残りの時間

  • 27Feb
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      母が変だと気づいたのは。。

      初めて、母が少しおかしいと気づいたのは、1年半前の夏でした。今ですら一見フツーに見えますし、日常生活には何の支障もないくらいですから、当時もなんの問題もなく、洗濯物を干したり、洗い物をしたりと家事もこなし、会話もおかしいところは全くありませんでした。夏休みで、娘が子供たちと来ていたんです。食後にマンゴーを剥いて出しました。子供たちが大喜びで食べ、母も一緒に食べている。子供に還ったように嬉々として、子供たちと競争のように食べている。微妙な違和感がわきました。子供たちと争って食べるなんて、私の知っている母にはありえないことなので、すご~く変な気がしたんです。最後の一切れになった時、「私がいただきましょう」と母の手が伸びた。あ、おかしい。母は変だ。認知症がはじまってるかも。そう感じました。すごく美味しいマンゴーで、子供たちが大喜びしてるんです。本来の母なら、それを見ているだけで幸せになり、自分は食べないでひ孫たちに食べさせるはず。食べても一切れ程度ですませるはず。現に私は手を出しもしませんでした。普段はマンゴーなんて食べられない孫たちに食べさせてやりたかった。自分が食べるより、孫たちに食べてほしかった。母も同じタイプだったはず。いや、むしろ、母がそうだったから私もそうなった。その母がひ孫たちと一緒になってマンゴーを食べている。ブレーキが壊れた。母は微妙におかしくなった。初めて意識した瞬間でした。それから徐々に見えないところで、ゆるやかに、何かが壊れ始めたんだと思います。それが今回の転倒事故で、一挙に加速した。身体にしみついた生活そのものには問題ないけど、今おきていることが記憶として蓄積されなくなった。仕方のない事ではありますが、しっかりしていた母でもこうなるんだと、現実を突きつけられて、さすがに気持ちは暗くなります。仕方のない事なんですけどね。ショートスティで少しでも改善してくれたら嬉しいんだけど。。

  • 26Feb
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      会いたくない(涙)

      主のいない母の部屋は冷たい空気が重くよどんで、寒々といのちの気配を失っている。ひっそりと静まり返って、空気も家具もすべてが硬い。部屋は母のいた時のままなので、いつ帰って来ても問題なし。部屋自体が母の帰りを待っていて、早く会いたがっている気配。そうではありますが、私は母に会いたくない。実は、ぜんぜん、まったく、会いたくない。なんでこんなことになったのか。。。若かったころは母が大好きで、30代の頃なんか母がいないと物足りなくて、帰ってくると嬉しかった。40代まではそんなだった気がする。母を嫌いになったのはいつからだろう。母はいつだって、世間の目を気にする。世間と言うよりは、たった20人程度の近所の目を気にして、彼らにどう思われるかを最優先。悪く思われるんじゃないかと気にするわけだから、どうしたって否定的なことばかり言うことになる。人にどう思われるかで自分の人生を決めるわけ?!他人の思惑で自分の人生を犠牲にするわけ?!母の考え方に強い反発がわいて、私は思う。自分の人生は自分で決める。他人の思惑なんかに縛られたくない。ますますそう思う。私が東京で仕事をして、夫が母と同居してくれているのだって、「世間の人に笑われる」と母は批判がましい。そう言うときって声まで卑屈になるんですよ。キッパリ感がなくて、おもねる感じ。言われるたびに嫌な気分になる。そんなこんなに反発して、世間が笑うなら、いくらでも笑ってもらおうじゃないか!!と思うようになってしまった。母のマイナス思考にうんざりして、嫌だという思いが蓄積されたのかもしれない。私はいろいろ言ってるわりに、今生きていることに対して、すご~く肯定的なんです。自分が必ず死ぬと分かっているから、めいっぱい充実して生きたいんです。否定的な言動に出会うと、本能的に反発してしまうんです。母に対して、愛情はあります。でも、好きじゃない。会いたくもない。母を施設から引き取って、自分で世話しようと思う気持ちは今でもしっかりとあります。実際にそうするつもりなんですが、母に会いたくない気持ちは変わりそうにありません(涙)なんでこんなに母を嫌いになったんだろう。負のスパイラルに巻き込まれまいとする防衛本能なのだろうか。。

  • 25Feb
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      生きることに期待しない

      ショートステイに行ってからは、すっかり元気で明るくなった母。トイレにも自分で行くし、顔も自分でちゃんと洗っているらしい。自宅にいた時は、私の用意した蒸しタオルで拭くだけ。洗顔なんて言葉はきれいさっぱり忘れていたと思います。そして、「はよう死にたい」「死んだ方がましや」と言い続けた。そうかもしれない、死にたいだろうなと私もひそかに同感してました。それでもいつだったか、ポロッと、「ほんまは死にとうない」本音をもらして、すごくびっくりさせられたこともあります(笑)何歳になっても、介護されるようになっても、何もかもが不自由で、痛くて苦しくて、生きているのが大変でも、人間はやっぱり、生きていたいと願うものなんですかね~もう7年くらい前の話ですが、私は子宮がんになりました。不正出血が切れ目なく1年も続き、ネットで調べて、自分でも子宮がんだと自覚しましたが、病院に行かずに放置しました。その後、友人に勧められた『「抗がん剤は効かない」の罪』を読んで、近藤誠氏のがん放置説が間違いだったと知りました。ようやく意見を変えることができたんです。手術や抗がん剤治療を受けました。おかげで今も元気でいるのですが、放置していた当時は死を覚悟していました。どうせいつかは死ぬのだから、死因が子宮がんになるだけのこと。どうせ死ぬなら、苦しい治療なんかしたって意味がない。そう思っていました。死にたいわけではないのです。死にたくはない。でも人間である以上、死ぬのは仕方がない。だから、病気によって死期が早まるのも仕方がない。そう思っていたんです。医者や医療への漠とした不信感があり、西洋医学への違和感があったためではありますが、いちばん大きな理由は生きることに価値を見出せなかったからかも。私なんかが生きていて、いったい何の意味があるだろうか。本気でそう思いましたし、今でもそう思っています。だからと言って、死にたいわけでは決してないですよ。生きていて、何があるというのだ?!今でもやっぱりそう思うんです。私が筋肉を鍛えておこうと努力しているのは、生きるためではなく、長生きするためでもなく、死ぬための準備でしかありません。死の間際まで、自力で生活したい。そう思うから、だけのことです。悲観的過ぎると言われるかもしれないけど、私なんかが生きていて、何の意味があるだろうか。。介護の必要な母でさえ死にたくないと言うのに、私はよくよく生きることに期待してないってことでしょうね。。

