マジで何の取り柄もなくなった話 | こだのクソ

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死後評価される

おい、聞いてんのか?

こだです。
 
気が付けばもう夏です。
何も変わらない日々が続いていく中、時間だけが確実に経っている事に焦りを感じます。
今大学4年生ですよ?順当に行けば来年の春には卒業し、社会に出るべき立場となるのです。
 
ちなみに先日こちらが大学に提出した就活状況です。
真っ白ですね。
 
エイプリルフールにも誕生日にもブログを書かずに、
僕は一体何をやっているのでしょうか。
週3でバイトに出向き、週1で大学の授業に出席、残りの3日は自宅で惰眠を貪る。
こんな中身のない生活ですら一杯一杯に感じるというのに、
何か新しく行動を起こす気にはとてもなれません。
これも全部コロナのせいです。僕は悪くないです。
 
そういえば久しぶりに会った友人が随分とイメチェンしていて、
向こうから声を掛けられたのですが、しばらくは声を聞いても一瞬誰だか分かりませんでした。
その後近況報告をしたのですが、そんな中で言われた、
「全然変わってなくてぇぇぇぇ安心したぁぁぁ~」という言葉が今日に至るまで渦巻いています。
 
本当に僕はブリッジをしたまま高校の廊下を這っていたあの頃と変わっていないのでしょうか。
今回はそんな話、夏らしくエモい感じに書けたらなと思います。
なお、内容のキレはジジイの小便と変わらないと思っておいてください。
 
 
かつて僕は古い友人にこのように形容された事がありました。
「こだってぇ~~優しい事が取り柄だよねぇぇぇぇ~~~~~」
その時はそうなのか、と軽く受け止めていましたが、
今となっては馬鹿にされていたのだと思います。
ですが一方で、その頃の僕は確かに優しかったと感じるのです。
殴るって漢字で書くことが出来ませんでしたからね。
相当優しい心の持ち主であったと思います。
 
では今の僕は厳しいのか、少なくとも現在の堕落した生活を見る限り、
自分に甘い事は間違いないのですが、厳しくなったわけではありません。
僕が思うのは、自らを優しいと形容するには捻くれ過ぎてしまったという事です。
僕に掛けられる言葉が全部馬鹿にしているように感じますからね。
例:「えぇ~~~やっぱりぃぃぃ、チュッパチャップスかなぁぁぁ??」
 
僕を優しいと形容した人はこうも言っていました。
「こだからぁぁ~優しいを取ったら何も残らないよおぉぉ~~~」
 
この言葉が真実なら、優しいと言えなくなった今の僕に、
取り柄は何もない事になってしまいます。これは由々しき問題です。
 
このブログをご覧になっている皆様の中には、僕に取り柄があろうがなかろうが、
他人にとってはどうでもいい、興味ないと感じる方もいらっしゃるかと思います。
その感覚は正しく、問題はあくまでも主観的な部分になりますので
今後は芸能人のYouTubeチャンネルでも見ていてください。
 
 
取り柄があると無いでは、精神的な防御力が全く変わってくるのです。
 
生きてて嫌な事ってありますよね。
その種類は多種多様で、突然冤罪をかけられたり、フラれたり、
何故か財布からお金がなくなったりなど、明文化が簡単な分かりやすく嫌な事だったり、
その時には形容するまでもない小さな感情を生むに過ぎなかった出来事が、
重なる事でボディーブローのようにじわじわと効いてくる場合もあります。
 
統計的に右利きよりも、左利きの平均寿命の方が9年も短いとされています。
科学的根拠はありませんが、一説によると、
それは社会全体が右利きに向けて構成されていることによって生まれる微細なストレス、
それらが積もり積もって寿命を縮めていると言われるのです。
 
嫌な事によって生まれるストレス、それは寿命も幾年も縮めてしまう効果があるのです。
そこで、心の支え(転じて取り柄)があることにとってそのストレスを軽減する事が出来ると
ハーバード大学に通う誰かの誰かが研究で明らかにしていた気がします。
 
これって嚙み砕けば心の支えがあれば長生きしやすくなるってことじゃないですか。
嫌な事があっても、「でも僕には○○があるし…」って踏ん張れるイメージで。
 
では僕はどうでしょうか?
そもそも恋人など、分かりやすい心の支えがあれば良かったんですけどね。
そんなものがない人間によっての最後の砦が取り柄だったのです。
 
これらの話を纏めた上で今の僕の状況に当てはめると、
以前はは車に水をはねられても「でも僕優しいし…」とタオルを取り出せていたものが、
現在の僕はその拠り所を失い、
はねられた瞬間その場に崩れ落ちてしまうメンタルになってしまったという事なのです。
 
