PAUL NEWMAN
10月3日、午後8時。
演劇の聖地、ブロードウェイの灯が1分間だけ消えた…
そう、その前週に83年の生涯を終えた俳優、ポール・ニューマンへの追悼だった。
彼は1953年にこの地で舞台デビューを果たし、その後ハリウッドで大成功を収め、アメリカ国民の誰からも愛される名優となったんだ。
ポール・ニューマンという男は紛れもなく最高の俳優であり、最高の人間であったと思う。
彼の人生は単に映画界への貢献に留まらず、アメリカ社会をも変えたひとりですからね。
1925年、ニューマンはオハイオ州でハンガリー系ユダヤ人の父とカトリックの母との間に生まれる。
家庭は決して貧しくはなかったが、幼い頃から人一倍“反抗心”の強い子供だった。
“生きていく上で挑戦すべき壁が多いから”という理由で、自らユダヤ人であると周囲に語っていたくらいにね。
当時のユダヤ人に対する差別は凄まじいモノがありましたから…
第二次大戦では海軍に入隊、雷撃手として沖縄戦にも参加し、終戦後には大学でフットボールに打ち込んだがチーム内のケンカで除名され^^;演劇の道へ。
イェール大大学院のドラマ科を経て'52年に名門アクターズ・スタジオに入学する。
ジェームズ・ディーン、マーロン・ブランドと同期だったんだよね(^.^)b
舞台で高い評価を得たニューマンは'54年に「銀の盃」で映画デビューをするもコレが自他共に認める駄作だったんだ。
ディーンが「エデンの東」、ブランドが「波止場」でスターへの道を駆け上がる一方、ニューマンは無名で燻り続けた。
しかし、そんな彼に巡ってきたチャンスが'56年の「傷だらけの栄光」で、ソコから先は名実ともに世界的スターへの仲間入りを果たしていったんだよ。
多くの受賞作品に出演をし続け、極めつけが'69年の俺も大好きな映画「明日に向かって撃て!」♪
ロバート・レッドフォードと共演し、自由奔放で楽天家の強盗ブッチを演じたこの青春西部劇は、彼の出演作の中では最高のヒットを記録した。
俳優としての底知れぬ才能を見せつけると同時に、斜陽にあった西部劇に鮮烈かつフレッシュな光を当てた作品でもあったんだ。
ラストシーン…数百人の軍隊に包囲され銃撃戦で負傷した絶体絶命の2人。
これ以上逃げられるワケがない中、そんな状況でもブッチはサンダンス(レッドフォード)にこう語りかける。
「次はオーストラリアに行こうゼ。あそこなら英語が通じるからな」^^
映像が静止し、画面がセピア色に変わるこのラストシーンは、映画史に燦然と輝く名場面だ♪
バックに流れるバート・バカラックの音楽と全編に溢れるオプティミズム(楽観主義)は、観る者に感動を与えた。
当時、アメリカはベトナム戦争の真っ只中、戦況の悪化と帰還兵でアメリカ全体に閉塞感が漂っているそんな時代に「人生はオプティミズムと希望が柱」という強烈なメッセージを発したワケだから、当然の如くアメリカ国民を勇気づけたワケ。
同じくレッドフォードと共演したコメディ「スティング」('73年)でも「人生はコメディであり、偉大なるエンターテインメント」というオプティミスティックなメッセージが伝わってくる。
あくまで人生は「笑ってる場合」ってコトかな(笑)
アメリカを代表する俳優に、ジョン・ウェインがいた。
西部劇や戦争映画に数多く出演したウェインが“強いアメリカ”を象徴する存在だったのに対しニューマンは違った。
彼はいつも等身大のアメリカ人を演じていたからだ。
多くのアメリカ人男性は彼の演じる主人公の人生に一喜一憂し、喜怒哀楽に共感したハズ^^
なぜならば、いつまでも少年の心を持ち続け、彼自身が「all American boy」を体現していたからだ♪
政治活動・レーサー・愛妻家・実業家という多くの顔を持ちながらね。
彼が死ぬまでに慈善事業(特に不幸な子供たちが対象)に寄付した金額はなんと2億5000万ドル(約250億円)
彼の慈善の精神は、アメリカに寄付の文化を根付かせた。
慈善事業に寄付するハリウッドスターは多いが、ニューマンの場合は桁が遥かに違っていたんだよね^^
おしどり夫婦の秘訣を聞かれた時には、こう答えている。
「家でステーキを食べれるのに、どうしてわざわざ外にハンバーガーを食べに行かなきゃいけないんだい?」と(*^_^*)
このコトバはアメリカ人が好んで使うキマリ文句になったほどだ^^
3年前のTV番組で、記憶力の低下を理由に引退を表明したのはものすごく残念だったけど、彼らしい引き際だったように思う。
ニューマンの人生とは、反骨心を胸に抱き、体制に反逆し、不可能に立ち向かったドワイルドなモノだった。
彼の人生から何を感じ取るかは人それぞれだろう。
俺が思うにポール・ニューマンは間違いなく全戦全勝の人生を送ったに違いない☆
合掌。
dowild.s


