地震発生後1~2日目(土日)
疲れていたようで、目を覚ますと7時ぐらいになっていました。
深夜に新潟で震度6の地震があり、こちらでも相当揺れたようですが、気付かず寝ていたようです。。
余談ですが、祥は地震で目を覚ましたことがありません。。
いつか、洒落抜きで死にそうですね。。
原発の避難範囲が3kmから10kmへ拡大していたことを知りました。
電源車は既についたという話ですが、冷却装置の復旧には至っていない模様。
そうこうしているうちにやっとJRが動き始め、会社に泊まっていた同僚と一緒に、家に向かうことになりました。
が、帰る途中に携帯から見ていたニュースで、原発内の空気が膨張しており、爆発を防ぐために弁を開放する必要があること。そして、放射性物質を含む空気が外に逃げ出すことを知りました。
来た。。。。。
最悪の事態への一歩が始まったことを知りました。
風向き的には基本的には日本海・東北・北海道へ向かうとは思いましたが、関東圏内も十分に危険区域に入ると感じました。
取り急ぎ、土日に自宅へ籠れるだけの食料を買い込み、家へ戻る祥。
妻との再会を喜ぶのもつかの間、すぐに浴槽に水を貯めます。
(無いとは思いましたが、東京での大地震が誘発される事が心配でした)
そして母親に連絡を取り、妻をつれて関西の実家に戻ることができるかを聞きました。
前に話した通り、母親と姉は原発に対しての危機意識も強く、この時点で相当原発の動向を気にしていました。
(逆に父はのんびりしていたように思います。。)
僕が原発の今後の動向を気にしており、さらに身重の妻への悪影響を気にしていることをすぐに理解してくれました。
必要があれば、明日にでも妻を連れて関西へ避難することを約束してくれました。
妻には、この退避話を持ちかけました。
「政府の発表がこれからどんどん信じられなくなると思う。
僕は気にしすぎかもしれないけれど、政府の原発に関する緊急事態宣言発令中。
絶対に軽く見ないほうが良い。
これで妻が仕事を辞めることになっても良いから、今は避難しなさい」
という話をしました。
妻はむしろ僕を残しての疎開ということに対して、色々と思うところがあるようでしたが、
最終的には「今はお腹の子を一番に考える」ということで、納得してもらいました。
そうして、すぐに避難範囲が10kmから20kmになったニュースが流れました。
即座に母親に電話をして、明日の朝一に妻を連れて関西の家へ行ってくれるように頼みました。
翌日の朝早く、妻は僕の母と関西へ向かいました。
幸いにして、欲目有かもしれませんが、妻と母は関係性がよい方だと思います。
仮に長期滞在になったとしても、一般の嫁姑の関係より、ストレスにはなりづらいと思いました。
昼頃には、無事向こうについたという知らせがあり、正直身が軽くなる思いがありました。
この状態で、身重の妻を抱えて、正確な対応を取ることには相当プレッシャーがあったからです。
後は、自分の行動の責任は自分の命だけで済む。
そう思うと、心から安心しました。
深夜に新潟で震度6の地震があり、こちらでも相当揺れたようですが、気付かず寝ていたようです。。
余談ですが、祥は地震で目を覚ましたことがありません。。
いつか、洒落抜きで死にそうですね。。
原発の避難範囲が3kmから10kmへ拡大していたことを知りました。
電源車は既についたという話ですが、冷却装置の復旧には至っていない模様。
そうこうしているうちにやっとJRが動き始め、会社に泊まっていた同僚と一緒に、家に向かうことになりました。
が、帰る途中に携帯から見ていたニュースで、原発内の空気が膨張しており、爆発を防ぐために弁を開放する必要があること。そして、放射性物質を含む空気が外に逃げ出すことを知りました。
来た。。。。。
最悪の事態への一歩が始まったことを知りました。