  • 24Feb
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      施設に居たくない理由

      母がロングショートで入居している施設から、ようやく面会に来てもいいという連絡があり、夫が行ってきたんです。ケアマネさんも一緒に行きたいと言うので、現地での待ち合わせになりました。面会日の前日、施設の人が明日は夫が来ると伝えたら、「一緒に帰ります」と母は言ったらしい。なので母に会う前に事前打ち合わせをしましょうとケアマネさんから連絡があり、私が東京に帰ってしまったから、自宅に帰っても世話をする人がいないと説明することに決定。母はショートステイに適応していて、母のテーブルに他の人たちも座りたがるらしい。母は楽しい事を言って周囲を笑わせたりして、みんなに好かれているらしい。まあ、分かる。私に対する時はコロリと変わるけど、外部の人が相手だと、優しくて、明るくて、包容力も感じさせるからな~もちろん母も気をつかっているんです。面白くない、つまらないと感じても、それを押し殺して調子をあわせ、いかにも楽し気にふるまっているんだと思う。だから疲れて、うんざりして、一人になりたくなる。私も同じタイプだから、よく分かります。誰だって、そうやって周囲に気をつかっているんですよね。だから生きるのが重くて負担になるわけだし、一緒に居て楽しい人との出会いが貴重なんですよね。そんな人と出会えることって、両手の指で数えられるくらい。。心が通じる相手って本当に貴重。今あるつながりをもっと大事にしなければと、改めて自分に言い聞かせています。

  • 23Feb
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      役割を失くすツラさ。。

      母を見ていて、つくづく思いました。役割を失くすことの辛さ、です。自分はただ生きているだけ。身体がしんどいから何もできないし、したくない。心は悲鳴を上げる。自分が何の役にも立っていないこと。誰の助けにもならず、かえって迷惑をかけるだけの存在であること。それを心が受け入れたがらない。母は「97歳」を日に何度も繰り返していました。同じことを何度も繰り返すのは、もちろん認知症のなせるわざでしょうが、それだけではないような気がします。97歳にもなったんだから、何もしなくていいんだ。役に立たなくてもいいんだ。「97歳」を連発することで、自分を納得させ、心との折り合いをつけようとしていたのではないか。心というのは厄介なものですね。頻尿も、年齢にともなう機能の衰えなど、いろいろ要因はあるでしょうが、心との兼ね合いかもしれないと私はちょっと思っています。何もすることがない、役割を失った状態で、唯一残されているのが排泄。自分の体に対して、心が役割を果たせる行為。だから頻繁にトイレに行くのであるような。。本当のところは分かりませんが、悲しむ心が届いてくるような気がするのです。

  • 22Feb
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      死に直面して。。

      今までずいぶん死について考えたり、本を読んだりしてきました。人は必ず、死ぬ。もちろん、自分も必ず死ぬ。そう覚悟し、死を身近な物と意識していたのに、母が死ぬかもしれないという事態に遭遇し、現実的な死を目の前につきつけられると、蓄積したはずの知識が雲散霧消。な~~んにも残っていなかった。転倒が引き金になって、ほとんど食べなくなり、1週間あまり水とジュースしか摂らず、ポータブルトイレで自力排泄はしたものの、排便はないまま、ほとんどの時間トロトロと眠り続けた母。1月2日に転倒したのですが、衰弱ぶりがはなはだしくて、2月まではとても持たないと思いました。驚異的に回復して以前の状態に戻ったけれど、一時は死の淵まで行ったような気がします。母の死を意識して、まず浮かんだ「やるべきこと」が、誰に死亡診断書を書いてもらうか、でした。そのためには訪問医が必要。真っ先に訪問診療の手続きをしました。つまり死は抽象じゃなくて、すっごく具体的な現実問題だった。それだけじゃないんです。考え方の間違いも思い知らされました。最後まで自宅で過ごすことが最善と、確信的に思いこんでいたけれど、鬱っぽくなった母の姿をつきつけられて、あっけなく崩れ去った。人は最後まで外界との接点が必要。他者の存在がいのちを活性化させるのだと知った。母が元気をとりもどしてショートステイに行き、日々の介護もなくなって、現実的な死が遠のいてしまうと、またしても死はあいまいで遠い物になってしまう。死って直面したときに向き合えばいいのかも。事前にあれこれ考える必要はないのかも。我々がやるべきことは目の前の現実と向き合うことかも。そんなことを思いながら、今朝もせっせと縄跳びをしました。朝は楽勝で100回跳べるけど、夕方になると筋肉の疲れが実感できる。足が重くて、縄がひっかかるミスも多くなるんです。老化って疲れが溜まることなのか。そんな気がするくらい、夕方になると足に筋肉疲労が。。そうやって、日一日と死に近づいてるってことなんでしょうか。

