88/12 T-SHIRTS
古着(ウ゛ィンテージ)と呼ばれる衣類の歴史を紐解いて探求していくと、実にユニークで興味深い事実を知ったりします^^
例えば、あまり知られていないけど、Tシャツをアメリカに普及させたのは実はミリタリーだったとかね(^.^)b
もともと労働者や農夫が着用していた簡素な下着がルーツで、第一次世界大戦時にヨーロッパへ進行した米軍の兵士たちが、肌にチクチク刺さる廉価なウールの下着より快適だと、本国へ持ち帰ったのが始まりなんだよ。
アンダーウェアとしてはもちろん、フィジカルトレーニング用、またはPX(軍内の売店)で売られるスーベニアとして重宝されていたんだ。
もちろん、戦前から大学の生協では様々なスポーツメーカーのTシャツは取り扱われていたが、爆発的にカレッジユースとして広がったのは戦後のコトだったワケ。
そんな当時のミリタリー系Tシャツは今やコレクタブルアイテムとなっており、ウ゛ィンテージとして流通しているのは戦後のカレッジものが多い。
その中でも特に絶大なる人気を誇っているのが、以前ブログにも書いた“チャンピオン”の「88/12Tシャツ」なんだ。
昨日と同じで、コレは88%コットン、12%レーヨン素材という混紡比率のコト。
それまでは100%コットンが主流だったが、'50年代からナイロンやレーヨン素材が登場し、当時としては新しい素材というイメージが強かったため多くのメーカーが積極的に採り入れたように、チャンピオンもソレに倣ったんだよね♪
なぜ88%なのか?
残念ながらこの疑問に対する明確な答えは出ていないんだ^^;
レーヨンは吸湿、放湿性がよく着心地がとても爽やかだった。
ただし、レーヨンは水に濡れると強度が極めて低くなるため(コレも前に書きましたね^^)、混紡していく際にこの12%というビミョーな数値がリミットだったのだろう。
よく染まる糸なので、スポーティーグレーを表現するのに最適だったコトが混紡の目的として挙げられる。
やがて'80年代になると、より安価で丈夫なナイロンにとって代わっていくのだが、レーヨンが混ざった独特の風合い、そしてミリタリーやカレッジといった'50~'70年代の強いアメリカのシンボルとしてイメージづけられている88/12のTシャツは何物にも代えられないドワイルドな産物だったんだ☆
dowild.s
60/40 CLOTH
アメリカには、学生が発明した服装スタイルが2種類ある。
1つは'50年代半ばに東海岸のWASP出身者(プレッピー)がアイビーリーガーとなって作った“IVYスタイル”。
もう1つは1960年代後半から'70年代前半にかけてノースウエスト地区の大学生たちが作った(ヘビーデューティー)西海岸の“アウトドアスポーツスタイル”だ。
どちらのスタイルも基本的にはお金をかけないのがセオリーだった。
特に後者のアウトドアテイストなファッションは、時代にカンケーなく定番としてのスタイルを不動のモノとしていますよね(^.^)b
'60年代後半にはすでに魔法の素材“ゴアテックス”が完成しており、学生メーカーたちのなかにはいち早くコレを採り入れた者も多かった。
中でも1968年にシェラデザインズによって開発された機能素材「60/40クロス」を使って永続的に着続けられるマウンテンパーカは爆発的人気を誇ったんだ♪
今現在でも街を見渡すと、女の子がロクヨンパーカ着ているのを見かけたり、あるいはロクヨンクロスを用いたデイパック、トートにポーチと、今季特にそのその姿を目にするんですけど^^
この60/40クロスとは、緯糸にコットン、経糸にナイロンを、60/40%の割合で使用し、防水性と放湿性を両立させた素材で、なにがイイって“素材感の妙”コレに尽ます♪
天然コットンの柔らかな風合いと、ナイロンのドライな質感が、絶妙に旧き良きアウトドアテイストを演出してくれるんですよね(^.^)b
ややかすれた感じのニュートラルな色味もこの素材ならではの風情だろう♪
だいぶ寒くなってきたし、俺もダウンベストとの重ね着とかよくやってますよ^^
