読み歩き、食べ歩き、一人歩き(1025) 自然に還りたいけど、帰れるか? 詩と音楽 | DrOgriのブログ

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おやじが暇にまかせて勝手なことを書くブログです。日々の雑記や感想にすぎません。ちらっとでものぞいてくだされば幸せです。

ちょっとドイツ語の詩に凝り始めて数週間・・・
 
 
いくつか訳してはみましたが、20世紀以後のものは難解です
ギュンター・アイヒ(Guenther Eich, 1907-1972)とか。
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「ある夏の終わり(Ende eines Sommers)」
誰が木々の慰めなしに生きていたいだろうか!

彼らが死に関与するのはなんと良いことだろう!
桃が収穫され、李が色づく。
その間にも、橋のアーチの下で時がざわめいている。

鳥の群れに私は私の絶望を委ねる。
その群れは永遠のうちの自分の取り分を平然と取り分けている。
その道筋が、
暗い運命のように木の葉の間に見えて、
翼の動きが果実たちを色づかせる。
(DrOgri訳)
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ヴィルヘルム・レーマン(Wilhelm Lehmann, 1882-1966)は、ほんの少し牧歌的ですね。
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 「昔日の夕」
虚ろな蕪(かぶら)からネズミが跳び出る。
荒い風がニワトコの葉を何日も翻弄している−−。
虚ろな蕪の横には穴が空いて
風が鳩たちを家へと追いたてる。

農馬は密な苔のような長い毛を伸ばす。
年は暮れていく。始まりもなければ終わりもない。
樫の実が落ちた。−−その音は孤独を乱すが、虚しさに吸い込まれる。
この虚しさは私の足音すら吸い込んでしまう。とっくに私も忘れていたのだが。
(DrOgri訳)
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直訳すると、どうしても「説明調」になってしまいます。
日本語とドイツ語の違いは大きいですね。
 
 
 
第二次大戦をはさんで、自然に対する感覚が大きく変わったようです。
友人に昔もらっていた「Moderne deutsche Naturlyrik」にも「解説」がありました。
その最初の節は「Natur und Modernitaet」
ここでも、「自然」は「環境」という意味を帯び始め、「政治」に巻き込まれたと述べられています。
「近代」の自然叙情詩は、牧歌的な田園詩にはもう戻れません。
ただ、筆者(たぶん、Edgar Marsch)によれば、現代の自然詩は、20世紀初めの「表現主義」が終わったあたりから、もっと日常的な言葉遣いに変わっていったようです。
 
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ニーチェはベートーヴェンの緩徐楽章を絶賛していました。
私の一番好きな緩徐楽章――もちろん、『田園』の第二楽章です。
 

 
最後の鳥の声なんか、もう絶品です。
でも、ベートーヴェンは、もうこのころは耳が・・・
 
ニーチェは『悲劇の誕生』で、こう言っています。
「どんな芸術家でも、自然自身の芸術からみれば、一種の『模倣者(Nachahmer)』である。」
(レクラム版、24頁)
自然それ自体が、芸術である・・・
「アポロ的」か「ディオニュソス的」かのどちらかであるが。
 
 
自然は、それ自体が芸術である・・・まさにそうですね。

メンデルスゾーンの『フィンガルの洞窟』

ロマンチックな自然描写の代表です。

 

 
 
ベートーヴェンの『春』(ヴァイオリン・ソナタ第5番)の第一楽章。
早く春が来ないかな・・・
ちょっと古いけど、オイストラフの画像です。
 

 
 
読みたいのですが、品切れ中(それに、高い!)

 

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自然に還れ・・・
還る必要はないのかもしれませんね。