  • 21Feb
    • 介護する側とされる側の食い違いの画像

      介護する側とされる側の食い違い

      私と一緒にいる時の母は、膝の痛みを訴えると同時に、「情けない」と言い続けた。トイレにすら自力で行けなくて、娘に頼らざるを得ない自分を弁解していたのか。申し訳ないと思う気持ちや、感謝を、「情けない」という言葉で表現していたのかもしれない。何かをしてあげると必ず「ありがと」と言った。私が寝る前に部屋をのぞいて様子を聞くと、「なんちゃない」の後で「ありがと」と必ず言った。だから「情けない」と独り言のように言うのであっても、それはある種の訴えなのだから、私もちゃんと言葉にして、そんなことないよと言ってあげればいいと分かっているし、他人になら問題なく言えるんだけど、なぜか、母が相手では言えなかった。私は無言で母の歩行を支えるだけ。優しくしたくないというのではない。母によれば私の介護は至れり尽くせりで、「よくそこまで気がついてくれる」と感心されてたから、物理的にはかなり優しくできるのだ。物理的な配慮はいくらでもできるのに、精神的な配慮はできない。精神的な事こそが最も大切だと分かっているのに、できない。私が側にいない時、近くに居ても、私が居ると気づいていない時は、「つらい」と「寂しい」を連発していた。「つろうて・・つろうて・・・つろうて・・」うめき声のように、低い声で、辛さを声に出す。「痛い」ではなく「つらい」と言う。痛みより、つらさの方が勝っていたのだろう。あるいは「寂しいて・・寂しいて・・・寂しい・・・」と言い続けた。まるで心の叫びが声になって漏れ出てくるような様子だった。「つらい」も「寂しい」も本音中の本音だったのだろう。介護される側の求めは「心の痛み」を分かってもらえることだったのかもしれない。介護する側は、そこに寄り添いたくない。他人であれば寄りそえるけど、肉親の、特に母親相手には寄り添いたくない。介護って一筋縄ではいかない厄介な問題なんだと痛感します。

  • 20Feb
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      頻尿

      急速に衰えた母の介護をして、気になったことのひとつ。頻尿です。母はいつ頃からこれほど度々トイレに行くようになっていたのか。とにかくトイレに行きたがる。そのつど私が歩行を補佐。「脚が痛い。いや脚でのうて痛いのは膝や」「右膝が痛とうて歩けん」毎回毎回、母は同じことを言いながら、私にすがりついてトイレに向かう。トイレまで行ってドアを閉めると、後は自分でできるので、私はドアの前で待機。いや、ずっと待ってるわけではなくて、食器をしまったり、何かちょっとしたことをしたりするんだけど、水を流す音に注意を集中して、流す音が聞こえたらトイレの前に急行。ずっとお待ちしておりましたって顔で、再び歩行補佐をするわけです。「情けないのう。。」再び母は同じ言葉を繰り返す。行きは「痛い」帰りは「情けない」。常に同じ。たまには違うことを言ってくれないかな。。。心で思うだけで、何も言いませんけどね。日中はそれでもある程度は間隔がありますが、夜になると頻繁になる。寝る前になると、トイレに行って寝間着に着替え、またトイレ。「痛い」と「情けない」を繰り返しつつ寝室に行って、またトイレと言う。行ったばかりだから出るわけないと言っても、「ほんでも出たい気がする」と主張。夜の8時に寝て朝6時過ぎに起きるまで、ポータブルトイレを5回か6回使用。溜まった尿量は普通の1回分にもみたない。頻尿という言葉では足りないくらいの頻尿ですが、自力で排泄してくれるのはありがたいし、なにより母自身にとって排泄行為には満足感があるのではないかと思う。すっきりしたという体感もさることながら、自力で排泄できるのが生きる指標になっているかも。そんな気がして、頻繁なトイレ行きの補佐をしていたのでありました。ロングショートステイに行ってからは、トイレに行くのもひとりで出来ているらしいです。

  • 19Feb
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      謝れ~~!!

