ここ数日は、伊語とその古文であるラテン語に集中しているまるちりんぎすとです!

さて、ラテン語は古典語の中でも比較的勉強しやすい環境が整っている言語である(と、わたくしは思う)。けれど、それでもまだ教材(ことに入門レベル)には改善の余地があるだろうし、その一方で古典語全般に言えることだが、相変わらず教材が不親切極まりない記述になっている。


 古典語の教材が、相も変わらず「不親切」なままだというのにはまぁ、いくつか理由がある。それは、覚えなければならない文法事項は決まっていて、だれが書いてもさしてかわらない、ということや、需要がさして大きいものではない、というファクターもあるけれど、それ以外にも別の要因があるように思えてしょうがない。


 たとえば、若手や気鋭の研究者が、自分の経験を踏まえて「こうすればもっと若い安くなる」とか「こうすればもっと簡単に身に付く」であろうという工夫を凝らして、比較的廉価で、文法書を書いたとする。研究者の努力の甲斐もあって、その文法書はあっという間にベストセラーとなり、マーケットシェアでもトップに立つことになる。


 すると、面白くないのは、その新しい文法書にとって代わられてしまう昔の文法書の著者の「御偉い」先生方や出版社の方々で、あの手この手でそういった新しい文法書の出現を邪魔しようとする。


 結果として、いつまでたっても「不親切」な文法書しか残らないことになり、学習者に対するハードルは相も変わらず高いままである。


 多くの人にとって、古典語を含めた語学は、研究の対象ではなく、身に付けるべきスキルであるはずである。で、あるならば、わかりやすい文法書の登場は、歓迎されるべきことで会うはずである。なので、御偉い先生方は、是非とも青田刈りをするような真似だけはしないでほしいと思います!


 ちなみに、私が考えるよい参考書の条件のいくつかをあげれば

 ・廉価であること

 ・わかりやすい説明がなされていること。(特に動詞類や名詞類の活用変化が、「以下同様の変化」というような省略がなされていないこと)

 ・巻末に変化表一覧が収録されている一方で、本文の説明でも労をいとわずしっかりと変化が掲載されていること。(古典語の教科書にありがちな○○の変化を巻末の変化表で学べ、式のものではないこと)

 ・一通り文法事項が網羅されていること。(たとえば、時制であれば、会話に必要なだけではなく、読解に必要になってくる時制についてもカバーされていること)

 ・練習問題は、なくてもよいが、もしつけるのであれば、しっかりと模範解答も添付してあること:答えがあったって勉強はできるし、答えがあったところで、容易にその言語が身につくわけではない。

 ・その代わりに、例文を充実させること。

 ・紙質がテカテカのビニールっぽいものではなく、筆記用具の書き込みが容易であること。

 ・次のステップアップの為の文献ガイドがなされていること。


といったところだろうか。まだほかにも条件はあるけれど、とりあえずは今思いついた限りではこんなところだ。

 先日、イタリア人のオトモダチをナビゲートした、というお話はこのブログでも書いた。そのときコミュニケーションを図るために使ったのは、はやりの電子辞書でもなければ、ポケット型の簡易伊和・和伊辞典でもない。一見不恰好に見えるかもしれないが、小学館の和伊中辞典(もちろん紙!)を使ったのである。


 電子辞書を使えば、そんな嵩張るものを持ち運ばなくてもよいことは百も承知!千も合点!なのだけれど、あいにく私はそれを持っていない。予算の問題もあるけれども、なぜか、現在市販されている電子辞書には和伊辞典の第2版ではなく、初版しか収録されていないモデルしか存在していない。また、伊和中辞典も、第2版の刊行から10年を超えていることから、そろそろ第3版を、という時期であることから見ても、今、電子辞書を買う時期ではないのだ。…とまぁ、そんなわけで電子辞書は今の段階では選択のできないのだ。


 これに対して、機動性のある、ポケット型の辞書はどうか?残念ながら、これも選択肢からは除外される。過去に一度使ったことがあるのだけれども、何とも中途半端で役に立たなかったのである。もちろん小さいから収録語彙も少ないのだけれども、コミュニケーションを取るには、肝心な一語がのっていないということが多かったように感じた。


 結局、残った選択肢として、紙の辞書を持ち運ぶ、というものになってしまった。言うまでもなく、紙の辞書は嵩張る。そこで、事前に使いたい単語をいくつかピックアップして、ミニサイズのシステム手帳にメモしておいた。パソコンのメタファーで言うならば、辞書をハードディスクとすれば、システム手帳は、キャッシュメモリに相当する。


 この方法は、事前に「予習」することができれば、きわめて役に立つ方法である。ただ、今回は急拵えということもあって、試作版のメモで済ませたが、できれば、手帳には、手書きのメモではなく、パソコンで作成した単語帳を印刷したものを使いたい。そこで、あれこれ試してみたのだけれども、現在私が使っているミニサイズのシステム手帳のリフィルには、プリンタとの相性が悪く、うまく印刷することができない。要は、紙が小さすぎるのだ。


 そこで、次回のためにも、一回り大きいシステム手帳の購入を現在検討している。バイブルサイズと呼ばれるシステム手帳だ。試しに100均で、リフィルを買ってみて印刷してみたら、ばっちり印刷できる。でも、機動性の面からすれば、ミニサイズよりは落ちる。


 システム手帳のデファクトスタンダートも固まってきてるので、今後新サイズの登場は望めないのだろうけれど、バイブルサイズとミニサイズのちょうど中間ぐらいのサイズのシステム手帳ってのはないもんだろうか?ミニサイズは機動性がよい反面、紙が小さすぎる。結果として、プリンタでは印刷できない。かといって、バイブルサイズは、メモする分には十分だけれど、機動性がガクンと落ちる。そこで、現在のミニサイズのシステム手帳の機動性とさして変わらないものの、十分にメモでき、印刷できるサイズのシステム手帳ってものがほしいのだ!!