風向き的には基本的には日本海・東北・北海道へ向かうとは思いましたが、関東圏内も十分に危険区域に入ると感じました。
取り急ぎ、土日に自宅へ籠れるだけの食料を買い込み、家へ戻る祥。
妻との再会を喜ぶのもつかの間、すぐに浴槽に水を貯めます。
(無いとは思いましたが、東京での大地震が誘発される事が心配でした)
そして母親に連絡を取り、妻をつれて関西の実家に戻ることができるかを聞きました。
前に話した通り、母親と姉は原発に対しての危機意識も強く、この時点で相当原発の動向を気にしていました。
(逆に父はのんびりしていたように思います。。)
僕が原発の今後の動向を気にしており、さらに身重の妻への悪影響を気にしていることをすぐに理解してくれました。
必要があれば、明日にでも妻を連れて関西へ避難することを約束してくれました。
妻には、この退避話を持ちかけました。
「政府の発表がこれからどんどん信じられなくなると思う。
僕は気にしすぎかもしれないけれど、政府の原発に関する緊急事態宣言発令中。
絶対に軽く見ないほうが良い。
これで妻が仕事を辞めることになっても良いから、今は避難しなさい」
という話をしました。
妻はむしろ僕を残しての疎開ということに対して、色々と思うところがあるようでしたが、
最終的には「今はお腹の子を一番に考える」ということで、納得してもらいました。
そうして、すぐに避難範囲が10kmから20kmになったニュースが流れました。
即座に母親に電話をして、明日の朝一に妻を連れて関西の家へ行ってくれるように頼みました。
翌日の朝早く、妻は僕の母と関西へ向かいました。
幸いにして、欲目有かもしれませんが、妻と母は関係性がよい方だと思います。
仮に長期滞在になったとしても、一般の嫁姑の関係より、ストレスにはなりづらいと思いました。
昼頃には、無事向こうについたという知らせがあり、正直身が軽くなる思いがありました。
この状態で、身重の妻を抱えて、正確な対応を取ることには相当プレッシャーがあったからです。
後は、自分の行動の責任は自分の命だけで済む。
そう思うと、心から安心しました。
地震発生日②
3/14 夕方~夜
原発に異常有。
政府の緊急事態宣言。
このニュースを聞いた時、背筋が凍る思いをしました。
ちょいと話が横にそれますが、、
祥の母親はそれなりに読書が好きなほうで、よく図書館から本を借りてきていました。
そうした本について、祥も暇なときはそれとなく読んでいたりしたのですが、
それらの中には原子力関連・放射能関連の小説が何冊かあったと思います。
(多分、母親の当時の興味がそちら方面にあったのでしょう)
そんな訳で、放射線障害の悲惨さについては小学生のころから叩き込まれていました。
10歳ぐらいから、放射線障害での死に方を詳細に知っていた訳ですから、、
(今、思えば、それもどうかと思うけれど、、、)
この、妙な教育については、姉に関しても同じような事が言えます。
ちなみに、祥の姉は現在、結婚して富山に居を構え、
祥の両親は父の仕事の都合で兵庫に家がある状態です。
(祥の育ちは千葉・東京ですが、、)
が、実は3/13には、祖父の3回忌が横浜で行われる予定で、両親・姉ともに横浜にこの日は来ていました。
(もっとも、この時点では家族の無事は確認できていましたが、、)
さて、話をもとに戻しますが、、
こうした事情から、政府が「緊急事態宣言を出す原発事故」には、
当初から、相当の恐怖と関心を抱きました。
印象的なのはNHK。
職場のテレビはNHKをずっと流していたのですが、原発関連のニュースが一切出てきません。
そのくせ、インターネットのニュースサイトや各新聞社のサイトからは、
「民放でこんな情報が出た!」と飛び交っているのです。
報道規制。
それが敷かれている可能性を祥は感じました。
実際、民放に変えてみたら枝野の原発についての発言を解説したりしていました。