40年間、愛され続けているアウトドア素材の傑作はさすがどうしてやっぱりドワイルドです☆
dowild.s
SON HOUSE
1965年ニューヨークで、ある歴史的なレコーディングが行なわれた。
その収録とは、ブルースの神様サン・ハウスの名盤「Father of The Delta Blues」
何が歴史的かというと、デルタ・ブルースのパイオニア的存在サン・ハウスは1920年、30年代に活動をしていたブルース・マンなんだけど、その後20年以上も行方が全く分かっていなかったんだ。
1964年に彼の熱烈なファンによって発見されるまで…
本人の証言によると、盟友パットン・ジョンソンを失いブルースに対する情熱を失った彼は、1943年頃ニューヨークへ向かい音楽とは徐々に縁を切ってしまった、と。
ニューヨークでは駅のポーターやギャングの雇われコックなどをして暮らしていたそうだ。
サン・ハウスは30年にデルタ・ブルースの創始者チャーリー・パットンと素晴らしいレコーディング・セッションを行なっているんだけど、その唯一の音源がその後のロバート・ジョンソンやマディ・ウォルターズに多大な影響を与えたとされている。
そう、その音源があったからこそ次の世代のブルース・マンに引き継がれ、50年代以降のR&Bやポップス、R&Rなどのミュージック・シーンも今とは違っていたんじゃないかな?
64年に発見されたときにはサン・ハウスは63歳、このレコーディングでは年齢や20年以上のブランクを感じさせないエネルギーが込められている。
彼のトレードマークともいえるナショナルのリゾネーター・ギターを激しくかき鳴らし、時にボトルネック奏法で、時にハンド・クラップのみで謳いあげられる骨太のブルース。
圧倒的な生命力に溢れ、泥臭くタフで、そしてどこか切ない、紛れもなくこれが本物のデルタ・ブルースだ。
年齢を重ねたことで以前よりも奥行きや深みを増しており、どの曲もよりドラマティックで熱い。
60年代の映像も残っているんだけど、やっぱり演奏している姿まで見えると感動も格別、その荒いギター奏法が凄いんだ。
ぜひ機会があったらチェックしてみてね。
1960年代に発見され素晴らしい録音を残したサン・ハウス、ドワイルドな伝説が蘇った歴史的な出来事だったんだ。
dowild.m
Barack Hussein Obama, Jr.
アメリカ大統領選で民主党候補のバラク・オバマ氏が勝利し、米国史上初となる黒人大統領が誕生した。
ここは日本だし、政治に関してはニュートラルな見方をしているんだけど、いよいよの黒人初の大統領って事に興味があったんだ。
景気悪化などでブッシュ政権に不満を持つ国民や若者、黒人から圧倒的な支持を得たという。
選挙の結果が確定する11月5日、日本で活動をしている知り合いの黒人ミュージシャンと会ったんだけど、その日彼はド派手なオバマTシャツを着ててさ^^
当選が確実になっていくその日、オバマ氏に関して熱く語られたよ(笑)
彼は本気でオバマ氏が当選する事を願っていた。
「新しい歴史の幕開け」なんて言葉をよく耳にするけど、彼らにとってはまさにこの出来事こそがポイントだったんだろうね。
何百年にも渡る肌の色の違いによる人種差別と奴隷制度の歴史。
生まれたときから"自由"を制限され、色々な意味での搾取をされ続けられてきた黒人達。
今や自由を手にした黒人だが、今でも彼らと話すと自分の人種への"誇り・プライド"と共に、これまでの歴史への"わだかまり"が未だに強く残っているのを感じる。
そんな同胞の代表としてオバマ大統領には頑張って結果を表して欲しい、と思う。
初の黒人、そして初のハワイ生まれのアメリカ大統領として、堂々とドワイルドな星条旗を背負って欲しいと願ってます☆
dowild.m
STANLEY MOUSE
昨日に続き今日は、西海岸カルチャーを象徴するサイケデリック・アートの巨匠、ロックポスター・アーティストのパイオニアと呼ばれる「スタンリー・マウス」を♪
この絵ならよく知っているという人の方が多いのかな?!