      どうでもいいような、くだらない話で申し訳ないんですけど、夢を見たんです。めちゃくちゃリアルで、現実を示唆するような、ひどく暗示的な夢でした。文京区の本郷通りを歩いていたら、勝俣先生が、ガードレールの上にへなへなと崩れた。毒殺だ!!とひらめきました。ロシアの反勢力運動家アレクセイ・ナワリヌイ氏の毒殺未遂事件のことが頭にあったんだと思います。ナワリヌイ氏は助かったけど、意識不明で大変だったらしい。とっさに、ナワリヌイ氏のそんなこんなが閃いたんです。勝俣先生のこの倒れ方は尋常じゃない。早く何とかしなければ死んでしまう。私は彼を抱きかかえて病院に運ぼうとする。さすがにお姫様抱っこはしてないし、肩にかついだわけでもないですけどね(笑)どうやって運んだのかは思いだせないけど、抱えて運びながら、先生が細くて軽いから助かった~なんて思ったりして、気がついたらスカイツリーにいる。本郷通りは東大病院が目と鼻の先だし、日医大病院だって近い。それなのに、なんでスカイツリーになんか来てしまったんだろう。激しい後悔がわく。いや、いや、呑気に後悔している場合じゃない。早く電話して救急車を呼ばなければ。。スマホを持っているはずなのに、なぜか公衆電話から掛けようとする私。119番だよねと思ったら「救急車は9番」と書いてある。へえ~短縮されたんだな~感心しつつ電話しました。そしたら、なんと!!電話に勝俣先生が出たんです。ええっ、ここで死にそうになってるのは誰?!なんでもうひとりいるわけ?!私はめちゃくちゃ混乱しつつ、「毒殺だと思うんです。死にそうなんです」必死に訴えるのに、彼は醒めた声で、「時系列で説明してください。何時何分にどこで発見しましたか」こんな顔↓で、冷静に要求する。倒れた場所なんて、そんな事が重要だろうか。一刻も早く手当てするほうが大事なんではないだろうか。今が何時なのかすら不明なのに、発見したのが何時何分だったかなんてわかるはずもない。わめきたてたんだけど、受話器から聞こえる声は冷たい。客観的な状況把握もできない無能なヤツめ!!そんな気配が伝わってきて私は余計にアタフタ。本郷通りからスカイツリーにテレポーテーションしましたなんて言ったら、アホか!!と叱られること間違いなし。でも、でも、でも、、ぐずぐずしてたら死んじゃうのに、何時何分だの、倒れた場所だのがなんでそんなに重要なのよ~いくら言っても通じない勝俣先生の頑固さに、困り果てて、目が覚めました。もう~~私が先生を助けようと必死になっているのに、当の本人の勝俣先生が邪魔だてする。私をこんなに困らせて・・・謝れ~~と言いたい気分でした(笑)3月28日のメディカルライブが迫っているので、私もいろいろ気持ちが追いつめられているのかも。チケット購入はこちらから↓↓どうぞ。メディカルライブ 2021年春メディカルライブ、今回は、何と上野恩賜公園野外ステージにて開催いたします!本会は、医療者と患者さんが、音楽を通じて、互いに楽しもうという趣旨で2017年より開催しており、今回で第8... powered by Peatix : More than a ticket.medical-live.peatix.comひとりでも多くの方にご参加いただきたくて、私は必死になってます。ほんとに楽しいライブなんですよ~♪

  • 18Feb
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      ・・なんとかやってます

      ロングショートステイで母がいなくなって以来、ブログの更新だけは続けているけど、それ以外はひたすら主婦業に専念するだけの日々。長期的な目標は皆無。希望が見えない。希望なんてナイんだから、見えるはずがない。目の前のことをこなすだけ。進むべき目標のない生活。どこへ向かえばいいのか分からない。虚しすぎるんじゃないか。耐えられないんじゃないか。危惧していたし、今でも重苦しい不安はあるけど、やってみると、それなりに充実している部分もある。今のところは、ですけどね。心の一部に不安が潜んでいるのに、夜も熟睡できるのが我ながら不思議。いろいろやっているから、かな~おびただしく実のなる金柑を毎年せっせと収穫して、あっちこっちに送っていたけど、今年はどこにも送らず自分で処理。初のジャム作りに挑戦しました。何回か作ったんです。ようやくこれで最後になった。金柑ジャムはまず金柑を茹でる。それから種を取りつつ、刻んで、刻んで、ひたすら刻む。小さな実に大量の小さな種。取って、取って、取る。金柑ジャムは自家製ヨーグルトに入れるので、いくらあっても困らないんです。種取り作業にすっごく時間はかかるけど、出来上がりはすご~く美味しくて、大成功。夫が美味しいと言うので作り甲斐があるんです。小豆を買ってきて、水ようかん作りにも挑戦しました。前の夜から水につけ、何度か茹でこぼして、煮る。砂糖を投入して、甘さ控えめにしたんだけど、ちょっと塩をいれすぎた(笑)ふやかした寒天をちぎり入れて、混ぜて、混ぜて、混ぜ続けて、あら熱が取れたあたりでパットに流し込む。砂糖も塩も、寒天もすべてテキトー。これがマズかった。塩が多すぎたし、寒天も多すぎた。それなりに美味しいんだけど、夫が美味しいと言わない(笑)目標は↓この水ようかん。とろりとして、ほんとに美味しい福井の名産。寒天の量を減らして再挑戦するつもりです。その前に、出来損ない水ようかんを食べなければ。夫が美味しいと言わないだけで、それなりに美味しいんですけどね。。(笑)

  • 17Feb
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      喜びがなくなる?!

      年をとることで生じる穏やかでゆるやかな老化と、死に向かう老化は明らかに異質だ。母を見ていてそう思った。死にむかう激しい老化は、坂道を転がり落ちるようなもので、心をむしばむ。感情を失わせる。悲しみや寂しさは最後まで残るようだと母を見ていて感じるけれど、嬉しいと感じる感情は弱まってしまい、喜びを感じることも無くなってしまう。母はもともとあまり喜ばない人ではあった。花が咲いたとか、夕焼けが美しいとか、自然現象には強く反応して感動を表現するんだけど、プレゼントされて素直に喜んだことがない。服を買ってあげても、派手すぎると必ず言う。色がどうの、襟の形がどうのと、何かしらを見つけ出して不満を言う。本当は嬉しいのかもしれないけど、喜びは決して見せない。喜びを見せないのは日本の伝統的な美意識なんだろうか?私も子供の頃、歯を見せて笑ってはいけないと叱られ、はしたないと言われ、笑う時は手で口元を隠すよう教えられた。それが日本式の作法だったんだと思う。で、喜びですけど、認知症が始まると、まず喜びの感情が衰えるような気がする。根強く残るのは悲しみや寂しさなどのマイナス感情。喜びの少ない灰色の日々。そうならないためにも、最後の最後まで、喜びアンテナを生き生きと保たなければと、強く意識するようになりました。だからと言って、どうすればいいかは不明ですけど。。。

