『研ぎ師伊之助深川噺ができるまで 184』 | オーディオキネマ 研ぎ師伊之助深川噺

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~ライターのつぶやき~
「本所について・・・つづき」



本日は、

前回の「~つぶやき~ 183回」の続きになります

江戸切絵図を勉強中の私が、

本所について勉強したことを、

もうちょっとだけ、ご報告したいと思います




さて、

前回のブログで書きました男谷精一郎さんの家についてですが、

その後、ちょっと調べてみましたが、

やはり、あの亀沢町の男谷家は、

私の作品にも登場しました男谷先生の家で間違いありませんでした

(よかったぁ~)

 


(画像中央に男谷精一郎の名前がありますね。)




現在この地に、

男谷さんの記念碑などはありませんが、

いつの日か、そんな時が来たら嬉しいですね。

幕末の剣豪として、

もっともっと世間に知って頂きたいですね





それでは、

もう少し、

この本所という町について書いてみますね




そもそも、

この〈本所〉という名前、

どこから来ているのでしょうか

今まで、私は、

そんなことを考えたこともありませんでしたね

(イケないサボり癖ですね・・・

 


そこで、

調べてみると、いろいろ諸説ある中で、

面白いものが出てきました


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~本所(ほんじょ)~

天明2年(1682年)、
大きな火事があり、この地にあった人家が撤去されたそうです。
昔は、そういったことがよくありました。
町人たちなどは、幕府の決定で、度々、住み慣れた我が家を、
離れなければなりませんでした。

その後、元禄元年(1688年)に再び居住が許され、
住人たちが元(本)の所に戻れたと喜んだことに由来するそうです。
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この説は、

妙に説得力がありますね

江戸の町名には、

「えっ ホントに・・・」

と言いたくなるようなショウモナイ由来も多いのですが、

この本所に関しては、

とても強い理屈を感じますね




町人などは、

この地へ戻れたことを、とても喜んだでしょうね。

江戸のお膝元とは、

隅田川を隔てて、

丁度良い距離を置いています。

江戸時代を代表する町人風土が生まれるには、

まさに絶好の立地ですよね




町人たちは、

元禄初期の時代に、

この地に帰ることができたからこそ、

あの自由奔放な気質が誕生したんでしょうね

この時の町人パワーの爆発力が、

文化を形成し、伝統を作ったんですね。

そして、我々は、

現代でもそれに魅了されているんですね




現在でも多くの江戸ファンが観光する本所。

亀戸天満宮があり、

ねずみ小僧のお墓もある回向院があり、

吉良上野介の屋敷跡があり、

その吉良の首を赤穂浪士が洗ったという井戸をもつ泉岳寺があります。

池波正太郎さんの小説を持って、

この地を散策するのも、面白いですよね




近いうちに、

ゆ~~っくりと、

歩いて回りたいですね


 

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