(NHKがきちんと原発について報道しだしたのは、翌日ぐらいからだったと思います)
予算を国に握られているからか、NHKは、実は一番政府に弱いのではないかと感じました。
避難範囲は2km。1号機~3号機で冷却システム作動せず。
電源車が向かっている。到着まで時間がかかる模様。
その後、2kmが3kmになったように思いますが、大きな進展はありませんでした。
夜は着々とその帳を下ろし始め、テレビは被害情報を報告しはじめます。
300人ほどの遺体があがった。津波被害者か。
気仙沼で大火事が起きている。
気仙沼の大火事を見ながら職場ある人間が、他の社員の方に、
「賭けようか、これは死者一万人は超すな」と平然と言っていました。
どこにでも下衆というのは存在します。
夜になると妻もやっと家に帰れたようで安心しました。
電気を使用するようなことは今日中にやっておくこと、
念の為、エアコン・換気扇は使用せず、ヒーターなどで暖はとることを伝えました。
気がつけば、夜も12時を回り、職場での雑魚寝が始まりました。
幸いにも職場には、災害用毛布(真空パックされている)の備蓄があり、それに包まり寝ることとなりました。
寝る場所は、社長室が開いていたので社長室で雑魚寝しました。
まさか、社長室で寝る日が来るとは、、人生とは不思議です。
ていうか、社長室はもう祥の部屋のようなもんだと思いました(錯乱)
個人的には空いているソファの上で寝たかったのですが、祥の直属の上司も雑魚寝をしていたので、ソファは諦めました。
さすがに、そこをぶった切る勇気なんてありません。。
原発に異常有。
政府の緊急事態宣言。
このニュースを聞いた時、背筋が凍る思いをしました。
ちょいと話が横にそれますが、、
祥の母親はそれなりに読書が好きなほうで、よく図書館から本を借りてきていました。
そうした本について、祥も暇なときはそれとなく読んでいたりしたのですが、
それらの中には原子力関連・放射能関連の小説が何冊かあったと思います。
(多分、母親の当時の興味がそちら方面にあったのでしょう)
そんな訳で、放射線障害の悲惨さについては小学生のころから叩き込まれていました。
10歳ぐらいから、放射線障害での死に方を詳細に知っていた訳ですから、、
(今、思えば、それもどうかと思うけれど、、、)
この、妙な教育については、姉に関しても同じような事が言えます。
ちなみに、祥の姉は現在、結婚して富山に居を構え、
祥の両親は父の仕事の都合で兵庫に家がある状態です。
(祥の育ちは千葉・東京ですが、、)
が、実は3/13には、祖父の3回忌が横浜で行われる予定で、両親・姉ともに横浜にこの日は来ていました。
(もっとも、この時点では家族の無事は確認できていましたが、、)
さて、話をもとに戻しますが、、
こうした事情から、政府が「緊急事態宣言を出す原発事故」には、
当初から、相当の恐怖と関心を抱きました。
印象的なのはNHK。
職場のテレビはNHKをずっと流していたのですが、原発関連のニュースが一切出てきません。
そのくせ、インターネットのニュースサイトや各新聞社のサイトからは、
「民放でこんな情報が出た!」と飛び交っているのです。
報道規制。
それが敷かれている可能性を祥は感じました。
実際、民放に変えてみたら枝野の原発についての発言を解説したりしていました。
(NHKがきちんと原発について報道しだしたのは、翌日ぐらいからだったと思います)
予算を国に握られているからか、NHKは、実は一番政府に弱いのではないかと感じました。
避難範囲は2km。1号機~3号機で冷却システム作動せず。
電源車が向かっている。到着まで時間がかかる模様。
その後、2kmが3kmになったように思いますが、大きな進展はありませんでした。
夜は着々とその帳を下ろし始め、テレビは被害情報を報告しはじめます。
300人ほどの遺体があがった。津波被害者か。
気仙沼で大火事が起きている。
