真言立川流と後醍醐天皇 | 怖い話します(選集)

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今回は怖い日本史のカテゴリに入る内容です。
立川流(たちかわりゅう)は、オカルトフアンならご存知だと思いますが、
真言系密教の一流派で、淫祠邪教の代名詞のようにあつかわれています。
ちなみに、字は同じですが立川流(たてかわりゅう)と読むと、
故 立川談志師匠が創設した落語団体のことになります。

どっから話していきましょうか。まず、立川流の教義および儀式ですが、
これははっきりわかってはいません。というのは、立川流は徹底的に弾圧され、
独自の経典などは焚書ですべて失われているからです。
現在 残っているのは、みな弾圧した側から見た後代の文書です。

立川流 曼荼羅
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ということで、ここから書く内容は、きわめて不確かで、
後世の脚色が入ったものとしてお考えください。まず、立川流では、
男女の交合を、悟りを得るための最大の儀式としていたとされます。
これは、一般的な仏教で言われる女犯戒(にょぼんかい)にいきなり反してますね。

なぜ、立川流がこのような教義を押し立てるようになったか。
ルーツは2つあると考えられます。まず一つめは、古代インド哲学にある性愛術、
『カーマスートラ』などからの影響。もう一つは、
東洋に古くから伝わる陰陽思想でしょう。
どちらも、根源的な仏教とはあまり関係のないものです。

インド カジュラーホの性愛寺院
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女が陰、男が陽、この2つが揃ってこそ物事は完全なものになる。
だから女犯戒は間違っているというわけです。
これは立川流独自の『理趣経』の解釈とされています。また、立川流では、
邪神とされるダキニ天を拝し、「髑髏本尊」を祀ったという話も知られています。

まず、選りすぐった髑髏を探し出してきて加工する。これを祭壇に据えて、
夜ごとに香を焚き、真言を千回唱える。さらに、毎日山海の珍味を備えて、
その前で僧侶とパートナーの女が昼夜生活をともにし、交合の際の愛液をぬる。
そうして、8年の歳月を経て髑髏本尊が完成する。

こうしてできた髑髏は、人の望みをかなえたり、将来を予言したりするとされます。
また、8年間をともに暮らした男女は、その修業の過程で、
2人とも解脱して悟りをえることができる。つまり、髑髏本尊を作ることは、
目的でもあり、また手段でもあるということなんですね。

ただし、上に書いたように、これらのことが本当に立川流で行われていたかは
わかりません。そうではないだろう、という意見の研究者も多いんです。
立川流は後代、創作物などで興味本位にあつかわれることが多く、
そこでたくさんの不確かな逸話がつけ加わってしまいました。

さて、立川流を大成したのが、14世紀、南北朝時代の僧、
文観(もんかん)です。この名前は、文殊菩薩と観音菩薩の両者から
一字をとってつけたという大仰なものです。
もとは一介の修行僧で、大和や播磨の国で真言律を学んでいました。

その後、文観は師の紹介で後醍醐天皇に取り入り、護持僧として重用されます。
後醍醐天皇は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての
第96代天皇にして、南朝の初代天皇。下に肖像画を掲げましたが、
両手に法具を持った密教者としての姿に描かれていますね。

密教法具を持つ後醍醐天皇
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また、後醍醐天皇に、地方の悪党であった楠木正成を紹介したのも文観
とされますが、これはどうやら間違いのないところのようです。
楠木正成は後醍醐天皇を助けて大活躍し、新田義貞などと並んで、
『太平記』中の一大ヒーローとなります。

楠木正成
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さて、鎌倉幕府に不満を抱いていた後醍醐天皇は、
中宮安産を祈願する祈祷をすると見せかけ、
じつは鎌倉幕府を調伏するための儀式を行いました。この中心となったのが
文観ですが、ことは幕府に露見し、文観は硫黄島に流されてしまいます。
しかし、元弘の変で鎌倉幕府が滅亡すると、京都に戻り、
密教の中心であった東寺の長者、大僧正になります。

これは異例の出世であり、当時の仏教界では反発が強かったんですね。
1335年、突如、高野山の真言僧たちが山を下り、
立川流の僧の多くを殺害、経典をすべて焼き捨てるなどの大弾圧を加えました。
このとき、文観も東寺長者の地位を追われ、甲斐の国へ流されてしまいます。

加持祈祷をする文観
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この弾圧は、建武の新政中に起きたことで、
権力を掌握していたはずの後醍醐天皇にも、立川流が弾圧されて消滅するのを
止めることができなかったんです。このあたり、複雑な事情があるんだろうと
想像できますが、明らかになってはいません。

さて、この後の文観は、足利尊氏に追われて吉野へ逃れた後醍醐天皇に
つき従い、南北朝時代を生きて80歳で没することになります。
また、後醍醐天皇は1339年、満50歳で吉野で亡くなりますが、
『太平記』によれば、このとき、左手に経典、右手に剣を持ち、
自らの身体を使って北朝を呪いながら死んだとされています。

さてさて、立川流の実体はどのようなものだったのか?
なぜ弾圧されて滅んだのか? これらのことは歴史上の謎で、
自分もこつこつ調べてはいるんですが、やはり資料不足でよくわからない
んですね。ということで、今回はこのへんで。

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