読み歩き、食べ歩き、一人歩き(1024) 詩も音楽も、理想は自然に還ること、でも・・・ | DrOgriのブログ

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おやじが暇にまかせて勝手なことを書くブログです。日々の雑記や感想にすぎません。ちらっとでものぞいてくだされば幸せです。

ドイツの近代文学には、自然叙情詩(Naturlykik)という分野があるようです。

日本や東洋の感覚とは異なるかもしれません。

 

 

 

 

違うなら違うで、どう違うのか。

私が日本人や東洋人の「代表」でもないので、偉そうに論じることなどできはしません。

(それにしても、文学や哲学を論じる人は、どうしてしばしば「代表者」顔をするのでしょうか?)

この昭和生まれの日本籍のおやじが、乏しいドイツ語力と文学素養で愚考したことですから、どうかご容赦ください。

 

 

 

友人から頂いたドイツの自然叙情詩集には、解説がついています。

パラパラと眺めていると、興味深い文言がうかがわれました。

あまり理解できている自信がないのですが、分かる(?)部分だけ申し上げます。

 

「自然」を作品中に出してくる詩人はもちろん昔からいたのでしょうが、もちろん時代によって変化があります。

おそらく編者のディートリヒ・ボーデのものであろう解説(あとがき)によると、バロック時代の西洋では詩人と自然との対話にもキリスト教が影を落としていました。自然を語るそばから、それは神の創造に対する賞賛になってしまうわけです。

 

決定的な変化は、やはりヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテから始まります。ゲーテ自身は隠者然としてキリスト教以前の古代を憧憬するのですが、ゲーテ周辺のロマン主義者たち(Romantiker)は「自然と人間の合一」を夢見ます。「一人は、生けるものすべてのために存在する。祝福された忘我のうちに、自然という全体へと帰還すべきなのだ。それは、思考と歓喜の頂点にある(ヘルダーリン『ヒューペリオン』1795年)。」哲学者シェリングの『自然哲学』もまた、「内なる精神と外なる自然との絶対的な同一性」を語ります。およそこれらはすべて、一種の「終局状態」を志向しています。

 

しかし、19世紀には、新たな対立が生まれました。自然はもはや憧憬の対象ではなく、自我が暗い情念を表現する「劇場」になっていきます。それ以後も自然詩それ自体はドイツ詩において有力なジャンルであり続けますが、自然はもはや人間が合一する存在ではありません。20世紀に表現主義(Expressionismus)」が登場した後では、ますます人間と自然とは対立的になっていきます。自然は「自立した」存在であって、人間を寄せ付けません。解説では「緑の神(gruene Gott)」という表現も見られました。

 

現代では、自然は「環境」になってしまいます。それは、もはや神秘ではなく「政治」なのです。「壊れた自然(kaputte Natur)」(ユルゲン・ベッカー)という表現すらされ、エコ意識が登場します。自然詩は「逃避主義」だとして非難されたりします。その結果か、興味深いことに、19世紀では保守的・非革命的な志向があった自然詩が、20世紀には批判的な調子を帯び始めます。

 

こうした「自然叙情詩」の歴史は、ドイツまたは西洋に固有のものなのでしょう。

解説で何度か「叙情的な自我(lyrischen Ich)」という言葉が出てきます。

詩歌は自我がうたうもの・・・当然と言えば当然なのですが、やはり人間は神の「似姿」なのでしょう。

神の創造の賞賛、汎神論的な自然との同一のロマン、情念の舞台装置、苛烈で宿命的な「環境」概念・・・

これらは、すべて「自我」の側の「迷い」ではないでしょうか?

神にも自然物にもなれない人間は、神と自然との間で揺れ動いているのです。

 

西洋音楽もまた、同じなのかもしれません。

自然の秩序を作り変えたものが「音楽」だとすれば。

 

目覚めの鳥の声と木々のざわめきもまた、繊細な自我は音楽へと変換してしまいます。

 

エルガーの「朝の歌」

 

 
 

・・・

ああ、自然よ! 何を私は呟けばよいのだ。
すべてが君に繋がっていくようだ。

すべてが心に迫ってくる
大きなものも小さなものも−−
すべてが私に共鳴するのだ。
あの圧倒的なひとつのなかへと向かって!
・・・

リヒャルト・デーメル「朝の祈り」より(DrOgri訳)

 

 

ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第一番『雨の歌』より第三楽章

優しい雨音が聞こえます。

 

 

いつか弾いてみたい曲の一つです。