ラテン語の学習に際して以前から懸案だったことがある。それは、パソコンでラテン語を扱う場合、マクロン(長音記号)が実質的につけられないのだ。


「実質的に」というところが、ポイントで、実はつけようと思えば、つけられなくもなかった。マオリ語のキーボードをつかえば、十分に打つことができるのだ。


 ただし、私は当初はマオリ語のキーボードを使ったこともあるけれど、途中で使うことをやめてしまった。その理由は、マクロンのデットキーの位置に不満があること(ノートパソコンで一番左上のキー)、そして、アルファベットは別にしても、?やコロンなどの記号の位置が、ほかのヨーロッパ系統の言語のものとえらく異なっていたから、という2つの技術的な理由による。また、あくまでもマクロンは学習の便宜上に使うものであって、実際に書くときには使われない、という正書法の観点からも、それほどマクロンをつけることにこだわる必要もないなぁ、とあきらめてもいた。


 ところが、今回Wordの2010を使っていて、ロシア語のアクセント記号を付けるよ要領とまったく同じ要領でアクセント記号を付けることができることを発見した。要は、結合音節符からマクロンを選択して挿入すればよいのだ。


 ただし、この方法には、考慮しておかなければならない2つのファクターがある。1つは、フォントをTimes and New Romanにしておかなければ、マクロンとほかの文字との間に余計なスペースができてしまう、ということ。

 そしてもう1つは、ショートカットキーを割り当ててバンバン使う場合、ショートカットであるがゆえに、エクセルではマクロンの表示は相変わらず、難しい、ということである。


  何はともあれ、これでだいぶラテン語の学習はしやすくなった。

 認識語彙と使用語彙、というペアの概念がある。前者はその人が単に言葉の意味を知っているというだけの水準の語を意味し、後者は単に言葉の意味を知っているだけではなく、適切な文脈で発話したり、書いたりすることができる語を指す(と、私は理解している)。言ってみれば、認識語彙は商品そのものであり、使用語彙はその商品と取説がセットになったパッケージ製品であるといえる。


 ところで、本日久々にイタリア人のオトモダチにあって、私はイタリア語で、向こうは日本語で、簡単なコミュニケーションをとった。日々の勉強不足や練習不足もあって、私が言いたいことがなかなかいなかったが、それはいかに私の使用語彙が少ないかを痛感させるものになった。

 と、同時に、単語レベルだけではなく、動詞の活用や、名詞類の活用が思う通りに使いこなせなかった。もちろんそれぞれの単語をどのように活用させるべきかは私は把握している。しかし、実際に会話となると、それが思う通りにできないのだ。先の認識語彙と使用語彙のペア概念から類推していえば、さしずめ認識文法と使用文法ということになるか。知らないうちに私の使用文法は、すっかり認識文法の次元にレベルダウンしてしまったようだ。


 なお、わたくしは言語学者でもなければ、それをかじったことすらないので、認識文法と使用文法の概念がすでに存在しているものであるか否かは知らないが、私にとってそれは対して重要な問題ではない。重要なのはいかに外国語を自家薬篭中のものにするか、である。

 一昨日あたりの報道によれば、最近日本で、会議などや、社内でのコミュニケーションを英語(だけ)で行う企業が増加しつつあるという。


 陳腐な言い方で申し訳ないけれど、グローバル化する世界、一体化する世界ではある意味致し方ないのかもしれない。


 だが、改めて冷静に考えると、ある疑問が生じる。それはなぜほかの外国語ではなく、「英語」なのか?ということである。


 同じ報道の中で、ファーストリテイリング(ユニクロ)の社長は以下のような趣旨のことを述べていた。


 「これからは、内需も外需も(そういった区別は)ない。わが社は国内にとどまりつづける人材はいりません。世界に出ていける人材だけが必要だ」


 今後の日本企業のサバイバルの成功を踏まえれば、まっとうな考え方ではあるとは思う。けれど、世界=英語の世界ということを暗黙の前提条件にしているようで、なんか腑に落ちない。


 英語がそこそこ通じるとはいえ、英語が母語ではない国、地域はごまんとある。それゆえ、各地域にマッチした言語を社員に修得させるべきではないか?ロシアに進出するのであれば、ロシア語を、南米であれば、スペイン語とポルトガル語を、北アフリカ一体であれば、フスハーと各国にあったアーンミヤーを社員に修得させるべきではないか。


 だか、こう考えると、地方間ではコミュニケーションが取れない、地方と本社(とりあえずは日本を想定)との間でコミュニケーションが取れない、という問題が生じる。それゆえ、どこの地域に進出するにしても、やはり英語を覚えなければならない、ということになる。


 でも、なんかそれは違うような気がする。最終的な帰結は英語でコミュニケーションをしなければならない、としても、コミュニケーションが取れないから共通語を英語にする、というのはちょっと短絡的な気がする。共通語をエスペラントにしたっていいではないか。こうすれば、基本的に母語としてい人間はいない(はず)なので、どの国籍の人間にも全くおんなじ負担をヘッジすることができる。(もっとも、エスペラントは私は学んだことがないので、細かなことまでは言えないが、ラテン文字を使っているのでヨーロッパ系の言語を母語としている人にとっては多少有利なのかもしれない)