気仙沼の大火事を見ながら職場ある人間が、他の社員の方に、
「賭けようか、これは死者一万人は超すな」と平然と言っていました。
どこにでも下衆というのは存在します。
夜になると妻もやっと家に帰れたようで安心しました。
電気を使用するようなことは今日中にやっておくこと、
念の為、エアコン・換気扇は使用せず、ヒーターなどで暖はとることを伝えました。
気がつけば、夜も12時を回り、職場での雑魚寝が始まりました。
幸いにも職場には、災害用毛布(真空パックされている)の備蓄があり、それに包まり寝ることとなりました。
寝る場所は、社長室が開いていたので社長室で雑魚寝しました。
まさか、社長室で寝る日が来るとは、、人生とは不思議です。
ていうか、社長室はもう祥の部屋のようなもんだと思いました(錯乱)
個人的には空いているソファの上で寝たかったのですが、祥の直属の上司も雑魚寝をしていたので、ソファは諦めました。
さすがに、そこをぶった切る勇気なんてありません。。
地震発生日①
3/14 昼過ぎ~夕方
地震が起こった時、祥は八王子で仕事をしていました。
最初は大丈夫だろうと思っていたのですが、ゆっくりとそして確実に大きくなる地震。
近くの席にいた部長が、「全員、机の下に退避してください」と大きな声で言いました。
殆どの人間が一度机の下に隠れます。
祥も隠れましたが、揺れがどんどん大きくなり、初めて地震で死の危険を感じました。
(このまま大きくなったら建物が崩壊するかも・・・)
幸いなことに、地震はその後、次第に小さくなりましたが、
職場のテレビのニュース速報で、5分もしないうちに震度7の地震が発生したこと。
そして、自分は震度5弱の地震を体感したことを知りました。
騒然となる職場。
女性が多い職場な為、興奮する人、パニックになる人、屋外退去を求める人、それぞれでしたが、
とりあえず、妻に「自分は無事。そっちはどう?」と携帯でメールだけ打ちました。
(結局、このメールが妻に届くのは、18時頃のこととなります)
そして、そのあと、、、
祥は、その瞬間持ち株を売るべきかどうかを真剣に悩んでいました(ダメ人間)
地震の発生は14時46分。その時はおそらく14時50分。東京証券取引所が閉まるのは15時ジャスト。
その時の日経平均はリビアなどの中東不安があり、かなり低くなっていたので売るのには正直抵抗有。
そして、地震の被害の全容がつかめなかったこと。
何より、皆がパニックになっている中、一人颯爽とトイレに行き、個室のドアを閉め、携帯から注文を発信するには相当な抵抗があった為、やめました、、、
テレビに震源が映ります。
確か、宮城県の太平洋側を指していたように思います。
(この位置は間違いなく津波が来る・・・)
その時、確信しましたが、津波の規模、被害、原発への影響については正直甘く見ていました。。
30分ぐらいしてからでしょうか。。
津波の情報が続々飛び込み始めました。
衝撃を受けた人が多いだろう、名取川河口付近の津波の様子も祥はリアルタイムで見ていました。
人・車が飲み込まれる様子を映さないように映像を流していましたが、、
映像の端には、行きかう車と人が見えていました。。
この時、祥は自分の見込みが甘すぎたことを痛感しました。
尋常じゃない被害、死人が出る。。
妻が気になりました。
妻は都心勤めなので、被害はそれほどでは無いと思いましたが、
その時期(というか今もだけど)、妻は妊娠していました。
まだ悪阻もあり安定期にも入っていない。
誰かに押されて倒されたりしていないだろうか、、そこの建物は問題無いのだろうか、、
そうこうするうちに時刻は17時に近づいてきます。
退社時間になりますが、結局その日、電車は動きませんでした。
社内の8割ぐらいの人間は歩いたり、バスを使用したりして帰れたように思いますが、
結局、帰れない人間は会社に泊まることになり、祥もそのうちの一人になりました。。