  • 16Feb
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      なんとか適応しているけど、実は。。

      最初の日は抵抗らしき反応があったものの、その後の母はどうやら適応しているらしい。ただしそれは母自身が周囲にうまく調子を合わせているだけであって、入居そのものを受け入れたわけではない。夜になると必ず、「なんで私はここに泊まるんかしら?」と聞きただし、暖かくなるまでだと説明されても、「そんな話、私は聞いとらん」と言うらしい。それだけが母の引っかかりであり、ささやかな抵抗の表出。自宅願望が強い信仰みたいになってるから、施設はどうしても感情的に受け入れられないんでしょうね。母は私を恨んでいるかもしれない。それが気になります。胸が重くなる。母にしてみれば、世話をするのが当然の娘が役目を放棄して、母親を施設にいれた。娘に捨てられたと感じているのではないか。誤解されたままなのは苦痛。飛んで行って弁解したいところだけど、説明したところで忘れてしまうのが分かっている。入所前だって、何度も何度も説明し、そのたびに「うん、わかった」と納得していたのだから。手の打ちようがない。こういう場合はどうすればいいんだろ。。しばし悩み、いろいろ考えて、自分が母から良く思われたいだけのことだ。それなら悪く思われることを私が受け入れればいいだけだと結論。夫は母を安心させるためには私が東京にもどってしまって家に帰っても世話する人がいないからだと伝えた方がいいと言う。私は会いに行くつもりだったから、その説明は発想すらしなかったけど、母を納得させ安心させるのは、それが最善なのかもしれません。心ってほんとに難しい物ですね。。もろくて、薄くて、傷つきやすい。だから美しいのかもしれませんけど。。。

  • 15Feb
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      唐辛子にやられた。。

      のっけに出します。唐辛子です。エライ目にあいました。母がロングショートステイにはいって、私は介護生活から解放され、精神的にも時間的にもかなり楽になりました。でも、悲惨な事態に遭遇してしまった(笑)どこかに出かけるわけでもなく、外食するわけでもなく、まったく以前と同じ家事に精出す日々がつづく。で、まずやったのは白菜漬け。唐辛子をたくさん入れた方が美味しいし、夫が唐辛子好きだから、頑張ったんです。赤唐辛子を半分に切って、中の種を出して、刻む作業をせっせとした。ゴム手袋もせずに素手でやったから、左手の指先あたりがヒリヒリするのは感じていました。でも、まあ、たいしたことはないと思っていたんです。ところが、お風呂にはいったとたん、左手のあまりの痛さに飛び上がった。慌てて湯船から手を出して、何を血迷ったか、ほとんど無意識に、顔をつるりと撫でてしまった。ヒェ――!!!今度は顔がヒリヒリ。特に目のまわりのヒリヒリ感がひどい。慌てて湯船から出て、冷水で洗い流そうと蛇口を押したつもりでシャワーを押してしまい、頭の上から冷たい水が降り注いできた。ヒェーーーー!!弱り目に祟り目とはまさにこの事。頭からは冷たいしずくが垂れてくる。冷たくて、寒くて、まさに拷問。でも、とにかく顔をなんとかしないと。。寒いの冷たいのと言ってる場合じゃない。マブタがヒリヒリして目も開けられない。冷水でなんども顔を洗ってなんとかヒリヒリ感が収まったけど、頭はどうする?!もちろんシャンプーすればいいんですけどね。左手が痛くてお湯は無理。まさかの冷水で頭を洗うのは不可能。絶対に無理!!しかしお湯で洗うには左手がお湯に反応して痛すぎる。仕方なく、右手オンリーで洗髪しました。めちゃくちゃ不便だった~(笑)さすが人生には山あり谷あり。可憐な梅の花に猛々しい雄しべが存在するように、平たんで楽勝に思える家事労働にすら、思わぬ伏兵が潜んでいるのでありました。

  • 14Feb
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      縄跳び始めました~♪

      母が居いた時は、いつ呼ばれるか分からないので、何をしていても意識は常に母に向いていました。必要な時に呼ぶわけだから、すぐに反応しないと母が困るだろうと思い、近くに居て障子の桟を拭いたり、引き出しの片付けをしたりしてたんです。母がロングショートステイで居なくなって、時間のすべてが自分のものに。なので、縄跳びを始めました。ずいぶん前から夫が縄跳びしていて、勧められてはいたんです。ほんの10分程度のことなんだけど、気持ちの余裕がなくて、その気になれなかった。ようやく母から解放されたので、やってみようかって気になりました。暗くなりがちな気持ちをアップするのにも良さそうなので、両足をそろえてピョンピョン♪初日は50回まではノーミスで跳べたけど、すでに息切れ。二日目は50回までは楽勝♪息切れもなし。でも両日とも100回でギブアップ。マラソンを走らされた後みたいに肺が苦しい。ハーハーする。そんなわけで、縄跳びを100回ずつ、朝晩やってみようかなって気になってます。夫は300回ずつやっているので、それを目標に頑張ってみよう♪夫は縄跳びで着々と体重が減ったらしい。私より5キロも少なくなっていて、私としてはムッとした(笑)。でも、夫が細くて奥さんが丸々体型なんて世の常の夫婦の形だ。ムリクリ自分をなぐさめたけど、私の作った食事を食べるようになって、「一ヶ月で4キロ増えた」と夫は笑ってた。元々細い人だから、4キロくらい増えたって本人なんてことないんですよね。それでもまだ私より軽いわけだから、私も本気で頑張るゾ!!続くといいんですけどね。。縄跳び、そんなに楽しいわけでもないからな。。スクワットしかり。いいと分かっていても、楽しくないと続けられない性格なんですよ~自己コントロール力が弱いのだろうか。。でも、短い人生。やっぱり楽しい事しかしたくない~(笑)

  • 13Feb
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      あくびは・・認知症だった?!