そんなマウスの描くアートのルーツはホットロッドにある。
ゴールデンエイジ、アメリカングラフティな世界ですね^^
'50年代にまだ10代の若さでホットロッドにハマり、そのイベント会場で自分の制作したホットロッドのアートTシャツを販売し、一躍注目されるようになったんだ。
やがて'65年当時、サンフランシスコには多くのミュージシャン、作家、アーティストらが続々と集まってきていた。
そこで彼はサンフランシスコへと移住、すぐにアーティストのアルトン・ケリーと知り合い、ヒッピー・ムーブメントの中心地“ヘイトアシュベリー”の一角にスタジオを構えた。
2人はマウス&ケリーのコンビで、グレイトフルデッド、ジェファーソンエアプレイン、ジミ・ヘンドリックス、ドアーズ、ジャニス・ジョップリンといった今では伝説となっている錚々たるロックバンドのライブのポスターやアルバムカバーを次々と制作していたんだよ♪
天才的なテクニックを駆使する芸術家のマウスとコンセプトを重視するアートディレクターのケリーによる絶妙なバランスから生まれた最初の作品は、サンフランシスコのアバロンボールルームで開催されたビッグブラザー&ホールディングカンパニーとクィックシルバー・メッセンジャーサービスのコンサートポスターだった。
彼らの制作したポスターは、ショーの場所や日時を重視していた従来のポスターとは違い、自由で大胆な発想でエネルギー溢れるロックをビジュアル化し、アートの域にまで高め、サイケデリックアートとして確立されたんだよ。
サイケデリックにアールヌーボーを組み合わせるその独特な作品は、なんとサンフランシスコ近代美術館やニューヨーク近代美術館にも展示され高い評価を得ている♪
中でもロックバンドのシンボルで最高傑作と言われているグレイトフルデッドのアートピース「SKELTON&ROSE」は、誰もが知るところだろう(^.^)b
今年3月に開催された“ロックの殿堂”で見事に殿堂入りを果たしたミュージシャン全員のアートも制作するなど、西海岸の巨匠は現在もドワイルドな活動を続けているんだ☆
dowild.s
JIM PHILIPS
「ジム・フィリップス」という名前を知らない人でも、大きく開いた口のついた不気味な手、しかも腕から先だけのソイツが空を飛んでるというグロテスクなイラストを目にしたコトはありませんか?
まるで梅図かずおが描くホラーマンガのようなタッチで強烈なインパクトを持つグラフィックは、'80年代を代表するオールドスクールのアイコン的存在と言えるんだよね(^.^)b
その名は“スクリーミングハンド”♪
'70年代半ばから'80年代にかけて、ジムがアートディレクターを務めたスケートブランド“サンタクルーズ”のスケートデッキやTシャツなどに使用され世界に広まり衝撃を与えたんだよ。
彼の作風はなにもグロテスクなモノばかりではない。
サンタクルーズをはじめ、スケート・トラックのインディペンデントなどのロゴも手掛け、活動初期の'60年代から'70年代初頭にかけては、主にサーフ系の雑誌に作品を発表していたんだ。
手のカタチをした大波の“ハンドウェーブ”や、サーフボードを山積みにしたクラシックな“ウッディーワゴン”のイラストは、当時を知るサーファーならばしっかり記憶に焼き付いているのでは^^
また、ロックアートのポスターでも名高いんだよね。
'90年代はサンフランシスコの音楽シーンがピークを迎え、まだインターネットもソコソコにしか普及していなかったため、ライブの告知のためのポスターが必須だった。
もちろんジムも数多く手掛け、それらは単なる捨て貼りの告知ポスターの枠を超えて、サブカルチャーアートとして注目されたんだよ。
現在はポケットピストルズにグラフィックを提供するなど、再びスケート界で才能を発揮し、まだまだ目が離せないドワイルドな存在なんだ☆