しかし、17時30分過ぎに妻から電話がありました。
何度もかけていたけれど、ようやくかかったということでした。
お互いに無事なのを確認して、安心しました。。
妻は職場の人がかなり心配してくれ、車で自宅まで送付してくれることになりました。
どうしても思い出せないのですが、たしかこの18時前後に「原発がやばい」という一報を、
何らかの形で聞いたのだと思います。
それからは会社でネットを駆使して、原発情報を調べだしました。
地震が起こった時、祥は八王子で仕事をしていました。
最初は大丈夫だろうと思っていたのですが、ゆっくりとそして確実に大きくなる地震。
近くの席にいた部長が、「全員、机の下に退避してください」と大きな声で言いました。
殆どの人間が一度机の下に隠れます。
祥も隠れましたが、揺れがどんどん大きくなり、初めて地震で死の危険を感じました。
(このまま大きくなったら建物が崩壊するかも・・・)
幸いなことに、地震はその後、次第に小さくなりましたが、
職場のテレビのニュース速報で、5分もしないうちに震度7の地震が発生したこと。
そして、自分は震度5弱の地震を体感したことを知りました。
騒然となる職場。
女性が多い職場な為、興奮する人、パニックになる人、屋外退去を求める人、それぞれでしたが、
とりあえず、妻に「自分は無事。そっちはどう?」と携帯でメールだけ打ちました。
(結局、このメールが妻に届くのは、18時頃のこととなります)
そして、そのあと、、、
祥は、その瞬間持ち株を売るべきかどうかを真剣に悩んでいました(ダメ人間)
地震の発生は14時46分。その時はおそらく14時50分。東京証券取引所が閉まるのは15時ジャスト。
その時の日経平均はリビアなどの中東不安があり、かなり低くなっていたので売るのには正直抵抗有。
そして、地震の被害の全容がつかめなかったこと。
何より、皆がパニックになっている中、一人颯爽とトイレに行き、個室のドアを閉め、携帯から注文を発信するには相当な抵抗があった為、やめました、、、
テレビに震源が映ります。
確か、宮城県の太平洋側を指していたように思います。
(この位置は間違いなく津波が来る・・・)
その時、確信しましたが、津波の規模、被害、原発への影響については正直甘く見ていました。。
30分ぐらいしてからでしょうか。。
津波の情報が続々飛び込み始めました。
衝撃を受けた人が多いだろう、名取川河口付近の津波の様子も祥はリアルタイムで見ていました。
人・車が飲み込まれる様子を映さないように映像を流していましたが、、
映像の端には、行きかう車と人が見えていました。。
この時、祥は自分の見込みが甘すぎたことを痛感しました。
尋常じゃない被害、死人が出る。。
妻が気になりました。
妻は都心勤めなので、被害はそれほどでは無いと思いましたが、
その時期(というか今もだけど)、妻は妊娠していました。
まだ悪阻もあり安定期にも入っていない。
誰かに押されて倒されたりしていないだろうか、、そこの建物は問題無いのだろうか、、
そうこうするうちに時刻は17時に近づいてきます。
退社時間になりますが、結局その日、電車は動きませんでした。
社内の8割ぐらいの人間は歩いたり、バスを使用したりして帰れたように思いますが、
結局、帰れない人間は会社に泊まることになり、祥もそのうちの一人になりました。。
しかし、17時30分過ぎに妻から電話がありました。
何度もかけていたけれど、ようやくかかったということでした。
お互いに無事なのを確認して、安心しました。。
妻は職場の人がかなり心配してくれ、車で自宅まで送付してくれることになりました。
どうしても思い出せないのですが、たしかこの18時前後に「原発がやばい」という一報を、
何らかの形で聞いたのだと思います。
それからは会社でネットを駆使して、原発情報を調べだしました。