      今になって振り返れば、母はかなり以前から認知症の傾向があったかもしれない。衰えが目に見える形になっていた。認知症と名付けるほどではなかったけれど、衰えは夫も私もキャッチしていた。一年以上前から、頻繁にあくびをするようになっていたんです。朝食を食べ終わってすぐくらいから、あくびが始まる。日中も、何度も何度もあくびをし続ける。夕方は特にひどい。立て続けにあくびをする姿は、投げやり感が満載で、いかにもだらしなくて、あくびは自然現象だから仕方がないとは思うものの、見ていて嫌になるくらいだった。傾眠傾向もあった。陽だまりの縁側の椅子に座って本を読んでいたはずなのに、いつの間にか腕組みをして眠っている。昼食後も食卓に突っ伏して眠っている。半年くらい前からは、本を読んでいても、理解してないんじゃないかって感じがしはじめた。一冊の本を続けて読むんじゃなくて、そこにある本を手にとって読む。読むという行為で満足している気配。年末に私が帰省した時は、すでに大好きだったテレビ番組にも興味を示さなくなっていた。な~んだ、完全に認知症の初期症状じゃないか!!分かってはいたんです。でも、97歳という年齢相応のような気がしたし、老年外来に行って改善するとも思えなかった。このまま自然に心も体も衰えて、死にむかうのが自然じゃないかって気がしたんです。それでも私に対してだけは、相変わらずの反応。髪をちゃんと梳かせと言い、そんなに食べたら食べすぎだと言い、常に変わらず批判的。早くお風呂に入れとも言っていたし、戸締りをちゃんとしたかと確認もしていた。食器を拭いたり洗濯物をたたんだり、お風呂のお湯張りをしたりと、日常生活には支障がなくて会話も正常だったから、認知症だとしても問題はなかった。全身で衰え感を発散していただけだった。最後の最後まで元気溌剌でいることは理想だけど、衰えて、鬱っぽくなって、すべてに興味を無くして死に至る。それも自然なことだと思うようになりました。なりたいわけではないですけどね。。

  • 12Feb
    • 混乱すると抵抗する?!の画像

      混乱すると抵抗する?!

      母の入居した日の午後、夕方くらいに会いに行ってみようかと思ってました。入院と同じような気がしていたから、毎日会いに行くのが当然と思っていたんです。そろそろ外出の支度をしようかなと思ったところへ、ケアマネさんから電話。彼女も母の様子を知りたくて、会いに行くつもりで施設に電話を入れたと言う。結果、来ないでくださいと言われたらしい。理由は母がショートステイを理解してないから。お迎えに来た施設の人は私が「3月末までだからね」と言って送り出したのを見ていたし、母が「うん、わかった」と答えたのにも気づいていた。それなのに、車が動き出したとたん、母はすべてを忘れてしまった。日帰りのデイサービスに参加するつもりになってしまった。つまり宿泊する気はない。おそらくデイサービスに参加するのさえ不満だったのだろう。意に反したことはしたくないのが我々親子の特性。私も子供の頃「我が強い」と言われていた。我というのが何なのか意味が分からなかったけど、、自分はそうなんだな~と思ってました。小さい頃から嫌なことはしたくないと自己主張してたのかも。母も同じタイプだったらしく、初日のこの日はお昼ご飯を拒否。「うちは食事の時間が決まっているので、時間外には食べられない」と主張したらしい。食べたくないわけではなかったと思うんです。確信的な表情で、威厳を示そうとする母の姿が見えるようでした。その後はちゃんと食べるようになったらしいけど、初日の初回の食事は「食べないこと」で自己主張したんでしょうね。そんなことしたって何の意味もないのに、それしか自己主張のすべがなかったんだろうな。ちょっと哀れな気がして胸が痛かった。みんなで塗り絵をする時も、塗り絵を拒否。幼稚園児じゃあるまいしと思った可能性が大きい。塗り絵は脳を活性化させる作用があるし、精神を安定させる効果もあるんだともっと早くに伝えておけば良かった。帰省する時は母の好む数独やナンプレばかりお土産にしてたんです。塗り絵が流行っているのは知っていたけど、母はその手のものを好まないような気がして、ゲーム感覚で楽しめる川嶋隆太さんの脳トレ関係の本は買ったけど、塗り絵は一度も買わなかった。それが裏目に出てしまったか。私もいざという時に備えて、もっと心を柔軟にしておかなければならないなと反省。しかし嫌いなものは嫌いだしな。。光もさしているけど、影も多い母の頭の中。そんなこんなで母はまだ不安定だから、会いに来ないでくださいと言われたらしい。ケアマネさんが来るなと言われるくらいだから、私も会いに行かない方がいいとケアマネさんは言う。確かに現場の人がいちばん分かるだろうから、それに従うしかないですよね。母が「見捨てられた」と思うんじゃないかと気がかりだけど、施設に慣れてそこでの生活のリズムをつかむことが最も大切。どうやら「寂しい」という嘆きはないようなので、それは本当にホッとしました。お風呂も最初は拒否したけれど、別の人に勧められて素直に入浴したらしい。一ヶ月ぶりのお風呂。さぞかし気持ちよかっただろうと、肩の荷がおりた気分です。

  • 11Feb
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      あまりに・・ひどすぎる!!

