暑いですねぇ。私まるちりんぎすと(もう長いから一人称は平仮名でまるりんに略すか:笑)は、ここ数日忙しくて、ようやく語学検定の準備に取り掛かれそうです。しかしながら、語彙が不足していて受かる気はしない・・・(苦笑)

さて、今日は何気なく新聞の投書欄を見ていたら、ちょこっと気になる。記事を見つけた。記事の趣旨はこうだ。

・英語は日本人ではなくアメリカ人から習うべきだ(なぜならばその方がLRの発音の区別がつくようになるから)

・英語ぐらい努力次第でできるようになる(因みに投書した人の伴侶は米国人だとか)

 今回は、この2つの主張について全面的に肯定したり否定したりすることはせず、Iカントが言う意味での批判をしてみたい。

まず最初の英語は日本人ではなく、アメリカ人から習うべきだ、という主張について、素朴な疑問点として、なぜ「アメリカ人」なのか?ということが挙げられる。英語は、英国の言葉だから、「アメリカ人」ではなくて「イギリス人」からというのが筋ではないのか?

しかし、そんなことを言っても、アメリカ人だって、英語を話しているんだし、第2次大戦後日本は負けて、米国の統治下にあったという史実を踏まえれば、アメリカ人から教えを乞うことは、筋ではないか?という考えもあるかもしれない。それはそうだろう。そこで今度は、投書人の主張の根拠となった理由「LRの発音や聞き取りができるようになるから」という点に注目したい。これは要するにネイティヴスピーカーの発音を聞いたり発音したりすることによって、英語が上達するようになる、という考えが根底にあるのだろう。この考え方もまるりんは否定しない。けれど、1つ考えなければならないファクターがある。それは方言というよりは訛りだ。ご存じのとおりアメリカは日本以上に国土面積が広く、南と北、東と西でうんと発音が異なる。このうちどこの人たちの発音を標準として取り入れるべきなのか?この疑問を拡大させれば英語を母国語としている国々の中でどこの国の発音を標準とすべきなのか?ということになる。なかなか決着のつかない問いではあると思うけれど、「アメリカ人から習うべきだ」と主張するためにはこのような点を考えて見なければならない。

一方で「2つ目の英語ぐらい努力すればできるようになる」という点について。これと似たようなことは、某大手予備校の夏期講習のCMでも言っていたなぁ~「英語なんて所詮は言葉なのだ。こんなもの、やれば誰だってできるようになる」と。

これはどうなんでしょうか?人間、なんでもそうですが努力乃至労力を惜しまなければ一定の水準には達しません。これは事実だとは思いますが、問題は投資しなければならない諸々のコストである。故千野栄一氏がいうように、語学の習得に必要なのは「時間とお金」である。しかし、私の中途半端にしか身についていない語学力の経験からしても、満足に語学を使いこなすようになるためには、ハンパないほどコストがかかる。お金がハンパないほど掛かる、と言っているのではない。時間と労力がハンパないほどかかる、と言っているのである(もちろんお金もそれなりに掛かる)。例えて言うならば、職人さんのような世界だ。一人前の職人になるためには、人生の早い段階で、職人の道を進み、長い時間をかけて一人前になってゆく。一度職人になった人は他の職業に就くことはできないだろう。なぜならば、一人前になるころにはいい年になっている。だから、英語を身に着けるには、努力すればできるようにはなる(のだろうけれど)、それはハンパな努力では駄目で、進路として他の選択肢がない茨の道をゴール目指して進むことに他ならない。

しかし、現実には、そう「英語ばかり」に労を惜しむことができる人は僅かだろう。なにしろ第1に、職人さんや料理人たちがそうである。自身が必要な技術を身に着けるのに精いっぱいで、他の技術(=英語)の習得にはとても手が回らない。

だから、英語の重要性が叫ばれてから久しいけれど、義務教育なり、社会教育の場においても、ロングスパンで英語を身に着けさせることを考えなければならない。

ちょっと余談になるけれど、社内英語公用論の肯定派や、英語ぐらい努力すりゃ話せるようになる、と主張する人たちは、概して、日本の国外(それも英語圏)に住んでいる日本人や、日本国内にいても外国人と常日頃からコミュニケーションをする人たちが多いような気がする。これは考えてみれば当然の帰結で、彼らは意識的であれ無意識的であれ英語のために労力をかけることができた人間であり、それゆえに英語の習得に失敗しなかった人たちである。だから、英語以外に労力をかけなければならない人たちにとっては、彼らの意見を参考にしても得るものはさほど多くないのではないか?