dowild.s
Polaroid
今やデジタルカメラやカメラ付携帯電話の普及で、撮った写真はすぐにチェックできるのは当たり前。
ちょっと前まではフィルムを現像に出さないと写真を見れなかったのにね…。
今から遡る事70年以上も前、「どうして撮影した写真がその場でみえないの?」と素朴な疑問を3歳児の娘から投げかけられたエドウィン・ハーバード・ランド博士。
熱心な研究者であったランド博士は1948年、光学協会の席上にて、撮影してすぐに現像のできるポラロイドフィルムを発表したんだ。
そう、それがインスタント写真とポラロイドカメラの誕生だった。
撮影後、水洗も暗室での処理作もせずに1分で写真が現像できる発明に、世界中が注目した。
そして1974年に、ネガ・ポジ一体型でインスタントカメラの元祖と呼ばれる名機「SX-70」を発売。
これはポラロイドカメラをプロユースから、一般のユーザーへ橋渡しする機種として開発されたのだが、その革新的アイディアと手軽さ、そして通常のフィルムにはない独特のファジーな写りがプロ・カメラマンの間でも話題を呼んだ。
デザインをヘンリー・ドレフュス、発売と同時に公開になったPR映画をチャールズ・イームズが担当という豪華な布陣をみても、いかにポラロイド社の熱意を込めたプロジェクトだったのかがよく分かる。
折り畳み式の画期的な変形をするギミックを持ち、少し青味がかったトーンで独特の雰囲気の写真を写し出すSX-70。
画家デイヴィッド・ホックニーは、このカメラで撮った写真で独自のコラージュ作品を次々と発表。
ルーカス・サマラスはフォト・トランスインフォメーションシリーズを、アンドレ・ケルテスは全てSX-70で撮影した写真集「from my window」を出版した。
さらにアンディ・ウォーホルは、仕事ではもっぱら中型で蛇腹式のポラロイドカメラ「ビッグショット」にこだわっていたが、パーティなどではSX-70を片手にハシャぎまくってシャッターを切っていたとか…。
簡単に美しい色彩の写真が撮れて、その場で見れるデジタルカメラ技術はもちろん素晴らしい道具だ。
でも時には荒い画質でノスタルジックな雰囲気を醸し出す、ポラロイドカメラっていうのもドワイルドな選択じゃないかな?
dowild.m
SINGAPORE SLING
イギリスの小説家サマセット・モームをして"エキゾチックな東洋の神秘"と言わしめた、シンガポール湾の夕焼け。
その情景を小さなグラスの中に表現したカクテル、それがシンガポールスリングなんだ。
1915年にシンガポールのラッフルズホテルにあるロング・バーで考案された、というのは有名な話。
そのオリジナルレシピがイギリスのサヴォイ・ホテルでシンプルにアレンジされ、世界中に広まったんだよね。
お馴染みのチェリーブランデーを最後に沈めたキレイなグラデーションってスタイルがどこのバーでも一般的だけど、実はこのレシピは日本だけ。
より夕焼けに近い美しさ、とアレンジしたニッポンの繊細な感性を感じる素晴らしいレシピだと思う。
世界的にスタンダードなレシピは、ドライジンとチェリーブランデー、レモンジュース、シロップをシェークし、そこにソーダを満たしチェリーを飾って完成。
味的には変わらないけど、見栄えの違いだよね。
ところで、ラッフルズホテルは元々このレシピを考案したオリジナルだったんだけど、その後かなり改良が加えられ、全く違ったものになっているそうだ。
何でもパイナップルジュースが入り、10種類以上のフルーツと花で飾られた甘口のトロピカルなカクテルに仕上げているとか…。
ちなみに、元祖ロング・バーではピーナッツの殻をフロアの床に投げ捨てるのが慣わしなんだって。
外ではゴミのポイ捨てに最も厳しいとされるシンガポールなのに…、何故?