これでは早死にしてしまいます。
特に長生きしたいわけではありませんが、早死にするのも癪じゃないですか。
探しましょうよ、取り柄。(ちょっと新海誠作品にありそうなセリフですね)
 
 
まず、取り柄は一般的に良い事が選ばれると思います。
そこで、良いを辞書で引いてきました。賢いので。
 
曰く、
人の行動・性質や事物の状態などが水準を超えているさま。
ですって。
 
ここでは水準という言葉が用いられていますが、何の水準なのかは明記されていないんですよね。
取り敢えず、今回は主観的な物差しでいいんじゃないかなと僕は思います。
カレーですら嫌いな人がいるように、全人類が納得できる定義なんて存在しませんし、
心の支えにする取り柄なんて主観的に納得できれば十分ですからね。
それでも、僕の感覚はマジョリティ側に傾いている事は自覚しているつもりなので、
そこまで皆様の感覚とズレた事を定義することはないんじゃないかなと思います、
ご安心ください。
 
 
「良い事」
足が速い、体が柔らかい、気配りが出来る、お金持ち、声が通る、休日、
わかりやすい、手が三本ある、字が綺麗、空が飛べる、汚れない眼鏡、
ドラえもん、晴れ(ただし暑くはない)、帰り道にすれ違うアイツ、黄金比
 
パッと思い浮かぶのはこんな所でしょうか。
ジョジョに出てきた天国に行く14の言葉みたいになりましたね。
取り敢えず、これらが僕の感覚における良い事になります。
 
この中で僕に合致し、取り柄になるものを探したいのですが、
残念ながら当てはまるものはないですね。
「手が三本ある」とかは惜しいんですが、ギリ一本足りてません。
まあまだ思い浮かんでいないだけで他にも良い事はあるでしょう。
思い出しがてら机の整理にでも務めようと思います。
僕はいつも思案に詰まると机の整理をするのです。
 
この前買った漫画、早く読まなきゃですね。
iPhoneの空箱、そういえば移行がまだ済んでいないのでこれも急がなきゃですね。
統計の本、これは今年卒論で使うかもなので取っておきましょう。
ゴミ、捨てます。
イヤホン、試したらもう聞こえなかったので捨てます。
 
色紙、これを見ると複雑な気持ちになります。
お世辞だったとしても、これらの言葉を貰うには自らがちっぽけに感じるのです。
言葉を眺めることによって想起される日々も、それらを肯定するだけの自信が僕にはないのです。
例えどうしようのない今を送っていたとしても、
それを肯定してくれるだけの過去を僕は送っていたのでしょうか。
 
何気なく押し入れにあった小学校の頃のプリントを纏めてあるファイルを手に取ります。
くだらない落書きの紙や、何故取ってあるのかわからない学級通信、テストの紙。
意識を向けるまでもない紙が滑り行く中、進路についての提出物がありました。
人生設計をどんな形でも良いから書いて提出するものであったようです。
僕はその中身を見てハッとしました。
 
 
「将来の夢」と上部に書かれたその紙は、その下が白紙のままだったのです。
その頃から先の事を考えるのは億劫であったようです。
小学校からそんな性格であったのも関わらず、今日までなんだかんだやって来ているのです。
 
先の事を考えるのが億劫で、提出物を真っ白な状態で提出してしまう、そんな変わらない所は
良い事と定義する事が出来るのではないでしょうか。
この過去は現在が、未来が、どうにかなる事を暗示してくれているのです。
 
ここでふと思い出すあの言葉
「全然変わってなくてぇぇぇぇ安心したぁぁぁ~」
聞いた時は疑問と不安で胸を満たした言葉も、今は前向きに捉えることが出来ます。
 
僕はあの頃と何一つ変わったりしていません。
 
だからこそ、自らの肯定することが出来るのです。
 
「変わらない所」、これが僕の取り柄です。
 
 

エッッモ

もう後半泣きながらキーボード叩いていました。

ともあれ、これで取り柄も定まったことですし、日々のストレスを和らげることが出来ます。

突然、電車にいる変な人に絡まれても、「でも僕昔から変わらないし…」と踏みとどまれることでしょう。

ESも白紙で提出します。変わらないので。どこかしらに引っかかるでしょ。

 

人生希望で満ちていますね!鬱も治った気がします。

お疲れさまでした!