以前、このブログで今年は語学検定を受ける方向である、と書いたことがある。そこで、現在は少しずつだが、検定対策の問題集をチマチマとやっている。ところで、語学検定に限らず、資格試験一般、あるいは入試の対策の基本は過去問を解き、市販されている参考書とは別に、自身で傾向と対策を考えることが重要になってくる。




 そこで、そろそろ過去問を買って勉強をしようと思っていたのだが、すでに8月になってしまった。検定のオフィシャルな過去問(2010年版)は、7月に発売、ということになっていた。しかし、8月になった現在においても、まだ発売されていない。




(一次)試験が10月の頭にあるのだから、この過去問の販売の遅れは、我々受験者にとっては大きな痛手である。ただでさえ、7月の販売では遅いと思っていたのに、それが更に遅くなってしまっては、全く持って、困る。最近、資格試験の運営団体による不祥事が目立つようになってきたけれど、もしかして…(また?、この検定も?)と、一瞬疑ってしまう。(でも、そんなことはないのだろう、と願っているが…)


 

 まぁ、今年の過去問が出ないのであれば、去年(つまり2009年度)の過去問を使って対策をすればよいのではないか?という意見もあるかとは思う。それは正論であるし、案外、そっちの方がうまくいくかもしれない。なぜならば、同じ問題が連続して出題されるとは、考えられないからだ(もし出したら、出題者の品位が疑われる)。で、あるならば、2010年版(つまり昨年の)過去問を勉強しても、出題される確率が低いものを勉強していることになるから、少しタイムラグのある過去問を使って勉強した方が効率的かもしれない。


 

 だが、語学系の資格試験の場合はやはり極力新しい過去問を使った方が良い、と私は考える。なぜならば、使用されている語彙の流行みたいなものは、なるべく新しいにこしたことはないし、何よりも、過去問が高価なのだ。もちろん買えない金額ではないし、冊子1冊あたりの金額は3000円強と、一見手頃な金額になっているように思われるが、何せ1冊分に収録されている過去問数が少なく、コストパフォーマンスがお世辞にも良いとはいえる代物ではない。

 

 今回受験する語学検定のオフィシャルな過去問集は、複数の受験級ごとに冊子が編纂されている。そして1冊のに収録されているのは前年分となっているようだ(注:「ようだ」というのは、本屋でパラパラと昔閲覧した程度なので、厳密な意味で断言することは、現段階ではちとできない)。つまり、他の資格試験、たとえば情報処理の試験のように、過去5回分とか過去3回分とかでセットになっているのが常識であるが、この検定では、セットにしている単位が回数ではなく、受験級であるため、実質的に1回分しか過去問は手に入らないわけだ。だから、コストパフォーマンスが悪いのだ。

 

 それでも懐に余裕がある人であれば、数年分の過去問集を買って、分析することもできるだろう。しかし、限られた予算で過去問を買わなければならない人は、同じ金額を使うにしても、「死に金」にしないためにも、優れた書籍(この場合は情報価値ある、情報の鮮度のある過去問集)を選択して購入しなければならない。




 Office 2010の時もそうだったが、どうも今年は、何かを買おうとすると、タイミングが悪く待たされることが多いようだ。なので、さっさと出ろよ、過去問集!とボヤいておこう。






連載企画 古文漢文ネタの第3回目です!(おいおい、いつから連載になったんだ?)

今回のテーマは、ノートについてである。もちろんノートパソコンではなく、文房具としてのノートである。



学生時代、古文・漢文や現代文(ひっくるめて国語と以下には称する)の時間でのノートの取り方は、私は大嫌いだった。国語の板書は概して縦書きである。学生はその縦書きを板書するために概してB5のノートやルーズリーフを90度回転させてノートをとっていた。私も当時の国語の担当教員にそのように指導され、そのようにノートをとっていた。



しかしながら、ノートをとりながら、なんでこんなに使いにくい方法でノートを取らなければならないのだろう?と常々疑問を感じていた。通常のノートはA罫でもB罫でも横書きに設計されている。だから、縦書きに対応するためには、ノートを90度回転させなければならない。これがたまらなくイヤだった。第一、机の上のかなりの部分をノートが占めてしまう。それに普通の本のようにぱらぱらめくることもできない。また、大概の国語教師はノートを見開きに使うことを要求するので、手や視線が上下を頻繁なく往復した。