もうトロピカルな気分ではないが(笑)、空気の澄んだ美しい夕日を眺めながら酔いしれたい^^
世界一美しい夕焼けをスリング(飲み込む)するドワイルドなカクテル。
シンガポールスリングで美しき秋の夕焼けに乾杯☆
dowild.m
QUINTESSENCE
イギリスには古くから“カントリージェントルマン”という言葉がある。
田舎の広大な土地に暮らし、農作業などをしながら日々を送る貴族などの有産階級の男たちを指す言葉だ。
彼らはリタイアしたワケではなく、常に中央の政治の動きに目を光らせていざという時に駆けつける。
しがらみの無い田舎に暮らし、時にストイックに鍬をふるい汗を流す生活の中で精神が磨かれ、世の中を俯瞰して見るコトができるという効果もあったのだろう。
一方、アメリカ合衆国はアイデアの宝庫と言われる。
ライフスタイルへの刺激物は枚挙にいとまない。
しかし一方でこの国には長年変わらない生活習慣があり、ソコに根付いたプロダクトやサービスもある。
ソレを端的に表す言葉が“スタンダード”であり、その先にある永続的に愛される真髄的なモノを、彼らは「QUINTESSENCE(クィンテッセンス)」と呼ぶ。
クィンテッセンスとは…
①普遍性(アメリカはハードワークの国だ。職種や業種に関わらず仕事のための服装や道具は普遍的機能に満ちている)
②頑強さ(野性と知性を同時に充足させたい。ウォール街でひと儲けした成功者が郊外に牧場を買い、休日は愛馬とともに過ごしたいと願う)
③独創性(オリジナリティ。職種やポジションに関わらず、彼らは他には決してコピー&ペーストできない人生を好む。自らの人生は自らで切り拓くというフロンティア精神がクィンテッセンスを生み出す背景にある)
④孤高性(何歳になっても自由人でありたい。誰も知らない場所へエスケイプしたい。ソレは孤高のヒーローに対する強い願望ゆえだ)
⑤プライド(家族を守る誇り、国に対する誇り、仕事への誇り。普遍的なモノを決定づける最後のキーワードは男としての誇りというワケ)
この5つの条件を満たすアメリカンライフスタイルの真髄には“カウボーイ”が最も近い。
身につけるモノすべてが道具という仕事に根差した独創的なアイディアや、数ヶ月もの野営生活に十分耐えられるだけの強さを持った素材の衣服、ソレを着るカウボーイたちの孤高の精神やプライドはまさにドワイルド・クィンテッセンスと呼ぶにふさわしい☆
年々カウボーイ生活者は減少し、残された者の生活も逼迫してるのが現実なんですけどね^^;
dowild.s
PAUL NEWMAN
10月3日、午後8時。
演劇の聖地、ブロードウェイの灯が1分間だけ消えた…
そう、その前週に83年の生涯を終えた俳優、ポール・ニューマンへの追悼だった。
彼は1953年にこの地で舞台デビューを果たし、その後ハリウッドで大成功を収め、アメリカ国民の誰からも愛される名優となったんだ。
ポール・ニューマンという男は紛れもなく最高の俳優であり、最高の人間であったと思う。
彼の人生は単に映画界への貢献に留まらず、アメリカ社会をも変えたひとりですからね。
1925年、ニューマンはオハイオ州でハンガリー系ユダヤ人の父とカトリックの母との間に生まれる。
家庭は決して貧しくはなかったが、幼い頃から人一倍“反抗心”の強い子供だった。
“生きていく上で挑戦すべき壁が多いから”という理由で、自らユダヤ人であると周囲に語っていたくらいにね。
当時のユダヤ人に対する差別は凄まじいモノがありましたから…
第二次大戦では海軍に入隊、雷撃手として沖縄戦にも参加し、終戦後には大学でフットボールに打ち込んだがチーム内のケンカで除名され^^;演劇の道へ。
