止は実効性が乏しい。そのため、共犯的関与の処罰という間接的な禁止により、自殺を防止しようというのが、自殺関与罪の趣旨であろう。自殺行為自体は、自殺行為者自身にとっては、積極的に適法とはいいにくい属人的な意味で可罰的違法性がないものであるが(可罰的違法性阻却説・自殺者本人対する行為規範・制裁規範を設定することの無意味性)、自殺行為の間接的防止のため、他人が生命放棄に間接的に干渉する行為について可罰的違法性を認めたものと解される(属人的な違法の相対性)。

このように同意殺人であれ、自殺関与罪であれ、いずれにせよ、被害者の意思に反しても生命の保護を徹底するものである生命は、自己決定の主体である人格の存在の基盤・前提であり、生命の放棄は、自己決定権の存在基盤を破壊するものであって(一種の内在的制約)、早まった決断として、国家が後見的に干渉するものである。すなわち、生命の放棄に関する自己決定権は原則として認められない(近時の多数説)。※これは、生命放棄の自由、自殺の自由を原則として認めないことを意味する(生命保護の絶対性)。

 

※安楽死・尊厳死と202

いわゆる安楽死・尊厳死の問題は、例外的に生命放棄に関する自己決定権を肯定できるか=違法性阻却を認めうるかが問題となる。下級審(緊急避難の法理と自己決定権の法理から安楽死の違法性阻却を構成するのは横浜地裁平成7・3・28。但し、事案解決としては違法阻却を否定)・多数説は、極めて例外的にせよ安楽死等の違法性阻却の余地を認めるが、逆に生命の保護の絶対性から、違法性阻却を否定し責任阻却の余地のみ認める見解もある(内藤、山中、井田など)。なお、これに関連して、202条を被害者の不自由な(瑕疵のある)意思決定の場合に限定し、真に自由な(瑕疵のない)意思決定があった場合は、むしろ自己決定権が完全に実現したものとして安楽死・尊厳死を不可罰とする少数説もある(町野朔・犯罪各論の現在20頁、34頁参照)。安楽死・尊厳死の問題は、介護殺人、延命治療、終末医療等の今日的問題が絡み、即断はしにくいが、法理論として、「生命保護の絶対性」を貫くよりは、違法性阻却の例外的余地を残しておくことが、実務的バランス感覚があると思われるし、究極的な「死に方の選択の自由」について、刑法解釈という狭い次元だけで決定するより、哲学、憲法論、個人、社会的利益等を踏まえた全法秩序における開かれた多元的な考察方法をとることが望ましいとすれば、違法性阻却の論理を「封じる」ことは、刑法解釈学の独善でしかないであろう。むろん、ナチス的な優生思想に基づく生命のランク付けのように生命保護の低下、「価値のない生命」をもたらすことは、絶対にさけなければならないが、これこそ生命倫理の問題で有り、開かれた論議を必要とする領域である。

 

 

どうでもいいテーマ「ガソリンカーはどうして『汽車』に当たるのか」

 

デスクワークと出張が重なり、電車では爆睡状態なここ数日。難しいテーマはなかなか書く時間がありません。少しずつ書きためて、不定期連載が限界ですね。「共謀と実行」は結論だけは完成しているのですが、後半の判例、文献が消化し切れておらず、未完のままです。「窃盗の可罰性と刑事政策的意義」も最近の文献を読み始めたら収拾がつかなくなりそうなので、理論編はこの程度で後半の刑事政策編のほうがさくさく書けそうな気がしますが、完成は6月ですね。毎日ブログを更新できる人のタフさがうらやましいです。

 ところで、罪刑法定主義の拡張解釈か類推解釈かの具体例として、過失往来妨害罪(刑法129条)の客体の「汽車」にガソリンカーが当たるという戦前の判例(大判昭和15・8・22)がよくあげられます(団藤重光・刑法綱要各論第三版233頁など)
 学生時代、「汽車」って蒸気機関車の意味で「電車」と区別されているから、拡張解釈でなくて類推解釈じゃないかと思っていました。団藤先生によれば、「けだし、汽車・電車とガソリン・カーとちがうのは動力の点だけで、動力の差異は129条の適用になんら重要性をもたないからである。これに反して、バスになると、軌道の上を運転するではないから、もはや129条の予想するところではない」といっています(団藤重光・刑法綱要総論第三版59頁)。軌道上走る列車であることは、汽車、電車もガソリンカーも動力が違うだけで同じだという論法なんですが、これって、当該概念と対象となっている物体の性質の類似性を根拠に法律上同じに扱うという類推解釈っぽいんですよね。判例や団藤説は罪刑法定主義に反する類推解釈なのかの疑問です。


 ところが、ウィキペディアによると「気動車」という概念があり、「人員・荷物もしくは貨物を積載する空間を有し、運転に必要な動力源として内燃機関や蒸気機関などの熱機関を搭載して自走する鉄道車両である」と定義付けされ、とうぜん蒸気機関車、ディーゼルカー、ガソリンカーも含むということで、しかも、「汽車」とも呼ばれていたようなのです。これらは、内燃機関が蒸気機関かディーゼルエンジンか、ガソリンエンジンかの違いでしかないようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E5%8B%95%E8%BB%8A
 ガソリンカーは、大正時代から戦後の1950年ごろまで活躍していたようで、上記判例の時代は結構メジャーなものであったんですね。また、「汽車」は列車のことや、国鉄も意味していたようで、「蒸気機関車」の意味に限定していなかったようです。
 そうすると、「汽車」=気動車であれば、ガソリンカーは「汽車」にあたるとの解釈は、言葉の意味の可能な範囲、つまり罪刑法定主義に反しない許された「拡張解釈」ということがいえるのでしょう。団藤説は言葉足らずだったということでしょうか。
 でも、これって、教科書にちゃんと説明してくれていないと何で拡張解釈なのかわかりませんよね。真正な鉄道マニアの方のチェックが必要なのかも…