そこで、縦に罫線の入っているノートを探すことにしたのだが、これが思いのほか全然見つからない。有るには有るのだが、普通にノートをとるには、ちょっと列の幅が広すぎる。大抵のB5の横書きノートの場合A罫ならば30行、B罫なら35行に設計されているのだが、現在市販されている縦書きのノートの場合、1ページに多くても18列ぐらいで、20列のものは存在していない。だから、仮に市販されている縦書きのノートを使うと、1回の授業あたりで消費するページがハンパないほど多くなるし、結果として、見開きで収まらなくなるから、一覧性という観点からも大いに使いモノにならない。

だから、文房具メーカーさんにぜひお願いしたいのだけれども、通常の横罫のノートの行の幅ぐらいの縦書きの列のノートを作ってほしいのだ。たぶんこれがあれば、いちいちノートを90度回転させるなんていう煩わしい方法を取ることなく、すっきりした体裁でノートを使うことができる。結果として学習効率もUPすることだろう。

前回、古文と漢文の教材の豊富さから、古典語の教材の貧弱さを嘆いてみた。今回はその反対に、我々日本人にとって学校教育での古文、漢文の教材について批判(=吟味)してみよう。

自慢ではないが、私は高校生までは英語は得意科目の1つであった。その一方で古典の授業は好きではなかった(し、かといって大嫌いでもなかった)。それゆえ、古文・漢文とも得意でもなければ、大の苦手でもなかった。

でも、学校で教えられる古文・漢文の授業は全くと言っていいほど不満足なものだった。英語のようにグラマーやライティングのように文法に特化した授業はなく、ひたすら読解をやりながらちょこちょこっと文法事項をやっていくというパターンのものだったからである。つまり体系的な文法学習というのは、学習塾での指導を別にすれば、今までないのだ。

しかし、これは半ばしょうがないことなのかもしれない。読解は、語学の基本だからだ。だから、問題にしたいのは、読解させられた内容だ。和歌や○×日記みたいなものばかりで、全く退屈だった。でももしこれが、碑文の解読や、日本史の史料解読みたいな形だったら、もう少し違ったかもしれない。

もしくは現代の日本人と最も身近な部分では、たとえば神社の祝詞の読解や作文だったら、案外興味深く取り組んでいたかもしれない。もっともこれは、宗教の問題やイデオロギーが絡むのでそう安々と実践できるものではないが。

また漢文だったら、孫子の兵法を読んだり、占いに関心があるのであれば、風水の原典を読んでみたりしたっていいはずだ。中華料理の古典書でもいいかもしれない。碑文だって漢字のものは、日本以外にもごまんとある、楽しみは尽きないはずだ。

 前回、古典語でいいテキストが出ない理由をちょこっと考えてみた。それから多少の時間が経過した現在、さらにもう少しだけ論じてみたくなったので、ここで少しだけ論じてみよう。


 古典語の教科書(参考書)は、基本的に覚えるべき内容が決まっていて、だれがかいても同じになってしまう、ということを前回少し、指摘した。だが、これはよくよく考えてみると、そんなハズはない!ということに気付いた。


 われわれ日本人が受験生だった頃を思い出してみよう。高校・大学を受験した人ならば誰でも、現代日本語の古典語である古文や、漢文の勉強をしてきたはずだ。もっとも、受験のための(ある種偏った)勉強ではあったものの、古文や参考書を買い求めた読者も多いことだろう。参考書の中には当然人気の参考書や、受験のバイブル的な存在のものがあり、いわゆるベストセラーとなる。一方で、イマイチパッとしない参考書にしがみついて、あまり効率の良い勉強をしてるとは言えない学友も周りにいたのではないだろうか?


 どの参考書も、押さえるべきポイントは大体共通している。換言すれば、覚えるべきポイントといってもよいだろう。で、あるにもかかわらず、わかりやすい参考書とそうでない参考書が存在していた。実況中継もあれば、チャート式もあった。ステップアップ式のドリルもあれば、過去問集もあった。


 逆説的に言えば、最終的に覚えなければならないゴールは決まっていても、そこに到達するまでのルート・プロセスはいくつかあったっていいはずだ。もちろん、どのルートを行こうとも、必ず立ち止まらなければならない、ポイント地点は存在する。それゆえに、現在の古典語の教材は、標準コースではあるかもしれないけれど、ほかのコースの存在を否定するものであってはならないはずだ。


 それであるにもかかわらず、似たり寄ったりの不親切極まりない教材しかない出回っていないということは、学習者の(過剰な)リクエストが無視された結果であるというよりよりかは、むしろ、古典語の教育者の怠慢であるといわざるを得ないのではないだろうか??