イェール大大学院のドラマ科を経て'52年に名門アクターズ・スタジオに入学する。
ジェームズ・ディーン、マーロン・ブランドと同期だったんだよね(^.^)b
舞台で高い評価を得たニューマンは'54年に「銀の盃」で映画デビューをするもコレが自他共に認める駄作だったんだ。
ディーンが「エデンの東」、ブランドが「波止場」でスターへの道を駆け上がる一方、ニューマンは無名で燻り続けた。
しかし、そんな彼に巡ってきたチャンスが'56年の「傷だらけの栄光」で、ソコから先は名実ともに世界的スターへの仲間入りを果たしていったんだよ。
多くの受賞作品に出演をし続け、極めつけが'69年の俺も大好きな映画「明日に向かって撃て!」♪
ロバート・レッドフォードと共演し、自由奔放で楽天家の強盗ブッチを演じたこの青春西部劇は、彼の出演作の中では最高のヒットを記録した。
俳優としての底知れぬ才能を見せつけると同時に、斜陽にあった西部劇に鮮烈かつフレッシュな光を当てた作品でもあったんだ。
ラストシーン…数百人の軍隊に包囲され銃撃戦で負傷した絶体絶命の2人。
これ以上逃げられるワケがない中、そんな状況でもブッチはサンダンス(レッドフォード)にこう語りかける。
「次はオーストラリアに行こうゼ。あそこなら英語が通じるからな」^^
映像が静止し、画面がセピア色に変わるこのラストシーンは、映画史に燦然と輝く名場面だ♪
バックに流れるバート・バカラックの音楽と全編に溢れるオプティミズム(楽観主義)は、観る者に感動を与えた。
当時、アメリカはベトナム戦争の真っ只中、戦況の悪化と帰還兵でアメリカ全体に閉塞感が漂っているそんな時代に「人生はオプティミズムと希望が柱」という強烈なメッセージを発したワケだから、当然の如くアメリカ国民を勇気づけたワケ。
同じくレッドフォードと共演したコメディ「スティング」('73年)でも「人生はコメディであり、偉大なるエンターテインメント」というオプティミスティックなメッセージが伝わってくる。
あくまで人生は「笑ってる場合」ってコトかな(笑)
アメリカを代表する俳優に、ジョン・ウェインがいた。
西部劇や戦争映画に数多く出演したウェインが“強いアメリカ”を象徴する存在だったのに対しニューマンは違った。
彼はいつも等身大のアメリカ人を演じていたからだ。
多くのアメリカ人男性は彼の演じる主人公の人生に一喜一憂し、喜怒哀楽に共感したハズ^^
なぜならば、いつまでも少年の心を持ち続け、彼自身が「all American boy」を体現していたからだ♪
政治活動・レーサー・愛妻家・実業家という多くの顔を持ちながらね。
彼が死ぬまでに慈善事業(特に不幸な子供たちが対象)に寄付した金額はなんと2億5000万ドル(約250億円)
彼の慈善の精神は、アメリカに寄付の文化を根付かせた。
慈善事業に寄付するハリウッドスターは多いが、ニューマンの場合は桁が遥かに違っていたんだよね^^
おしどり夫婦の秘訣を聞かれた時には、こう答えている。
「家でステーキを食べれるのに、どうしてわざわざ外にハンバーガーを食べに行かなきゃいけないんだい?」と(*^_^*)
このコトバはアメリカ人が好んで使うキマリ文句になったほどだ^^
3年前のTV番組で、記憶力の低下を理由に引退を表明したのはものすごく残念だったけど、彼らしい引き際だったように思う。
ニューマンの人生とは、反骨心を胸に抱き、体制に反逆し、不可能に立ち向かったドワイルドなモノだった。
彼の人生から何を感じ取るかは人それぞれだろう。
俺が思うにポール・ニューマンは間違いなく全戦全勝の人生を送ったに違いない☆
合掌。
dowild.s


