      ひどい。ひどすぎる!!あまりのひどさに言葉を失ってます。今までだと母に隠れてコソコソやってたけど、母が居なくなったので、誰はばかることなく大っぴらに押し入れの片付け。ヤル気満々で取り組んでいますが、もう、ヒドイ、です。写真を撮ってお見せしたいけど、恥ずかしすぎて、とても無理。とにかくすべて突っ込んである。一応は分類していたらしい形跡があるんだけど、擦り切れたり穴の開いたりした下着もあるし、新品の下着類や靴下まで、大量にある。買ってきたままで放り込んであったらしい。お店の袋にはいったままのものまで、ある。ソックスがないと言って、私に買いに行かせたのは何だったのか。ごった返しをひっくり返してちょっと探せば、ソックスなんて山盛りなのに。。私があきれたり嘆いたりしていると、「お母さんがここを開けるの見たことないよ」と夫は言う。確かに私もこの数年、母がここを開けるのを見たことがない。閉め切りで放置。見えないものはナイと思いこんでいたのか。エプロンや割烹着も山のようにある。新品の割烹着も、すでに折りジワが黄ばんでいる。母はもうずっと前から認知症になっていたのかも。母の頭も、押し入れみたいにぐちゃぐちゃだったのかも。だから整理が出来なかったのかも。その割に会話はまともなんだけど。。いやいや、違うかもしれないぞ、とパリ時代の友人のことを思いだした。パリと言えば、記事とは何の関係もないけど、上部に写っているのはパリの我が家の桜。長女と次男が一緒。当時の私はピンヒールを履いていたんだな~40代だったからな~としみじみ昔を振り返る(笑)で、友人の話です。彼女がある時、パーティに着ていく服がないと言う。「あの服があるじゃない。アレを着ればいいじゃない」「どこにあるか分からないんだよ」「????」「ゴミ袋に入れて仕舞ったんだけど、袋がいっぱいあって見つからない」そして私の服を着て出かけて行った。その服をすごく気に入ったというので「じゃあ、あげるよ」。その後またしても「あの服どこにしまったか分からなくなった」と電話してきた。彼女は40代だったし、認知症なんてものとは無縁。単に整理ができない体質ってことで、母も同じ体質ってことだったのかもしれない。それにしても自分の持ち物を把握できてないって、気持ち悪くないのかな。。私がちゃんと出来てるわけではないけど、少なくとも母のように大量に買い込んだりはしていない。我が母ながら、日々驚かされています。数学が得意で頭の良さを自負していた母の思いがけない別の顔が見えてしまった。私、「この子は頭が悪い」と言われ続けて、自分の頭の悪さが致命的に思え、40過ぎまでコンプレックスに悩まされ続けていたんだけどな。。。

  • 10Feb
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      母が居なくなって。。

      母がロングショートステイという形で施設に入居。お迎えの車に乗り込んで機嫌よく出かけた母を送り出し、ホッとはしたものの、不思議と何も感じない。さしたる感慨はなし。そんなものかな~鬱っぽい母に影響されたせいで、私も感情が動かなくなっているのかも。やたら淡々とした自分の感情を他人事のように眺めていました。解放感がわいたのは、母の部屋を片付けた後。シーツも枕カバーも寝間着その他もすべて洗濯し、ベッドや部屋を整えて、いつ帰って来てもOKの状態になった時、不思議な解放感がわいてきたんです。ヤッターーって感じになった(笑)久しぶりに自由になった気がして、心が広々と広がった。青空が広がったような心が伸び広がる解放感♪もちろん母は3月末には帰宅する予定だけど、施設暮らしにうまく適応できるようなら、延長も可能なんです。だから様子見。「なるようになる」と心から思える状態になりました。あまりにも解放感がわいたので、外に食事にいこうよと夫に提案。「そうだね」と否定はしないものの夫はそんなに乗り気じゃないのが分かる。彼はお家ご飯の好きなタイプ。外での食事より、私の作ったものを食べるほうが好きなんです。む、む、む。。私は料理が得意なわけでもないのに、なんで?疑問がわきかけて、気がついた。長い長い結婚生活のあいだに、私は夫の好みに合わせた味付けになり、彼の好むものを作るようになってしまっているのだった。.そのせいで外で食べるより家で食べるほうがいいと夫は思うようになってしまった。ガーーン、不覚!!しまった!!!今ごろ後悔しても、もう遅い。「美味しい」と言って食べてくれるのはありがたいけど、自分で墓穴を掘ってしまった感じです(笑)

  • 09Feb
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      忘れて、忘れる。。なんとか成功!!

