読み歩き、食べ歩き、ひとり歩き(1080) 「君たちはどう生きるか」をどう食べるか | DrOgriのブログ

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おやじが暇にまかせて勝手なことを書くブログです。日々の雑記や感想にすぎません。ちらっとでものぞいてくだされば幸せです。

この夏、宮崎駿の監督作品『君たちはどう生きるか』を見ました。
 

 


『現代思想』という高度な哲学系月刊誌でも特集号が組まれています。アニメや映画の評論家だけでなく、建築家から文学史研究者、人類学者まで驚くくらい多くの評者がそれぞれ独自の感想だか評論だかを載せています。宮崎駿のアニメでこれほど論議を呼んだものはこれまであったでしょうか。興業的な成功や人気とは別の次元で話題になっているようです。
 

 

 


これまでの宮崎作品を含むジブリ作品は、私のような単純な者には、よくも悪しくも「分かりやすさ」が魅力でした。私にとっての「分かりやすさ」は、「テーマ」の見やすさです。もちろん、「見やすさ」というのは、宮崎氏の本意の理解しやすさでは必ずしもありません。むしろ、テーマなぞは受け手が勝手に読み込むものです。「見やすさ」とは読み込みやすさのことです。

その意味では、「分かりにくい」などと嘆く必要はないのかもしれません。勝手に読みこんで「分かった」ふりをすればいいのですから。


主人公の眞人(まひと)は常に真っ直ぐな眼差しで行動します。多くの人がこの映画を所謂「ビルドゥングスロマン」として見ているのも、この眞人の表情から理解できます。宮崎作品の多くは異世界との往還物語(行って帰る系)なのですが、この作品も同様です。

それにしても『現代思想』の執筆陣は多彩です。その話題は、他の宮崎作品との比較は当然として、他のファンタジーとの比較、建築(塔、屋敷)、彫刻、天体、鳥(アオサギ、ペリカン、インコ)の象徴分析、眞人少年の性的な深層まで、実に多様です。そんな中でも、私にとって最も分かりやすかったのは、森下達(ひろし)先生(創価大学文学部)の評「少年は何と戦い、どこに行くのか」(194-200頁)です。

森下評から伺える論点は、戦前から戦後にかけて少年が登場する物語が「如何に戦って勝利するか」というテーマに沿ったものだったものの、その後「戦えなくなった」少年をめぐって現代のファンタジーがどこに向かっているのかといったあたりだろうと思われます。少女ものには、少年向けとは対照的な、日常や身近な存在への「ケア」をテーマにしたものが多いことを指摘しています。これもまた、宮崎作品の文化的背景になっているとのことです。

こうしたいささか図式的な「少年=戦士」「少女=ケアラー」という構造は、近年になって変化し始めます。個人的な動機なき戦い(国のため、巻き込まれなど)から個人の動機の登場、その動機における少女の存在といった動きです。少年が「戦う」理由に少女(美少女)が大きな位置を占めるようになります。「あしたのジョー」の白木葉子がその嚆矢だとのことです(ここまでは、ササキバラ・ゴウさんの『<美少女>の現代史』からの引用が主です)。その後、「戦わない」少年が登場してきます。「エヴァンゲリオン」の碇シンジ君ですが、女子たちがアグレッシブなのと対照的ですね。戦うにしても、舞台が視聴者の日常から遠い超未来などになります(「ガンダム」シリーズとか)。また、少女は戦いの「調停」にも関わります。ナウシカ(映画版)がまさにそれです。少女の役割が強化されていきます。

森下先生は、こうした少年・少女の役割変化が起こるあたりの境目に今回の宮崎アニメが戻ろうとしているのではと見ているようです。


外形的には、確かに少年が異世界に行って成長して帰ってくる=戦いの勝利=凱旋という物語ですが、ただそこに二人の母が絡みます。死んだはずの実の母親(塔の異世界では「ヒミ」という少女)とその妹であり父親の再婚相手の新しい母(夏子)の二人です。前者はかつて異世界に行って戻ってきた「経験者」です。異世界で眞人と再会しますが、眞人は気づいているのかな?現実世界には眞人と夏子とは違う扉(窓だったかな)から戻っていきます。病院の火事で死ぬ運命を知ってか知らずか。後者は宮崎アニメでは珍しくセクシーでエロチックな「母」です。宮崎(ジブリ)アニメでもセクシーな女性は出てきますが(「紅の豚」のジーナとか)、「母」という役回りを負わせる例はなかったのでは?(この辺りは、社会学者・橋迫瑞穂さんの「「母」なる世界からの帰還、そしてそれから」が詳しいです。)塔内の異世界では大伯父の依頼を拒絶してその世界の崩壊を導くという「父殺し」も起ります。なにやら古典的な「オイディプス」イメージを取り出してしまったようで少し気恥ずかしいですが、そう考えると自分はスッキリするのです。


ただ、この作品は全体のストーリーよりも断片的なシーンの方が強く記憶に残っています。特に全身が何かに塗(まみ)れるシーンは最も印象的でした。眞人は冒頭で炎にかこまれ、池では蛙たちに覆われ、夏子の産屋では大量の白い札に阻まれます。ラストでは夏子と一緒にインコの糞に塗れます。眞人は何かに塗れているときも、眼差しはぶれません。インコの糞さえも元の世界に戻った祝福のライスシャワーかのようです。宮崎作品によくある飛行シーンはそれほどなく、ドロっとした食物や物体もそれほど印象に残りませんでした。

先に、「テーマ」の取り出しやすさなどと知ったふうなことを書いたのですが、そもそも宮崎氏自身、「テーマ」というものに懐疑的だとのことです(山内朋樹さんの「断片的映像への偏愛」)。異世界との往還というのも実は評者の思い込みで、すべては白日夢、すべてが異世界なのかもしれません。そもそも人物がそうしなければならない理由はほとんど不明なままです。婆やのキリコと異世界の若いキリコがどうして同一人物だと眞人はわかったのか、ヒミが母親だと知っていたのか。夢の中では様々なことが根拠なく「自明」に思えて場面が移っていきます。「ああ、これは私の見ている夢なんだ」と客席で頷いていました。

森下先生のおっしゃる通り、塔の外の屋敷も十分に奇妙です(頭の異様に大きなバアやたちとか)。「現実」はそれらのはるか外側にある戦争なのでしょう。眞人は二重の異世界を経て、エロティックな母や磊落な父とともに、これからどこにいくのでしょう。

所詮、私たちはすべて、荘周の胡蝶なのかもしれませんね。美味しい夢で、バクになった気分です。



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