      当初は2月22日からの入居と考えていたんだけど、万が一、に備える必要があると思いなおした。母が適応できない可能性もあるわけだから、その時に慌てふためくことがないように、入居を早めてもらいました。そしていよいよ、ショートステイのお迎えの日。持参すべき荷物など、すべての準備は整っている。あとは母本人の準備だけ。とにかく着替えをさせなければならない。私はひとりで焦っていました。この日は朝、私が起きるのを待たずに、午前5時に目を覚ました母が、自分一人で着替えたんです。パジャマのズボンの上にズボンを重ねばきしてる。寒いからか面倒なのか、パジャマのズボンを脱ぎたがらないんです。こんな格好で出かけさせるわけにはいかない。なにより母自身が屈辱感を感じるはず。でも、着替えを嫌がるのは言いだす前から分かっている。意を決して、着替えをしようと持ちかけると、「もう、えろうて、えろうて、息するだけでもえらいのに、着替えやできん」思ったとおりの反応だった。着替えなんかしないと、母は断固として主張。しかし負けてはいられない。「けどお迎えが来るんや!!」あえて何のお迎えかは言わない。予想通り母はデイトレのお迎えだと思いこむ。「こんなんで・・・デイにや行けんのに」体調の悪さを嘆きつつ、それでも迎えの人を待たせてはいけないという意識が働くらしく、寒いの、冷たいのと、ぼやきつつ着替える。デイサービスは室温25℃。暑いと感じるくらいだから、セーターを脱がせてブラウスにする。足首に巻いた磁器ベルトを外すので、「なんで外すん?」「電気するから外さないかんのや」「デイトレと違うんや。別のとこや」と説明すると、「どこな?」「こないだ丸井さんが来たやろ。丸井さんのとこや」母のよく知っている地区に新設された施設だと再度説明。私が留守になることも再度説明。だから3月末まで入居するんだと数回目の説明。聞いているのかいないのか、「髪の毛がボサボサや」と櫛をさがすので持込用の荷物の中から出してきて渡す。朝ちゃんと梳かしたのに、髪の毛を再度とかす。すべてが「再度」あるいは「複数回」繰り返される。ようやく準備ができたと思ったら「帽子」と要求される。あ、帽子が必要だったのかと慌てて箪笥から出す。帽子をかぶった母は「鏡は?」手鏡も荷物に入れたあったので、取りに走る。帽子の具合を確認して満足した母の手から、鏡をひったくって、もう一度、荷物にしまう。荷物(小型の箪笥)は母の目に触れないように玄関先に出してあるので、私はその都度行ったり来たり。ようやく、すべて完了。ちょうどお迎えの車も到着。母はさしたる困難もなく車に乗り込み、お迎えの方たちと機嫌よくおしゃべりしながら出かけたのでした。「寒い間だけやから、3月末までやから」と再度の説明に、「ふん、わかった」とうなづいたから、良かった、ちゃんと分かったんだなと思ったのですが、車が走り出したとたんに忘れて、「今日は何時に帰れるんかしら」と聞いたらしい。忘れて、忘れて、忘れてしまう。どうして、こんなに忘れるようになったんだろう。。施設に行きたくないという、無意識の抵抗なのでしょうか。。

  • 08Feb
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      悲惨なばかりじゃないんだけど。。

      母の調子も安定してきて、買い物に行くと伝えても以前のように「ひとりにされたら困る」と言わず、「はい、どうぞ」と送り出してくれるようになりました。散歩に出るのも可能になったんです。母の目下の不安は自分ひとりで動けないってことだから、トイレさえすませておけば問題なし。私もかなり自由です♪風は冷たかったけれど、お日様燦々だったので、久しぶりに自転車で出かけました。目的地は子供時代に通っていた小学校。学校までは子供の足で1時間。激しく遠いです。学区が細長くて、うちは外れの外れ。私の2年だか3年だか後には別の校区に組み込まれ、私はそのまま遠い学校に通い続けたけど、下の学年はもっと近い別の小学校に通えるようになりました。この時動いて校区の変更をさせたのは母だったんです。私の通学が大変なのを見て、行動する気になったんでしょうね。なにしろ小1の子供が片道4キロを歩いて往復していたんですから。往復で8キロも歩いてたわけだ。今さらながら感心してます。今の私がタフなのは子供時代にたくさん歩いた結果なのかも。実際は小1の2学期くらいから自転車通学するようになったんですけどね。通学路には途中に池があって、二つの池に挟まれた細い土手が怖かった。上の写真の池と、下の池。ふたつの池にはさまれた土手道は細くて、風の強い日なんか吹き飛ばされそうになる。池に落ちるんじゃないかと本気で心配しました。今は舗装されて、こんなに立派な道になってます。車一台が通れるだけで、すれ違うことは無理ですけどね。記憶をたよりにたどり着いた小学校は、みちがえるほど立派に変身。横板をはった木造の建物はなくなり、今風の、個性のない建物になっていた。こ~んな感じで個性がない。どこにでもある学校の風景になっていた。でも、木には見覚えがある。この桜の木は知っている。満開の光景もおぼろげながら覚えている。美しいとも何とも思わず、風に舞い散る桜ふぶきを見上げていた記憶がある。桜よりも花びらを散らす風の力の方を印象的に感じていた。私の風好きの原点は、この桜だったのかもしれない。そして、この木↓にも覚えがある。ここに二宮金次郎の銅像があった。焚き木を背中にしょって本を読みながら歩いている子供の二宮金次郎。いかにも「いい子」ぶったお利口さんの顔で、私は二宮金次郎が嫌いだった(笑)「今」の光景の中に「昔」を見る。失くした時間が手繰り寄せられてくる。私は思い出とか思い出作りって言葉が好きではないけど、消えそうになっている過去をよみがえらせてくれる木々の姿には胸を打たれた。通学路の途中に同級生の家。その子は高校時代に亡くなった。私のまわりで一番早くに亡くなったのがその子だった。仲良しだったわけでもないのに、なぜか私のことをすごく好きでいてくれて、憧れていると言ってくれて、なぜ私なんかを崇拝してくれるのか不思議でたまらなかった。理由が分からなかったし、話したことさえほとんどなかったから、嬉しいというよりは困惑していた。眼鏡をかけた彼女の顔を今でも鮮明に思いだせます。今はすっかり舗装された通学路。不思議な時間が流れていました。1時間ちょっとの短い不在だったせいか、母は問題なしでした。一時は大変だったものの、介護は日々楽になってくる。こんな風に安定していると、このまま家にいた方が・・と迷いも浮かんできてしまう。いや、いや、そんなことはない。介護が大変だから施設を選んだわけじゃない。外の世界と触れ合うことが今の母には必要なんだと、改めて自分を納得させています。